○第120回(2012/9)

 ティム・ウー著『マスタースイッチ 「正しい独裁者」を模索するアメリカ』(飛鳥新社)を大変面白く読んだ。

 アメリカの20世紀は、メディアが飛躍的に発展した百年だった。電話、ラジオ、映画、テレビ…、そしてインターネット。

 新しいメディアは、実際に現れるまでは想像もつかないものだから、常に世界の片隅で ―例えばガレージで― 発明される。それゆえ、すべての新メディアは登場した時には自由で、オープンである。

 ところが、それが産業化されると、必ず整理統合が起こる。メディアを支配する巨大企業が生まれ、時に政治権力と結託し、時にコングロマリットを形成して、総てを支配する「マスタースイッチ」を握る。そして、「マスタースイッチ」を握ったものは、永久支配を夢見た世界の支配者クロノスが支配者の座から引きずり下ろされる事を恐れて生まれた我が子を食らい続けるように、自由なイノベーションを排除する。新しく生まれた革新的な産業も、いつのまにか集中化が進み、やがて活気を失っていく。その変貌の過程を、著者は「サイクル」と呼ぶ。

 ネットワークの各機能が地層のように分けられた階層型になっていて、企業同士が合併しなくても、合併した場合と同じメリット(共同事業の相乗効果や効率化)が得られるインターネットは、その性質上、独占の魔の手にもびくともしないと言われてきた。

 本当にそうなのか?インターネットは、「サイクル」から真に自由なのか?

 著者が突きつける重大な問いである。

 但し重要なのは、解説の坂村健も指摘しているように、メディアの発展の中で繰り広げられているのは「自由か独占か」という二者択一的な争いではない、ということである。まして、「自由=善:独占=悪」というナイーブな図式ではない。
 新しいメディアは、多くの人びとの数知れない試行錯誤と失敗の後、自由な発明・開発の中で生まれる。シュンペーターが「絶えず内部から経済構造を一変させ、絶えず古い経済構造を破壊し、絶えず新しい経済構造を創造している産業変化の過程」と言う、典型的なイノベーションである。

 だが、どんなに素晴らしい発明・アイデアも、それが広く知られ使用されるようにならなければ、歴史の中に埋もれ忘れ去られるだけだ。経済の駆動力である真のイノベーションとなるためには、それが企業化され産業化されなければならない。著者ティム・ウーは、「我々の記憶に残る発明家のすごいところは、「何かを発明したから」ではない。これまでの常識を破壊する産業の生みの親として重要なのだ。」(P17)と言う。

 企業を立ち上げ、新しい産業を生み出して育てていくためには、資金がいる。ウーによれば、「「天才」というのは、単なる頭脳ではなく、頭脳と資本がセットになった状態と言った方が適切」(P161)である。シュンペーターは、競争のある市場よりも、独占企業の方がイノベーションをもたらす主体に適している、とも主張している。

 「映画の場合、巨額の予算が必要な作品には大きなリスクが付き物だが、組織の規模が大きければ、リスクを分散できる。」(P230)ハリウッドの数社が寡占的に映画界を牛耳るまで、アメリカでは、高々20分くらいの長さの、小予算の映画しかつくられていなかった。映画は水もので、興業的にヒットしなければ大赤字のリスクがあるからだ。大作を撮るには、組織の規模と資本の大きさが必要だったのだ。20世紀の終盤になると、「コングロマリットは、他の業界での利益を持ってくる形で、失敗作という爆弾の信管を見事に外し、映画を始めとするエンターテインメントの黄金時代を支えたのである。」(P251)

 財務基盤の安定化につながり、リスクの大きな企画でも検討する余裕を生むコングロマリットは「文化経済の最大の敵にもなれば、最高の親友にもなる。」とウーは言う。「(コングロマリットの)支配者はどうしても保守的で杓子定規になりやすい。しかも、知的財産でいかに稼ぐか、知的財産をいかに流通させるかで頭がいっぱいだ。」(P245)その結果、「映画は、「語り部」としての価値が後退し、広告としての比重がはるかに大きくなった。」(P260)また、かつてのハリウッド寡占期には、プロダクション・コードと呼ばれる事前検閲制度によって、「結婚は善、離婚は悪、警察は善、ギャングは悪といった「正解」から大きく外れた映画が世に出ることはなかった。当然ながら『ゴッドファーザー』のような作品が出回る余地はない。」(P181)

 「通信産業でも、(映画界と)同様の理由で、大規模化や独占の誘惑が生まれる。」(P230)

 電話回線が一社に握られることは、―その企業がノブレス・オブリージュを自覚している限りは―利用者の便益の面で確かにメリットもあったであろう。しかし、ここにも明らかな副作用の例がある。

 「被害妄想のAT&Tが、長年にわたってお蔵入りにした技術は記録装置に限らない。光ファイバー、携帯電話、DSL、ファックス、スピーカーフォンなど枚挙にいとまがない。どの技術もあまりに大胆奇抜で、AT&T上層部を慌てさせるものだった。」(P119)まさに、「クロノスの恐れ」である。実際、「AT&T解体をきっかけに、1980年代以降の重要な通信革命が次々と巻き起こることになる。その延長線上で30年後のインターネットや携帯端末、ソーシャルネットワーキングが出現することになると誰が想像できただろうか。留守番電話をお蔵入りにするような企業が健在では、そうした新技術の到来を創造するのは難しい。」(P180)

 また、国家安全保障局(NSA)が米国国民の電話会話やインターネットのやり取りを令状なしに盗聴できるようにする、2002年ブッシュが署名した大統領命令を実行に移すためには、国内のすべての電話会社の助力が必要であり、AT&Tの復活による電話システムの統合は、大変都合がよかった。(P268、281)

 時代を遡りドイツで、「一九二〇年代にラジオの集中管理体制に一気に突入し、一九三〇年代にはラジオ放送がナチスのプロパガンダの中心的役割を担った」(P92)ことは、改めて指摘するまでもないくらいに、周知の事実である。

 こうして、『マスタースイッチ』に導かれながら、20世紀アメリカのメディア興亡史を辿っていくと、そして近年の利益や存在感のいくつかの極への圧倒的な集中を見れば、先の問い「インターネットは、「サイクル」から真に自由なのか?」の答えは、明らかに“NO”である。我々は、イノベーションと産業の「サイクル」の必然的な進行とその段階ごとの功罪を学ばねばならないだろう。


 さて、われらが出版=書店業界も、重大なターニングポイントに立っている(?)。電子書籍が、真に「内部から経済構造を一変させ、古い経済構造を破壊し、新しい経済構造を創造」するイノベーションであれば、旧いものは廃れていくだろう。だが、そうであるかどうか=電子書籍が紙の本に取って代わるのかどうかは、まだ分からない。にも拘らず、業界の方が一足先に、件の「サイクル」に飛び込み、自ら「サイクル」を動かし、整理統合へと急いでいるようにも見える。その動きが、ひたすら自らの権益確保と保身を専らとし、読者への視線を欠いていはしないかと、恠しむ。
 



 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)