○第126回(2013/3)
2月28日(木曜日)夕方、京都駅にあるホテルグランヴィア京都で、読売新聞大阪本社主催「読売新聞 関西出版懇談会」が開催された。出版社、書店、取次ぎ、広告会社、業界紙、新聞社関係合わせて約200名が一堂に会した。
こういう機会はめったにない、というか実現困難だ。出版社の説明会や謝恩会には他の出版社は来ないし、書店主催の会には他の書店は来ないからだ。一堂に会するには、第三者の主催である必要がある。久々に懐かしい人に再会したり、思っても見なかった人に出会えたり、とても楽しい時間を持てた。
冒頭、開会挨拶に立った読売新聞大阪本社太田宏社長は、「読売新聞第一号の第一面は、すべて出版広告だった。現在のサンヤツはその名残です。」と話された。新聞の出版広告は、太宰治の『女生徒』にも登場し、長い歴史と実績があることは承知しているし、新聞と出版が、いろいろな意味で親和性が強いこと分かっていたが、第一号の第一面全部が出版広告だったとは驚いた。
懇親会の趣旨として「読売新聞大阪本社発刊60周年を記念して、日ごろ出稿のある出版社に感謝の意を示す場としつつ、関西の出版界との交流の場」とあり、プロモートに当たった実働部隊も広告局の人たちだった。2月28日の会を挟んで、招待状送付先や会の進行、今後の展開について、大阪本社広告局広告第一部の佐々木英典部長から何度か相談を受け、お話をするたびに、新聞と出版の相補性について、思いが深まった。そして、その相補性を考えるとき、新聞紙面の出版広告に大きな意味があるのではないか、と感じた。
出版と新聞が相補性を持つとは、両者が同じ範疇にありながら違った特徴を持ち、異なった役割を持つということである。だからこそ出版広告があり得る、更に言えば、それが新聞にとって重要なコンテンツでもある。太田社長が紹介された「第一面すべて出版広告」であるような紙面を見ることはもうあるまいが、それでも、第一面の最下段は必ず出版広告(サンヤツ)の定位置と決まっているということは、すごいことだと思う。どんな大事件が起こっても、それは変わらない。人が新聞をめくる時、最初に必ず出版広告が目に入るようになっているのだ。
「かつてほど効かない」と言われて久しい出版物の新聞広告や書評だが、それでも、日々店頭には、それらの切り抜きを持ってこられる読者が後を絶たない。この日の講演で、東京本社編集局文化部次長の鵜飼哲夫氏が、他紙との比較も含めて、具体的な選書法や書評委員の選抜、書評原稿の依頼法などを興味深く語ってくださった新聞書評も、まだまだ効果を失っていない。
広告も書評も、第一に、ある本の存在告知であり、読者へのアピールである。読者から見れば、その本に至る道の入り口である。「こんな本が出た」「こんな本がある」という記事である。
その記事の一つでもある出版広告が、第一号で第一面を出版広告が埋め尽くし、今でも第一面を保証されているのは、新聞が宿命的に書物を必要としているということの現れではないか。それは、何故か?新聞の紙面では足りないからである。取り上げたニュースを、その背景から解説し、事件に評価を下し、未来に対してもつ意味を予測するには、どうしても書物の分量が必要なのである。そしてそうした作業を持続するためには、分量だけではなく、新聞の速報性に対する書物の「遅さ」が、じっくりと時間をかけ何人もの人が「手塩にかけて」つくりあげなければならない書物の「遅さ」が、むしろ功を奏するのだ。
その日のニュースを素早く紙面に定着させて、全国に届ける。改めてそのスピードを思うと、驚くべきものがある。インターネットの速報性には勝てないとよく言われるが、1000万個の「モノ」となり、速やかに1000万人の読者に届けられるそのシステムには、ネット発信者やプラットフォーム管理者たちも、一目置かざるを得ないだろう。
だが、その優位さは弱点でもある。1000万読者の視線を常に感じながら紙面を構成せねばならない。読者の関心がよそへ移ってしまったら、記事そのものが載らなくなる。
