○第129回(2013/6)
『「見えない」巨大経済圏 システムDが世界を動かす』(ロバート・ニューワース 東洋経済新報社)を読み、「システムD」に興味を引かれた。「システムD」のDは、アフリカやカリブのフランス語圏の俗語「デブルイヤール」(要領がよく、やる気に満ちた人)から来ているらしい。商業登記やお役所の規制なしに、大部分は税金もおさめずに行われるビジネスであり、「機転の経済」「DIY(Do It Yourself )経済」とも、言い換えられる。一言でいえば、「非合法な経済圏」である。
朝早く、「普通の」商店が店開きする前に仕事を片づけてしまう露店商たち、ゴミ集積場で売れそうなものを漁る子どもたち、商品に新たな価値を生み出すリサイクル業者、路上や交通機関に出没する物売りたちから、いくつもの国境を越え、必要な場所に商品を送る密輸商たち、あるいは海賊版商品の販売業者…。「システムD」には、さまざまな形態がある。巨大でありながら軽んじられ、誰に対しても開かれていながら恐れられ、微小でありながらグローバル。世界の人々の大半が日々それによって口を糊し、あるいは繁盛している。「それなのに、大部分の経済学者やビジネスリーダーや政治家たちに無視され、時には軽蔑されている」のが、「システムD」である。
「システムD」の統計的数字が上がってくることも無い。そもそもそんなものを調査、記録、分析しようなどと考える酔狂者は、「システムD」の中にはいない。「システムD」にとって必要なのはそのような数字ではない。客であり、ビジネスチャンスだ。
本来そのことは、「システムD」だけではなくあらゆるビジネスについて言えることであり、そもそも「経済活動の本質は、必要なものを、必要な場所に、適切な形で届けること」(安富歩『経済学の船出』)である。それが出来るビジネスは、繁栄する。顧客に、感謝されるからである。もちろん「システムD」に従事する者は、経済学者やビジネスリーダーや政治家たちに無視されても軽蔑されても、まったく意に介さない、そんな声は一切耳にも目にも入らない。彼らが見ているのは、商品と顧客、それだけである。
ビジネス或いは経済活動はそれに尽きるのであって、登記も規制も税金も、大きなお世話か邪魔物、或いは、安冨のいう「関所」のシステムであり、本当は経済活動の外にいる特権を持った人々が、介入し、上りの一部をせしめる仕掛けだとも言える。だからそれらは、決して経済を活性化しないし、利益も生まない。雇用も生まない。そういうものを、経済学者たちは、「正規の経済システム」「合法的な経済」と呼んでいるのだ。
経済協力開発機構(OECD)によると、今や世界の労働者の半数(18億人近く)がシステムDで働いている。フィリピンでは労働者の三分の一が「システムD」で働き、本書に何度も登場する、世界最大のストリートマーケットであるナイジェリアのラゴスでは、勤労者の80パーセントが「システムD」で生計を立てている。
ゆえに、次のような重大な疑問に直面すると、ニューワースは言う。「われわれの経済制度(つまり自由市場制度)が世界の労働者の実に半数(つまりシステムDの人々)を含んでいないのだとすれば、われわれはその制度を修正すべきではないのか?」
そのとおりである。景気が良くなっても改善しない失業率の現状を考えれば、どの国も、世界の労働者の半数に仕事を与えている「システムD」を、無視できるはずがない。
ニューワースはマンデヴィルを引く。『一国の国民を幸せにし、いわゆる繁栄を享受させるための偉大なる技とは、すべての人に就労の機会を与えることである』(『蜂の寓話』)。そして言う。「おそらく彼なら今日でも、成功したブランドもその偽造品も、どちらも雇用と消費を増大させるのだから市場に存在する意義があると主張するにちがいない。」
とは言っても、「システムD」は、失業対策事業では決してない。例えば、「システムD」がなければ、西アフリカ全域がデジタル機器に飢える。「システムD」が機能しなければ、アラバの商人たちは納入業者に電子メールや簡易テキストメールを送ることができなくなり、ごみ処理場でごごみをあさる人たちも、携帯電話は持てなくなる、そしてアフリカ中の商売人たちが、安価なノート型パソコンを入手できなくなってしまうという負のスパイラルに陥る。安価なパソコンを、型落ちか場合によっては捨てられていたパソコンを、「システムD」の商人たちが必要とされる場所に提供する、そのことによって商品と場の双方が活きてくるのである。まさに「必要なものを、必要な場所に、適切な形で届けること」である経済が、そこに創発するのである。
ただ単に株価の上下や円の対ドル価格だけを見ながら右往左往するだけの「合法的なビジネス」と、実際に必要なところに必要なものを届ける「非合法なビジネス」とでは、一体どちらが「経済=経世済民」の名に相応しいだろうか?
