○第125回(2013/2)

 2月20日、DNP市谷ソリューション展2013(DNPC&Iビル)のセミナーの冒頭、「本と書店とお客様」と題して、30分ばかり話をさせていただいた。DNP傘下のhontoのハイブリッド書店サービス(リアル書店とネット書店、紙の本と電子書籍をトータルに扱う)についての情宣の一環だが、ぼくとしては、紙の本を売るリアル書店であるジュンク堂の現場にいるという立ち位置でお話しすることしか出来ない。簡単なプロフィール読み上げの後登壇したぼくは、次のように話し始めた。

 ジュンク堂書店の昨年の最大の事件は、新宿店の閉店だと思う。それが「事件」と言えるのは、書店規模、売上げ規模もさることながら、閉店が多くの読者に惜しまれ、スタッフ一人ひとりのお薦めの本を展開した閉店フェアが大きな共感を得て話題になり、『書店員が本当に売りたかった本』(飛鳥新社)という書物にまで結実したからだ。一支店の閉店が、そこまでの「事件」になったのは、紛れもない危機感があったからだと思う。それは、書店員たちにとっては、本を売るという仕事の場が消失する、読者にとっては通い馴れた書店が消失するゼロ時間へのカウントダウンの中で生まれた危機感であり、それはひょっとしたら、ネット書店や電子書籍の攻勢のなか、リアル書店や紙の本が晒されているもっと大きな危機感とも共振したのかもしれない。

 危機感を持つことは、決してネガティブなことではない。それは自らの日常を反省し、守るべきは守り、変わるべきは変わるチャンスであるからだ。

 書店が変わるべき方向性の一つとして、リアル空間であることのメリットをもっと生かせ、という声が、(書店内外に)少なからずある。具体的には、サイン会やトークショーをもっと活発に催し、いわば「ライブ空間」としての生き残りを図れ、という提言である。

 音楽CDの運命が引き合いに出される。インターネット配信とコピーによって、音楽CDの売上げは著しく落ち込み、それに伴う印税の激減がミュージシャンにダメージを与えたかもしれない。が、音楽そのものはより多くの人に届くようになり、ファンを獲得する機会は増えた。現に、多くのファンを獲得したミュージシャンは、ファンをライブに集めることで、ライブ会場でのグッズの販売も含めて、CD販売による収入の目減り分をすぐに挽回したと言われる。それと同様に、著作家は紙の本の印税が減った分をそうしたイベントで取り返し、書店はその「ライブ会場」としての生き残りを図れ、ということなのであろう。

 だが、このアナロジーには、大きな落とし穴がある。メディアとしての書物とCDの違い、クリエイターとしての著作家とミュージシャンの違いである。それらの差異を見落としてはいけない。ミュージシャンにとっては、演奏そのものが本来の作品であり、CDはそのコピーに過ぎない。だが、著者にとっては、本こそ完成品である。その本について語るのは言わば余技であり、語りが得意であるとは限らないし、語りが得意であることが著作家としての評価を左右する訳ではない。音楽のファンはライブに参加した時にCDを聴く以上の享受をするだろうが、読者は本を読むときにこそ、本来の享受をする。トークイベントを楽しむことができるのは、その上でのことであって、本を読むことを省略できるわけではない。もちろん、時に手順が前後することがあってもいい。トークイベント後に本を読むこともあるだろう。いずれにしても、本を売るためにトークイベントがあるのであって、トークイベントが本を売ることの代替にはならない。当然、そして現に、著者がトークイベントの謝礼によって印税の穴埋めをできるわけではなく、書店もまた、トークイベントの興行収入に、本を売ることによる利益を代替させることは出来ない。

 断っておくが、ぼくは決してトークイベントを嫌いなわけではない。むしろ大好きだと言っていい。池袋本店時代は多くのトークイベントに関わり、自ら企画もした。対談の相手役を務めたこともある。好きな本の著者に会えるのは何よりの歓びだし、勉強にもなった。そうした機会を企画できることが、書店員の特権だとさえ思う。今いる難波店には、会場にできる喫茶部などはないが、それでも店の一画を(実は敷地をはみ出しながら)強引に切り取って即席会場をつくり、トークイベントを開催している。

 最近では紀伊國屋新宿南店でのトークイベントがなかなか好評だと、業界紙で読んだ。実は担当している神矢真由美さんは、ぼくが東京にいた頃、同じ時期に『読売ウィークリー』の書評欄を担当していたことがあり、なかなか面白い本を選ぶなあ、とひそかに注目していた人である。ご活躍の様子が、目に浮かぶ。

 だが、トークイベントは本をより多くの読者に読んでいただくための手段であって、目的ではない。会場が書店であるならば、なおさらである。あくまで書店は、本を売るための空間なのだ。

 書評の発信を書店員がもっと積極的に行うことが、リアル書店が生き延びるために必要だと言う人もいる。書店員は本が好きで書店に入ったのだろうし、本もよく読んでいる筈だから、自分が売りたい本についてもっとアピールしていくべきだ、と言うのだ。

 確かに、採用面接をしていて、応募動機として一番よく聞くセリフは、「自分がいいと思った本をできるだけ多くの人に薦めたいから」である。その気持ちは大切にしたい。だがそのための時間を、就業時間内に与えられる訳ではない。書店員の仕事は、本を売ることであり、本を読むことではない。

 再度断っておかなければならないが、ぼくは、書店員が書評を書くことを否定している訳ではない。とんでもない、ぼくはジュンク堂のPR誌『書標』に、30年間ほとんど休まず毎月書評を書き続けてきた。先ほど挙げた『読売ウィークリー』など、外の媒体にも積極的に書評を寄せてきた。ジュンク堂ホームページの書誌データに貼り付けた短評の量も半端ではない。「自分がいいと思った本をできるだけ多くの人に薦めたいから」である。

 だが、それはぼくが書評を書くのが好きだからだ。厚かましくも、書評を媒介にして、若い頃から多くの書き手と親交を深めてきた、そんな戦略もあった。そうしたいからそうしてきたのであり、誰かに強制されたわけではない。だから、他人に強制する気はないし、何かを書くことを強制してもよい結果を産むことは無いと思う。本を読むことも、読んだ本の書評を書くことも、就業時間外=仕事外の作業だから、当然である。書店員の給料は、本を売ったことによる利益から分配される。文章を書く書店員ではなく、本を売る書店員が偉いのである。書評や、ある意味ではその親戚であるPOPは、そのための手段の一つに過ぎないのだ。

 書店の将来を慮ってくださる人たちの提言に、難癖をつけたいわけでは決してない。書店が、出版業界全体が、今危機感を持つことも正しい。だが、危機感が過剰な焦りを生み、本来ぼくたちがすべき仕事が見えなくなってしまう、その仕事を達成するための手段が目的化してしまい、書物を広く届けるという本来の仕事がおろそかになってしまうことを危惧するのである。

 今危機に直面しているのは、本の世界だけではない。隣国との領土紛争、財政危機、エネルギー危機、環境破壊、経済破綻と、日本いや世界全体が危機に瀕している。そんな時、書物は大きな役割を果たせる筈であり、果たすべきだ。

 「危機の中でこそ勇気を奮い、使命を感じ、自信を持って、よい本を作ってください、ぼくたちも矜持をもって売っていきます。」
集まった出版社の人たちを前に、ぼくはそう訴えて締め括った。



 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)