○第136回(2014/1)
昨年末、見本が上がった時点で、何人かの方に著者献呈本を送ったところ、早速三月書房の宍戸さんからメールが届いた。献呈への謝意を示された後、いきなり「まだ拾い読みしているだけですが、1箇所大きな間違いがありました。」とあった。 220頁。“ぼくが問題にしたいのは、アマゾンが「上前を撥ねている」ことだ。「出品者」がアマゾンのサイトに広告した本が売れるたびに、アマゾンは手数料を手に入れる。商品の配送、代金の徴収は全て「出品者」の作業となる。一連のやり取りの中で、おそらくアマゾン側には、労力やコストはほとんどかからず、リスクも無い。”という箇所。「せどり屋」の商売の舞台であるAmazon のマーケットプレイスについてコメントしたところだ。 宍戸さんは、“代金の徴集はすべて「出品者」の作業”というのは間違いで、すべてAmazonの作業であることを指摘してくださった。その作業をAmazonが代行してくれるからこそ、素人でも1点から出品でき、また、Amazonレベルのオンライン決済システムを自前で構築することは困難、と宍戸さんは教えてくれたのだ。 最初に思ったのは「そうだよなあ」ということ。そのことを知らないわけではなかった。買い手が「出品者」に直接支払うと思い込んでいたわけではない。なのにどうして“代金の徴集はすべて「出品者」の作業”などと書いてしまったのか? すぐにご指摘へのお礼を返信したメールで宍戸さんに言い訳がましく書いたように、「せどり屋さん」の本に書かれた苦労話を読んでいて、トラブル、クレーム時の返金作業と混同してしまったのだ。「混同」というより、お金のやり取り全体まで話を不用意に広げてしまったのだ。実際書店現場でも、トラブル、クレーム時のお客様との交渉はとても難しい。まして、購入時に商品の現物を見ていない客と、対面して顔を見ることも無く対応するのは、大変な苦労だろうなと想像して余りある。その部分をAmazon側はまったく引き受けることなくスルーできることを、「労力やコストはほとんどかからず、リスクも無い」と書きたい気持ちが強すぎ、あんな表現になってしまったのである。 しかし間違いは間違いである。言い訳は見苦しい。この場を借りて、読者の方々、そしてAmazonの方々にお詫びします。誠に申し訳ありませんでした。 万が一、重版することになったら、訂正します。それは次のような文になると思います。 “商品の配送、クレーム対応、返金などはすべて「出品者」の作業となる。一連のやり取りの中で、おそらくアマゾン側には、購入者とのやりとりに伴う労力やコストは ほとんどかからず、リスクもない。” それが内容の間違いを指摘するものであり、確かにその部分が間違いであったことは著者として真摯に反省すべきことがらであるけれども、宍戸さんがお送りした本をすぐに読んでくださり、連絡をくださったこと自体は、大変ありがたいことであり、また嬉しいことであった(「さすが、宍戸さん」と、他人事のように感服もした)。これまで4冊の本(『書店人のしごと』(三一書房)、『書店人のこころ』(三一書房)、『劇場としての書店』(新評論)、『希望の書店論』(人文書院))を出させていただいたが、そのたびに感じるのは、本は決して終点ではなく、始発駅だということだからである。本は、著者の思索によって完結するのではなく、読者に読んでいただくことによって広がり、議論や、新たな出会いのきっかけとなることによって、存在意義を持ち始めるのだ。 今度の本も、是非そうなって欲しいと思う。現在の「紙の本」の状況を考え未来を展望して、出版・書店業界の現状を打開する議論を喚起したいというのが、本を出した最大の理由だからだ。だから、(著者のミス、怠慢による誤りの指摘は汗顔ものだが)批判を含めた感想、意見はどんどん言って欲しいと思うし、共に考える「同志」との出会いを、ぼくは心から望んでいる。 宍戸さんの指摘によって改めて浮かび上がってきたAmazonの強みが、これからの書店のあり方を問うぼくの思索に、改めて刺激を与えてくれた。確かにAmazonは、「上前を撥ねる」だけの仕事をしているのである。それは、ひとことで言えば、不特定多数の売り手と不特定多数の買い手が取引を可能に、更には容易にする「プラットホーム」をつくりあげたことである。それが便利だからこそ、「せどり屋」さんたちは、「上前を撥ね」られても、使うのだ。 ぼくたちの仕事に当てはめれば、その仕事は書店という「売場」を一軒立ち上げることにあたり、その書店で本を売ることを可能にするインフラの整備、例えばレジスター等機器の設置、レジ回りの整備、レジ要員の訓練なども含まれる。要するにAmazonは、書店とは違った仕方で、売るための「しくみ」をつくったのである。 書店という「しくみ」にあって、「マーケットプレイス」にないのは、「仕入れ」と「棚入れ」である。それらは、書店では多くの人件費がつぎ込まれ、その人件費は販管費の多くの部分を占める。販管費の残りの大部分は、家賃である。擬似空間である「マーケットプレイス」は、この家賃もゼロに近い。即ち「マーケットプレイス」は、書店の利益を圧迫する販管費のコストを大幅に削減した「しくみ」なのである。コストの削減分は、そのまま利益として計上されるか、もしくは他のサービスに回すことが出来る。いずれにせよ、Amazonに大きなアドヴァンテージを与える。 そのAmazonのアドヴァンテージ(=書店のディスアドヴァンテージ)に対抗するには、どうしたらよいのか、それがそのまま書店が生き残るための課題となる。多くの戦略に言えることだが、弱点を逆手に取ることが最大の反撃手段だと、ぼくは思う。即ち、“「仕入れ」や「棚入れ」をしなければならない”を“「仕入れ」や「棚入れ」をすることができる”に反転させるのである。 何だかややこしいことを言っているようだが、要するに、「仕入れ」や「棚入れ」自体がその書店を魅力的に見せるような仕事をすることを言うのである。そのためには、仕入れ、棚に並べる人間の、研鑽、意思、工夫が無ければならない。ただ単に配本されてきたものを並べるだけ、売行き良好書を追いかけるだけでは、絶対に逆転は出来ない。ディスアドヴァンテージをアドヴァンテージに逆転するためには、書店スタッフの強い意思が書棚に反映されなければならないのだ。 また、書店は、疑似空間に店を出すことは出来ず、必ずどこか具体的な場所に店を構えなければならない。そのために家賃が発生するのだが、逆に言うと、常にある具体的な環境を持って商売をすることができる。一冊一冊の本が個々の書店という環境を持つことによって光り、その書店が立地という環境に溶けこむことによって生き続けるエネルギーを手に入れる。書店が生き延びることが出来るためには、エネルギーを与えてくれる環境である読者をマス=数で見るのではなく、一人一人の堆積として見なければならない。 本は、書店は、生きものなのだと思う。ぼくが、先月この欄で紹介した、恵文社の堀部篤史さんの「街も店をつくる」という言葉に魅かれる所以である。 |
福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |