○第118回(2012/7)

  7月22日(日曜日)、東京大学の安冨歩さんをジュンク堂書店難波店にお招きし、トークイベント「脱出口はどこだ!」を開催した。今年一月に刊行され、発売2ヶ月で五刷と大変話題になった『原発危機と「東大話法」』(明石書店)の続編にあたる『幻影からの脱出』(明石書店 2012年7月)の刊行を記念したイベントである。

 元々ぼくは『経済学の船出』(NTT出版2010年11月)で、安冨歩の大ファンになった。マイケル=ポラニー、ドラッカー、網野善彦、ブローデルらの多彩な思想・言説に「寄港」、それらを有機的に結びつけて、実に刺激的で読み応えのあるこの本で安冨は、「必要なものが必要な場所に適切に届けられて創発的価値が生まれ、人間の生きる力が発揮されること」こそ、経済活動の本質と言い切り、これまでの「経済学」を徹底的に批判した。その学問的視野の大きさ、論理の明快さと現実との確かな切り結びに、大いに魅了されたのである。

 告白すると、次から次へと刊行される「原発本」の中で、「東大話法」という言葉に引かれながらも、迂闊にも最初それが安冨歩の著書だと気がつかなかった。気がついたのは、複数の出版業界の友人から「安冨歩の『東大話法』にハマっている」と聞いてからであった。

 安冨は、「原子力ムラ」を中心とした東京大学出身者・関係者の、「3.11」後の欺瞞に満ちた言説の中に共通の「物言い」を発見、それを「東大話法」と呼ぶ。

 「規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。……規則20 「もし〇〇〇であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。」という規則を持つ「東大話法」は、かねてより安冨が提唱してきた「東大=ショッカー」説を裏付けるものであり、「世間に認められようが、認められまいが、正しいことは正しく、間違ったことは間違っている」という安冨の信念と、真っ向から対立するものだった。

 更に、自身東大で教えている安冨は、「東大話法」を語る人種が日本の支配階層を受け継ぐべく着実に再生産されている様を、目の当たりにしている。何でもかんでも100点解答を出してくる東大生という人々は、想像を絶する人種である。なぜそういうことが可能なのか、理解に苦しみ、色々と考えた結果、それは自分の考えというものがないからだ、と安冨は言う。自分の身体感覚に沿って思考をし、理解していくと、身体感覚に合わない部分には、身体が反応して拒絶するものだが、彼らにはそれが無い。安冨によれば、すべての学問には穴・盲点があるが、そのことを平気でスルーできるのが、「東大の人々」である。彼らは、真実よりも「立場」を中心に考えて、発言する。「お前は一体、どういう立場で話しているんだ!?立ち位置をはっきりさせなさい!!」と繰り返して、学生を指導するという。そうして、原子力発電を推進する「立場」にいて、いかにその発言内容が荒唐無稽で矛盾に満ちたものであっても、その「立場」を守るために強弁を続ける「原子力ムラ」の人々が再生産されてきたのだ。

 ぼくたち(人間だけでなく生きとし生けるものすべて)の生のシステムを含む世界のシステムの抽象化が、端的に言えば「原因→結果」の図式しか無い短絡的な思考が、こうした「立場」の強弁を形成する、と安冨は言う。

 「生きる」というシステムは、そして世界の動きは、様々な円環システムから成っている。円環である以上それは元いた場所に戻ってくるが、その時その場所は出発点とは明らかに異なっている。システムを一周する間に、様々な「ゴミ」が付着しているのだ。その「ゴミ」こそが、「エントロピー」と呼ばれるものである。

 実は、システムにとって、その「ゴミ」をどう始末するかが、システムを動かし続ける燃料の問題よりも、ずっと重要で困難を伴う問題なのはである。「原子力発電所は、日本みたいに資源のない国では必要」と「東大話法」は主張し続けるが、より重要な「ゴミ」の問題の解決を一顧だにしない。実は、かつての日本の里山は、その解決法を備えたシステムであった。即ち、人間の生活を含めた生態系全体が、「ゴミ」を捨てるシステムを内包していたのである。山が多く、雨による水量にも恵まれた日本は、世界に稀有な「エントロピー処理資源国」だったのだ。原発推進を含む戦後の「開発」が、そのエントロピー処理資源を次々に破壊していったのである。

