○第137回(2014/2)
「大阪版本屋大賞」が、第一回の受賞作品として相応しい本を選び、読者がそれに応答したことはとても喜ばしいことだし、本を売る仕事に就いているものが、会社の垣根を越えて本を売るために協力し合うことには大いに共感する。プロジェクトに参加したすべての関係者の皆さんに慶びと感謝の言葉を贈りたいと思う。 ただ、ぼく自身はそのプロジェクトにまったく関わっていなかったので、また大勢が集まって1冊の本を選びそれをみんなで売るということ自体に以前から違和感を持っているので、ここで取り上げたいのは、プロジェクトそのものではなく、加藤代表も「第一回OBPBに相応しい、すばらしい作品に恵まれた」と絶賛する、受賞作『銀二貫』。 最近は滅多に小説を読まず、時代小説を手に取ったことも久しく無かったが、何の参画もしない身で“感謝の集い”に参加しようとしているのだから、せめて受賞作は読んでいこうと思ったのだ。面白かった。ストーリー展開がスピーディで飽きさせず、とても読みやすく優しい文体で、どんどん読み進ませる著者の構想力、筆力ももちろん見事だが、それ以上に、底に流れるテーマ―ひょっとしたらぼくが個人的にこの本から受け取ったメッセージだったかもしれない―が、とても心に響いた。 物語は、大坂の寒天問屋井川屋の主和助が、京都伏見で仇討の場面に遭遇、火災に遭った天満宮再建のために寄進すべく携えていた銀二貫で、その「仇討」を買い取る場面から始まる。討たれた武士は絶命したが、連れていた10歳の子供を助けることになった和助は、彼を大坂に連れて帰り、丁稚として引き取る。仇討を果たした武士は、「大坂商人は何でも商売にすると聞いたが、銭で命まで買うとはな」と言いながら、銀二貫を受け取って去る。 さまざまな事件を経ながら、19年後に血の滲むような努力を経てようやく貯まった銀二貫を、再び井川屋は手放すことになる。物語は、引き取られた丁稚松吉の成長を追いながら進んでいくが、ほんとうの主役は、銀二貫であった。物語の終わり、ようやく天満宮への銀二貫の寄進を終えた主が、長年仕えてくれた大番頭に言う「私はええ買い物、したなあ」という言葉が、冒頭の「銭で命まで買うとはな」に見事に応えている。 ぼくが、そしておそらくは多くの人が清々しい読後感を得たのは、銀二貫が、生きた使い方をされているからである。「買われた」松吉はやがて井川屋を支える商人へと成長していくし、二度目も人を救い店を救う実に価値のある使い方だった。そして、物語の冒頭に「仇討を売った」武士が受け取った銀二貫も、その後…。 お金は、使えば無くなってしまうが、使わなければ意味もない。ただ単に貯めておくだけでは、自分自身に益が無いだけではなく、社会全体の活力を削ぐ。しかし、将来の不確実性に不安を持つ人間は、どうしてもそれを担保する資産を何にでも使えるお金の形で持ちたがる。経済学は、それを「流動性選好」とか「流動性の罠」と呼ぶ。天満宮会館受付で、作者へのひとことを求められて「流動性の罠を逃れるのがテーマの小説」と用紙に書いたぼくは、二回前のこのコラムで触れた「本宴・本について大いに語る宴」で、最後の質疑応答の時間に、次のようなやり取りがあったことを思い出していた。 「最近、何度も読み返したい本が、減っていると思うのです。書店で本を買うことが少なくなったのは、持っていて何度も読みたいと思う本となかなか出会えないからかもしれない」客席の若い女性が率直にこう言った。 「だからこそ、書店で本を買ってください。そうすればみなさんが払ったお金が最終的に著者に届き、著者を育てることになるのです」パネリストの誰かがその言葉に応えた。 「書店員が本のことを知らない。店頭で本のことを聞いても分からない」という厳しい声もあった。「読みたい本を十分に読めるだけの給料も時間も与えてあげられてないからかもしれません……」言い訳にならない言い訳をしたのは、ぼくだった。 何度も読み返したい本が無い→書店で本を買わない→著者も書店員も育たない→店頭に魅力的な本が並ばない→……という負のスパイラル、お金が回っていかない構造を、何度も読み返したい本がある→書店で本を買う→著者や書店員が育つ→店頭に魅力的な本が並ぶ→……という正のスパイラル、お金が回っていく構造に反転させなければならない。電子書籍の登場によって、或いはインターネット空間の情報量の爆発的な膨張によって「仕分け」すべき無駄とさえ断じられつつある旧来の出版流通の仕組みとそれを構成する三者;出版社―取次―書店の存在意義を主張するためには、商品の流通と逆方向に流れるお金が著者を育て新しい本を生み出す原動力になり、読者の投資が十分な配当を生む状況を作り出すほかない。その配当とは、お金が殖えることではなく、知的好奇心を満たされる、感動に目が潤むことによって心が潤うことである。書店は、そうしたお金の生きた使い方がされる場でなければならない。 銀二貫は、人々の願いを実現するために働く、「生きた金」となった。「生きた金」は、松吉や和助が夢みた究極の寒天を生み出し、人々にそれを味わう幸せを届けた。一方、買うものがなくなったお金は、不幸である。行き場がなくなり、とりあえず自らを増殖させる途に走り、その挙句にバブルがはじける。何も残らない。否、誰が何のために誰から借りたのかも分からない借金だけが、残る。それが新自由主義経済だった。お金はモノの交換を効率的に媒介するもの、その原点に戻ることによって、経済は真に活性化する。 本の物流の現場も、そうした活き活きとした生産の場でありたい。 |
福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |