○第123回(2012/12)

 12月23日(日)、奈良市の奈良県新公会堂で行われた『第一回古事記大賞表彰式』に審査員として出席した。

 主催は奈良県で、『古事記』成立1300年を記念し、観光都市奈良をアピールしようというイベントである。11月27日(火)に行われた二次審査には、ぼくのほかに啓林堂書店学園前店の松井典子さん、若草書店近鉄奈良店店長の南敦子さんの計3名(当初紀伊國屋さんにも声を賭けるという主催者側のお話だったが、紀伊國屋さんからはどなたも見えなかった)の書店員が当たった。ぼくたちが任されたのは、100数冊のノミネート作品をすでに全国の図書館員の方々が絞り込んだ10点の候補作から大賞をはじめとして計5点を選ぶ二次選考であり、候補作の性格と各賞の組み合わせを考えるとほぼ決定してしまう、手間のかからぬものであった。

 受賞作は次の通り。大賞:『古事記(別冊太陽 日本のこころ一九四)』(平凡社)、太安万侶賞:『日本を読もう わかる古事記』(西日本出版社)、稗田阿礼賞:『古事記 不思議な1300年史』(新人物往来社)、しまね古代出雲賞:『はじめての日本神話−『古事記』を読みとく』(筑摩書房)、宮崎ひむか賞:『古事記 神々の詩』(鉱脈社)。

 最初、営業本部からこの話が回ってきた時、正直ぼくはあまり気乗りがしなかった。古代史や古典文学についての素養も、強い関心も無い。このあたりに詳しい=五月蠅い社員が、ジュンク堂にはほかにいくらでもいる。

 だが、『古事記』、「日本最古の書物」、「1300年」という言葉が頭の中を巡り初め、考えが変わった。「いよいよキンドルがやって来る!今や、電子書籍の時代だ!と」何度目かのかけ声と狼煙が上がるなか、ぼくたち書店人の気持ちを支えてくれるのは、やはり書物が長きに亘って読みつがれて来た事実であり、過去の人びとの思いを載せてきた書物という乗物の強靭さだからである。

 審査員を代表しての講評で、ぼくは次のように話した。


 古代史や古典の素養も無い自分は、最初古事記出版大賞の審査員を引き受けることに逡巡した。しかし、キンドルが遂に上陸し、電子書籍の時代だと声高に叫ばれる今、日本最古の書物である『古事記』を冠する賞に関わることには、書店人として意味があると思った。

 『古事記』は、1300年の長きに亘って、読みつがれてきた。奈良時代の百万塔陀羅尼は、世界最古の印刷物として今日に伝わっている。デジタル、デジタルといわれるが、5インチフロッピーディスクは、いまやドライブ装置を探すのも困難であり、ワープロ専用機のデータをもらっても、読み出せない。もしかして21世紀初頭は、後の時代に文字情報が伝承されない、文化史の空白期間となる不幸な事態になりかねない。これは、出版デジタル機構の植村八潮さんの言葉。

 20世紀ドイツの哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマーは、この秋26年かけてようやく翻訳が完成した主著『真理と方法』の中で、「言葉は文字の形を取ることによって後の世でも同時代のものとなる。」と言っている。書き写し、次へと手渡した夥しい数の人びとがいて、古事記は今私たちの前にある。彼らは、同時代人を念頭に置きながらも、次の世代に手渡していく意思をも持っていたのだと思う。

 今回の選考のポイントは、図解、ビジュアル、注釈、マンガなど様々な工夫によって、より多くの人たちを『古事記』の世界に誘ってくれること、『古事記』の全体像が伝わること、『古事記』がかくも長く読みつがれてきたことの意味を説き明かしてくれること。また、私たちの祖先が自然や世界、生と死と対峙した姿を映す神話の意味を分かりやすく語ってくれる本も選んだ。既に、一次選考で膨大な書物の中から候補作を選んで下さった全国の図書館員のみなさんも、おそらく同じ思いを持っておられたと信じる。