 放射能も、放射性廃棄物も、原発のシステムは、発生させた「ゴミ」を捨てる術を持たない。かろうじて残された日本のエントロピー処理資源も、それらに対しては無力である。

 二発の原爆を経験した日本の戦後は、皮肉にも、原発推進のトップランナーの道を歩んでしまった。所謂「五五年体制」の対立構造をなす筈の「保守/革新」(=都会の知識人を中心とする体制派)も、田舎の非知識人によって構成される非体制派を率いて体制派と対峙した田中角栄派も、前者にとってはアメリカとの関係や安全保障の面で、後者にとっては田舎にお金を落としてくれるという点で、いずれにしても原発は有意義だったからだ。その背景には、アメリカ、ロシア等が地球を何回も破滅させる核兵器を持ち、更に多くの国が原子力発電を行っている「発狂」した世界の現状がある。そうした流れの中で、「東大話法」が蔓延する「原子力ムラ」が、支配力を持ち続けてきたのである。

 では、どうするか?

 『原発危機と「東大話法」』と『幻影からの脱出』の間に、安冨は『生きるための論語』(ちくま新書 2012年4月)を上梓している。東アジア最重要の古典『論語』から「人間が真に自由に、生き生きと存在するために必要なこと」を読み出すこの本に、ぼくたちは多くの示唆を与えられる。

 「学習」(学びて時にこれを習う);何かを学んで、それがあるときハタと理解できて、しっかり身につくこと。自分自身の既存の枠組みの中に外部から何かを取り込むことが「学」であり、それが自分自身のあり方に変化を及ぼして飛躍が生じる瞬間が「習」である。世界とのやりとりのなかで、自分のあり方の変更を恐れないことが、学習の大前提。

 「正名」(名を正す);「名」を正しく呼ぶことが、人間がまともに生きるための第一歩である。というのも、人間は、世界そのものを認識して思考しているのではなく、「名」によって世界の「像」を構成し、それによって思考しているからである。名と名の関係性を組み替えたり、あるいは名を与えられた像の運動を構成したりすることで、我々は思考し、行動している。それゆえ、名を歪めてしまうと、我々は自らの世界に生じる事態についての正しい像を構成できなくなってしまう(ex.「危険」を「安全」と呼ぶ)。「正名」は、現代社会が最も必要としている思想である。

 「作亂」(亂を作す);「忠孝」を尊ぶ『論語』は、一見支配者に従う事を是とすると思われるが、それは全くの誤解。「作亂」は、義のために例を尽くしつつ、盟を守りながら意見を対立させ、それを通じて「和」をもたらすということである。君子の交わりは、相互に考えが一致しているかどうかなど問わず、むしろその相違を原動力として進む。こうした相互の違いを尊重する動的な調和を「和」という。よって「作亂」も、「犯上」(上を犯す)も、『論語』においてはむしろ正しい行為である。論語の「忠」は「犯」や「乱」を通じて「和」を達成するものなのである。

 「過ちて改めず、これを過つという。」安冨が「『論語』の基本思想」と言うこの一文こそ、「3.11」を経てなお「原発は安全だ」と「東大話法」を使い続ける「原子力ムラ」が、そしてそれに対峙するわれわれが、最も耳を傾け、依拠すべき言葉であろう。そして、原発に限らず、破滅に向かうすべてのシステム(例えば、出版・書店業界の揺れ動く現状)に向き合う際にもまた、然りである。

 “ドラッカーの言うように、「利」は制約条件に過ぎず、何をなすべきかを教えてくれない。ものごとは、あくまでも「意義」の側面を中心に考えるべきである。それゆえ君子は、ものごとをまずは「義」の側面に移して考える。ところが小人は、まずは「利」の側面に移して考えてしまう、というのである。”(『生きるための論語』P248)

 



 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)