○第116回(2012/5)
「フェイスブック」が上場した。今やマイクロソフトなどと並ぶ、世界的な大企業である。フェイスブックを介して、世界中の人々が「つながっている」と言われる。そして、その「つながり」が称揚される。バラバラになった近代的個人に告げられた福音であるかのように。「人はみな、一人では、生きていけないものだから。」(「ふれあい」中村雅俊歌)
しかし、ぼくはこの「つながり」に、どうしても馴染めない。だから、フェイスブックにもツィッターにも書き込まない。徹底的に匿名性を保持したい訳ではない。むしろ逆である。でなければ、こんなコラムを書いたり、本を出したりはしない。
ありていにいえば、「フェイスブック」や「ツィッター」で容易に形成される「つながり」に、何かしらいかがわしさを感じるのだ。安易な「つながり」に、安易な疎外、排除の危険を感じると言ってよいかもしれない。
もちろん、人間は他者との「つながり」無しには生きていけない。「つながり」は、人が生きていく原動力であるし、大きな喜びを生んでくれるものでもある。「3.11」を経験した日本人が、「絆」を昨年を象徴する言葉として選んだ所以であろう。
しかし、「つながり」も度を超して大きく複雑になると、予期せぬ災厄の原因となる。そう指摘するのが、『つながりすぎた世界』(ダイヤモンド社 2012年)のウィリアム・H・ダビドウである。
「つながり」がどんどん範囲を広げ複雑になると、「過剰結合」と呼ぶべき状況が起きる。「正のフィードバック」(ある変化がさらなる変化を促すこと。「正の」関係ない)によって次々に専門化が進み、それがやがて脆弱性をもたらす。結びつきが増したことで環境が激変し、社会がついていけなくなって文化的遅滞を引き起こし、やがて破局を迎えるのである。
そうした事態を、ぼくたちは最近しばしば目の当たりにしている。サブプライム問題に端を発した世界的な金融危機、なだたる大企業やアイスランド、ギリシアといった国家の破綻、デフレ、高い失業率の出口なき継続……。
これらの事態の陰に、インターネットの存在があるのは確かだ。それ自身「正のフィードバック」によって成長したインターネットは、人々の、社会の「つながり」を等比級数的なスピードで拡大したからだ。(そもそも前世紀末に、先に列挙した事態の先駆けとなったのは、ネット・バブルだった。)
インターネットそれ自体は悪ではない。経済成長を遂げられたのも、製造・輸送・サービス産業・小売における生産性の世界的な高まりも、すべては「つながり」の拡がりのおかげであり、インターネットの貢献が多大であったことは疑えない。
余りにインターネットに依存し、そのことに無自覚となり、「過剰結合」が制御不能な状況を生み出すことに、常に注意を払い防いでいくことは、後戻り出来ないところまでインターネットが浸透した社会に生きるわれわれの責任なのだ。それは、技術の進歩によって解き放たれたわれわれ自身の欲望の肥大化を抑えることと、同義であるかもしれない。
「つながり」を拡げ、複雑にしたのはインターネットが初めてではない。鉄道も、電報も、自動車も、皆そうであった。技術への過度の依存は、人々の行動をどんどん「他律化」しいく。「他律化」の度が過ぎると、連鎖的な悪循環(「模倣」のスパイラル?)に、陥り、「逆生産性」をもたらす、とイヴァン・イリイチは危機を訴えた。それを受けて、不可避に見える「破局」を免れる途を懸命に模索するのが、ジャン・ピエール=デュピュイである。(『ツナミの小形而上学』岩波書店 2011年、『チェルノブイリ』明石書店 2012年、『ありえないことが現実になとき』筑摩書房 2012年)
破局に出遭ったときに、人は言う。
「こんなことになるなんて、思ってもみなかった!」と。そして同時に、「いずれこうなることは、分かっていた!」と。
真っ向から矛盾する二つの言葉を、「9.11」、世界的な経済破綻、「3.11」などに際して、ぼくたちは何度繰り返し聞いてきたことか…。
生起する前には可能態の領野に入って来ない破局を、予測することはできないのだ。破局に向けて、われわれが自らを先取りすることは、決してできない。
同時に、破局は、起こってしまえば、それまで絶えず必然的なものであったことになる。
われわれの行く手には、環境破壊や核戦争といった、更に壊滅的な破局が、彼方に(或いは意外に近くに)立ちはだかっている。それでも、破局について、人は知っていても信じることが出来ない。
破局を告げる預言者がペテン師の汚名を免れるのは、実際に破局が起こったときである。しかし、それでは遅すぎる。
では一体どうすればよいのか?
(地球全体を動かすために外部に求められる)「アルキメデスの点」を、過去ではなく、未来に設定し、結果としての未来の視点からわれわれの現在を眺めるときに生まれる倫理を、わがものとすること。実現しないだろう不可避の出来事に注意を傾ける時にのみ、この不可避の出来事が実際には起こらないような方法を見出すことができる、とデュピュイは言う。いわば、その預言が外れるために預言を信じる、これが破局を免れる唯一の道なのだ。
『ツナミの小形而上学』の中でデュピュイが引いている、『創世記』のノアをテーマとしたギュンター・アンダースによる寓話が、見事にそのことを表現している。
ノアは洪水の到来を告げて回る。「その破局はいつ起きたんだ?」「明日だ」と答え、「洪水がすでに起きてしまったときには、今あるすべてはまったく存在しなかったことになっているだろう。……私があなたたちのもとに来たのは、その時間を逆転させるため、明日の死者を今日のうちに悼むためだ。明後日になれば、手遅れになってしまうのだからね。」その晩、一人の大工と一人の屋根職人がやって来た。「方舟の建造を手伝わせてください。あの話が間違いになるように。」
わがCHIグループでは、同一のIDで紙の書籍と電子書籍の双方を購入できる「ハイブリッド書店 honto」のサービスが開始された。6月以降は共通ポイントカードが始動、ジュンク堂書店、丸善、文教堂の店頭で本を購入いただいた際もポイントが付く(随時導入。但し、導入時期が未定である店舗が過半を占める)。そして顧客一人ひとりの購入履歴を入手・整理して、お客様への購入履歴の提示やリコメンデーションのためのデータとする。
このようなプロジェクトでまず大切なのは、何をおいても会員の獲得である。各店の情報も発信してくれる予定だから、ぼくたちの店舗一店一店も、「ハイブリット書店」の一つの枝である。そして毎日、間違いなく本好きのお客様と顔を合わせ、言葉を交わす場である。現在のところ(そして願わくば将来に亘って)、読者と最も近い空間である。当然会員集めが期待される。
5月1日(火)、今回のプロジェクトの中心人物である、丸善CHIホールディングス株式会社小城武彦社長が来阪され、ジュンク堂、丸善の関西の店舗の店長が召集された。そこで改めて「honto」リニューアルの概要が説明され、すべての店舗が会員獲得の最前線となることを要請された。
後追いのhontoがアマゾンに追いつき追い越す目算とその方法など、具体的で核心的な質問がいくつも出たあと、最後にぼくは、その日恐らく最も意地悪な質問を小城さんに浴びせかけた。
「会員が集まり、hontoの電子書籍や通販に客が流れていき、会員獲得の使命を果たした後は、ぼくら店舗は『お役目ご苦労さん』と捨てられてしまうのではないですか?」
もちろん、「破局」を免れるための、間違いとなることを目指した「預言」である。
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