現実には、この問いは二者択一ではない。「システムD」は、「法の埒外にありながら、しかも法的に認められたビジネスの世界と緊密に絡み合っている。」つまり、合法的な、きちんと登記され、税金も払っている企業とも繋がっているのである。それはそうであろう。「システムD」は「ささやかな売上とわずかな利益の積み上げの上に成り立っていて、それでいながら、すべてを合わせれば莫大な富を生み出している」のだから。
経済学者が「システムD」を嫌悪し、政治家が脱税や社会秩序の乱れを批判しようと、小売店が法人か、政府に登記してあるか、納税しているか、手続き上で法を犯していないかなどにかまうことなく、自社製品を仕入れてもらい、売ってもらいたい。P&Gなどの企業は、そのようにシンプルに考えるのだ。
ぼくたちの業界はどうだろうか?本を売る世界に、「システムD」の世界は、あるのだろうか?
本は再販制度に守られており、取次も寡占状態で、大半の商品が取次ルートで流されるので、例外的な売買、「非正規」の売買は考えにくい、よって「システムD」などとは無関係である、などと考える人は、おそらく自分を中心に半径数メートルしか見ていない近視眼的な業界人だろう。
例えば、本コラム83,84回(2009/5,6月)で紹介した、「せどり屋」の人たち。彼らは、ブックオフや新刊書店で購入した希少本を、ネット通販を使って高値で売る、或いはネットオークションに出して値を釣り上げるなどの手段を使って本を転売して利益を得る。会社登記もしていないだろうし、所属すべき組合もない、あくまで想像だが、収入を毎年確定申告しているとも思えない。立派な「システムD」であろう。
だが、ぼくは彼らに対して、こちらが「正規の」販売業者である、読者との間に立って利ざやを稼ぐのをやめよ、などと上から目線で摘発・排除しようとは思わない。また、時々「アマゾンは日本国に税金を納めていないから、怪しからん。」と怒る人が居るが、ぼくは、そのことを理由にアマゾンを排除すべきだとは思わない。そんな「関所」の番人のような真似をするのではなく、彼らが実際に顧客を持っていることを認め、「必要なものを、必要な場所に、適切な形で届けること」を遂行していることに敬意を表したい。そしてその上で、ぼく自身も、自分がいるリアル書店をフィールドとして、「必要なものを、必要な場所に、適切な形で届けること」を、粛々と実行していきたい。そうした、商売の本質の部分で、真正面から勝負していきたい。
「一五〇〇年代以降、ヨーロッパで最も多くの本を売りさばいていたのは、路傍の物売りや「バラード歌手」だった」とニューワースは教え、「もし海賊版屋と正規の出版業者が作品を格安で大衆に売りさばかなかったら、イギリスの偉大な劇作家にして詩人であるシェイクスピアは、永遠の眠りから覚めることはなかったかもしれない」とも言う。「正規」では無いさまざまな流通・販売の実績が重なり合って、読者が、即ちぼくらの業界の顧客が誕生したのである。
流通の邪魔をしながら、ありもしない「既得権」を振りかざして、自らの収入だけは確保する、そのような「関所」の番人には決してなりたくない所以である。
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