 ガダマーは、「読書は心の中での上演。音楽の演奏や舞台の上演と同じである。」とも言っている。本日受賞された書物が、出来るだけ多くの方々の手にとられ、読まれて、『古事記』がますますの魅力と生命力をもって読みつがれていくことを祈念する。


 『古事記』の世界とは何の関係もないガダマーを引用することには、登壇する直前まで迷いがあった。だが会場が能舞台であったことで、意を決した。この秋ようやくなった主著『真理と方法』の翻訳の完成を殊の外嬉しく思いながら、あらためて四半世紀前に翻訳刊行された第一巻から全体を眺めわたしてみると、いっとう最初に演劇・音楽という再生芸術を取り上げることによって、創造的な再生活動の自由を与え作品の同一性と連続性を未来に向けて開いておくそのあり方が、続けて論じられる歴史学的思考、聖書読解(説教)、法解釈(判決)、道徳的実践等すべての「範型(モデル)」となっているからだ。最終巻である翻訳第三巻で言語が論じられる際も、終始、対話という言語の実践の場から考え抜かれていく。

 一方でガダマーは、有限性を人間の本質と捉える。人はみな、ある時代のある期間に、ある状況の中でしか生きることができない。そのことが、言語の多様性の源であり、言語を文字に固定して後世に伝えていく行為=伝承の動機(モティーフ)である。そんなガダマーの思索が、『古事記』の意義を考えるときに、とても有効に思えたのである。

 こうして、世から世へ、人から人へと伝承された書物の「心のなかでの上演」である読書という行為の歓びの中で、ガダマーと『古事記』が邂逅するまさにこの時に、キンドルが日本に上陸する。無理矢理つくり上げた三題噺のように思われるかもしれないが、『古事記』とガダマーとキンドルの三つ巴が、ぼくの目には、今日の鮮やかでリアルな風景と映るのだ。

 そんな時、ぼくらにとって心強いのが、1300年に亘って読みつがれた『古事記』の生命力であり、世から世へ、人から人へと伝承された書物の「心のなかでの上演」である読書という行為の歓びを謳うガダマーの哲学なのである。

 前回のコラムで、ぼくは確かに「アマゾンには勝てない」と、挑発的な書き方をした。読んでくれた人が、「アマゾンって、真摯な企業なんだなあと、びっくりしました。アマゾンや電子書籍を敵視してるようじゃ、本の未来は作っていけないですね。」という感想を送ってくれ、いささか慌てた。ぼくには、簡単に白旗を揚げ、アマゾンの軍門に下るつもりは無い。挑発的な書き方をしたのは、尻尾を巻いて逃げだすのではなく真に対決するためには、相手の強さから目を逸らさず、相応の危機感を持つことが必要だと思ったからだ。

 アマゾンの、「顧客が望むものを提供する」ことに徹底したその戦略の単純さは、間違いなく脅威である。だが、「顧客が望むもの」が価格競争に尽きるかと言えば、そうではないと思う。買い手は必ずより安いものを買う、というミクロ経済学の前提=原則が、絶対だとも思わない。

 「新聞、出版などのプリントメディアが生き残るには、まずデジタルメディアに生まれ変わること。そして、デジタルでも紙のときと同じように収益を上げること。この道しかないようだ。」(『出版新聞絶望未来』P194)とぼくは考えていないし、 「出版界の関心は「読者は電子書籍を望んでいるのか?」から「読者は今後、物理的な本を読みたいと思うのか?」へ移った。ジェフ・ベゾスはキンドルで出版界を根底からひっくり返してしまったのだ。」(『ワンクリック』P192)という箇所に対しては、キンドル上陸後の日本の状況を見ても、再度「読者は電子書籍を望んでいるのか?」と、問い返す必要があると思っている。

 先の感想を寄こしてくれた人には、「あのコラムは、一種の「死んだ振り」です。」と答えたのだった。

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)