例えば「アラブの春」の報道も、そうではなかったか。
「ジャスミン革命」と呼ばれたチュニジアの民衆蜂起は、2011年1月14日に、ベン=アリー大統領の国外亡命を余儀なくさせた。「ジャスミン革命」に触発されたエジプトの民衆は首都カイロのタハリール広場に集結、2月11日には30年間に及ぶムバラク政権が終止符を打った。ちょうどその1か月後、「イスラム世界の民主化」の流れが更に拡大していく中で、日本の新聞紙面から「アラブの春」の記事は消えた。言うまでもなく、東日本大震災が起こり、福島第一原発事故が発生したからである。
それはやむを得ないと、ぼくも思う。地球の裏側の「民主化運動」よりも、自国で起きた未曾有の大災害に目が向けられるのは当然だ。新聞紙面の重心がそこに移るのも、否それ一色になるのも当然の出来事である。ただ、東日本大震災で「アラブの春」が止まったわけではない。自国の大災害に大わらわの日本にも、それを伝える、あるいは少なくとも書き留めるメディアがあっていい。そこに、書物の役割はあるのだ。
決して卑下している訳ではなく、1000万部に対してこちらは3000部というのが、実は強みである。1000万部の新聞は、紙面の中心を、場合によっては紙面の全部を、最大多数の圧倒的な関心と重ねあわせないわけにはいかないからだ。その点、書籍は、その0.03%の強い関心があれば成立する。どちらも必要である。そのことをぼくは、相補性と呼ぶ。相互に必要とする双方を結ぶ扉が、新聞の出版広告なのかもしれない、と思ったりする。
重信メイ『「アラブの春」の正体』(角川oneテーマ21)によれば、「アラブの春」の進展は世界中で注目されたが、同時にその報道は、報道する側の国情に捻じ曲げられた、という。
チュニジアで「アラブの春」が始まったのはアラブのなかでも早くインターネットが解禁されていたからであり、エジプトではフェイスブックやツイッターを使って呼びかけたデモに集まった数万人の人たちがタハリール広場へ座り込んだと、新しいメディア環境が「革命」を手助けしたことは広く報じられたが、首都のカイロやアルマヘッラ・アルコブラなどの工業都市で一気に起こされたストライキによる経済麻痺が軍のムバラク離れを促したことは、(日本を含めて)ほとんど報じられていない。おそらく、新しいインターネットサービスが「革命」を手助けしたのは言祝ぐべきニュースだが、ストライキが「革命」を完成させたということは、世界のほとんどの国の政府や支配層にとって、むしろ伝えて欲しくないニュースだったのだろう。
「革命」の連鎖の中で死去したリビアのカダフィも、アメリカや「同盟国」日本では、マスコミによって暴力的な独裁者というイメージが定着しているが、「実は、カダフィは以前から世界中の革命勢力や民衆運動を支える人物でした。」と重信メイは言う。
石油をめぐって欧米と強く結びついたアラビア半島の国々へ「アラブの春」が飛び火しても、報道されなかったり、「革命勢力」ではなく「反対勢力」「シーア派勢力」「イラン派勢力」と呼ぶなど、用語のすり替えがなされたという。「カタールがスポンサーのアルジャジーラもデモを煽らないよう配慮し、ほとんど報道しなかった」(『「アラブの春」の正体』)らしい。かつてアルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンの声明を世界に配信したアルジャジーラもまた、政治的理由による偏向を免れなかったわけだ。
シリア内戦に至っては、伝えられていない事情が多過ぎ、チュニジアやエジプトの「革命」と同じ図式で見るのは余りにも恣意的だ、と重信は言う。『シリア アサド政権の40年史』(国枝昌樹著 平凡社新書)を読んでも、報道とはずいぶん違う見え方がしてくる。
ぼくたちには知らないことが多過ぎる、と本を読むたびに痛感する。そして読めば読むほどまた本が読みたくなり、本を読むことが必要なことだという確信が益々強くなる。
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