○第130回(2013/7)

 7月19 日(金)、勁版会の例会で、湯浅俊彦氏の講演「出版メディアの変容―大学における電子学術出版の利用を考える」を聞いた。湯浅氏とは、 91年にぼくが最初の本『書店人のしごと』を刊行し、当時旭屋書店に勤務していた氏がいち早く反応してくださって以来、 20年以上の付き合いになる。『書店人のしごと』で前年に湯浅氏が上梓された『書店論ノート』に言及していたこともあるが、それ以上に、当時ようやく話題になり始めていた書店SA化をめぐって、基本的には対極の考えを持っていたことで知り合って当初から議論が盛り上がった。ザックリと言えば、湯浅氏はSA化は書店現場から「ひと」を排除するという立場、ぼくは「ひと」が活きるSA化を模索すべしという立場である。その後、それぞれの立ち位置が微妙に変化してきたことは、『希望の書店論』T−7(P19〜)に書いたとおりである。

 更に時が経ち、氏とぼくの立場はそれぞれ 180度回転移動し、攻守交替した感がある。書店の現場に立ち続けるぼくは紙の本の擁護を天命とし、立命館大学教授に就いた湯浅氏は、電子出版が教育を変え、教育が出版を変える事例を示し、大学におけるこれからの出版ビジネスについて語る。湯浅氏は、大学の現状を伝えるべく、次のような例を挙げた。

 「貝合わせ」というレポートの課題を出し、それを調べる方法が学生に教えられる。まず、大学図書館の本を探す。4件ヒットした。国立情報学研究所でも、4件、国立国会図書館でNDL雑誌記事索引で2件、国立国会図書館所蔵の明治期、大正期刊行図書を収録した画像データベースである「近代デジタルライブラリー」では明治34年刊の「近世遊戯法」がヒットし、その画像を見ることができた、等々、参照すべき文献の、しかも参照すべき箇所へと瞬時に到達することができる。このスピード、合理性、確実性こそが、デジタル書誌情報の真骨頂で、学生の勉強を大いにサポートする!

 しかし、本当にそうだろうか?何人もの学生が、ほぼ同時に、同じ方法で、同じ「答え」に行き着く。大学における勉強、研究とは、そういうものでよいのだろうか?目的地へ辿り着くかどうかさえ危うい道を、時には与えられた問いからは大きく逸れたさまざまな著作にぶつかりながら行きつ戻りつする過程の中に、本当の宝は埋まっているのではないか?

 実は今回湯浅氏の話を聞きたかった一番の理由は、ここ数年来氏が表明している「長尾構想」(長尾真国立国会図書館長の「電子図書館」構想)への賛意について、直接確認したかったからだ。長尾氏の「電子図書館」構想は、既に 94年には完成し、10数年経ってグーグルが全世界の出版物を独自にデジタル化して開示するグーグル・ブックスの構想をぶち上げたことによって、それに対抗するものとして改めて注目された。長尾氏の自伝的著作『情報を読む力、学ぶ力』(ミネルヴァ書房)や94年に出た『電子図書館』(岩波書店 2010年新装版刊行)を読んでみると、資料のデジタル化が進んだ「電子図書館」では、本のどこに目指すべき情報があるかが素早く検索できレファレンス機能のドラスティックな充実化を図ることが目指される。情報工学の世界で、理系文系の別なく研鑽を積んだ長尾氏らしい構想だが、充実したレファレンス・システムが目指す対象は、本に担われたコンテンツの一部である。即ち本ではなく情報である。そこにぼくは、違和感を覚える。先に述べた湯浅氏が紹介するデジタル書誌による学生のレポート指導への疑問も、「電子図書館」のレファレンス・システムへのそうした違和感と同質のものである。

 学生に研究について相談をされて、「では、とりあえず、これを読んでみたまえ。」と一冊の本を差し出す教師に、その教師の存在感に、師事すべき対象を見いだす。そうした場面を、大学の研究室に相応しいものと思ってしまうのは、ぼくがもはや古い人間だからだろうか。ぼくは、答えではなく道筋を、もっと言えば問いを教えてくれる人こそ師であると思えてならない。

 図書館のレファレンス・ワークにおいても、利用者が自分が本当に知りたいことをどのようなキーワードで検索するかを判断するのは、そんなに簡単なことではない。自分が一体何を知りたいのかがよくわからない場合も多い。うまく言葉にできないことも、ままある。利用者と司書の対話の中で、問いそのものが浮き上がってくことも多いに違いない。最初から明白な問い、機械的にすぐに得られる答え、こうした対は、実はたいした情報ではない。重要なのは、答えよりも、問いの方なのである。

 また、大学における電子書籍の役割について、湯浅氏は次のような例も出された。

 湯浅ゼミで読んでおくべき課題図書として、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』(みすず書房)を指示する。大学図書館、学部の資料など、2〜3人は学内で借りて読むだろう。少し熱心な学生は京都市内の公共図書館で探して借りるだろうから、あと2〜3人は読むかもしれない。でも、望めるのはそこまで。8000円近くする本を、書店で買ってまで読んでくれる学生がいるとは、現実問題として期待できない。

 だから、研究や学習にとって重要な文献は、電子書籍化して大学図書館に販売すべし、そうすれば学生は読むべき本を読むようになるし、出版社にとっても、電子書籍化による新たなビジネスチャンスが生まれる、それが湯浅氏の見立てである。みすず書房の持谷社長も、そうした計画に関心を持っている、と氏は言う。

 「『グーテンベルクの銀河系』ならそうした方向も考えられるけれど、『夜と霧』で同じ提案をされたら、みすず書房としてはたまったものではないのでは?」最後に質問の機会を与えられ、ぼくはそう切り返した。

 大学図書館にせよ、公共図書館にせよ、電子書籍が入り、自由にアクセスできるようになれば、即ち何人でもタダで読めるようになれば、学生、利用者にとって、これほどありがたい話はない。だが、その分本を買って読んで下さる顧客を失うことになる出版社にとって(もちろん書店にとっても)、これほどありがたくない話はない。現在の所、出版社利益を守り業界の混乱を避けるために電子書籍でも貸出数を一人に絞る方向が考えられているらしいが、それでは、紙の本と違って、「何人に貸しても無くならない」電子書籍のメリットが無い。何百人、場合によっては千人超が「ハリー・ポッター」の貸し出しを待って「並んだ」状況を一気に解消する、図書館にとっての、利用者にとってのせっかくのユートピアをみすみす逃すことになってしまう。

 だが、ユートピアを実現しようとするとき、多くの場合実際に到来するのはディストピアである。誰でも図書館で読みたい本を読めるようになった時、しかも、図書館に足を延ばさなくても自宅のPCや読書端末から気軽にアクセスできるようになった時、個人で本を買う人はほとんどいなくなり、出版社のビジネスモデルは崩壊するから、新しい本が出なくなる。

 そして、そうしたユートピアは、紙の本と共に図書館そのものの存在理由を無くしてしまう。電子化が進めば「館」は不要となり、一台のサーバーがそれに取って代わるからだ。ユートピアは、その名のとおり、図書館を「どこにも無い場所」にしてしまうのだ。

 「読者にとってのユートピア」は、実は、本も出ない、書店も無い、図書館も無いディストピアへの道であるというのが、ぼくの見立てである。



 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)