○第138回(2014/3)


 2月21日(金)、ジュンク堂難波店に立命館大学教授湯浅俊彦氏をお招きし、“トークバトル”「紙の本」か?「電子出版」か?“を開催した。『電子出版学入門 改訂3版』(出版メディアパル2013年3月)の著者である湯浅氏のお相手を務めるのは、もちろん今年1月に『紙の本は滅びない』(ポプラ新書)を上梓したぼくである。『書店論ノート』(湯浅俊彦著 新文化通信社 1990年)、『書店人のしごと』(福嶋聡著 1991年)以来、書店SA化を皮切りに、さまざまな題材で議論を戦わせてきた”仲“であるので、当初から「トークセッション」よりも「トークバトル」が相応しいだろうと予想、イベントのタイトルに選んだ。

 あにはからんや、『紙の本は滅びない』から41カ所を抽出、テーマ別に整理した上でそれぞれの箇所にコメントが付された6ページにわたる「論点整理」の資料を湯浅氏は用意、50名近く集まって下さった参加者に配布し、挨拶もそこそこに「そもそも、紙の本と電子出版という二分法がおかしいのではないか?」とジャブを放ってきた。

  「おっしゃる通りです」とぼくはそれを受け止め、「ある時期から『紙の本の役割はもう終わった。これからは電子書籍の時代だ』といった言説が蔓延り、それに反論する声が余りにも少なかった。だから、ぼくは紙の本を一つの集合として、その優位性にフォーカスを当てようとしたので、紙の本とその補集合としてのその他のものという二分法的な図式になるのは仕方がない」と返したが、反撃としてはやや苦しいか。

 湯浅氏は、紙の本には紙の本の優位性があることを認めながらも、「むしろ紙の本を守るためにも、紙の本は様々なメディアの中の一つという風に相対化する必要があるのではないか。プラトンの著作を今私たちが読めるのも、それが最初はパピルス、それから羊皮紙、紙という具合に時代と共にさまざまなメディアに乗って伝えられたから。紙の時代はせいぜい600年くらいです。それが今電子出版に変わろうとしている」と攻撃の手を緩めない。「ある日突然媒体が入れ替わった訳ではなく、さまざまな媒体が重なり合いながら漸進的にシェアが変化してきたのであり、余りに性急に「紙→電子」を自明の前提として議論され過ぎ」というぼくのリターンは、いまだ守勢のままという感を拭えない。

 「書店現場にいる福嶋さんには想像できないかもしれないが、検索できないコンテンツは世界の学術コミュニケーションの中では大いに問題が有る。少なくとも、米国においては、紙と電子の同時出版が主流、電子書籍をデータベースとして使うというかたちになってきている。海外にいる研究者は日本のコンテンツを使えないから、東アジア研究の対象がどんどん日本から中国、韓国へと移行している。早晩、小中高のデジタル教科書、大学教育における電子書籍の採用の時代に必ずなる。それを拒絶しているのが日本の出版・書店業界だ。この本のように『紙はいい、紙はいい』と言われるのは、ぼくの邪魔なんです。」と、湯浅氏はさらに攻め立てる。

 「『邪魔だ』と言われるのは、誇りですね」と、ぼくは漸く切り返すことができた。「抵抗がないと、議論は暴走し、危うい方向に進みかねない。例えば、デジタルコンテンツは、寡占化の危険を免れない」「そこは問題です」と湯浅氏も同意する。

 更にぼくは、「ほんとうに新しい本は、紙の本のかたちで書店の棚に登場してくるのが、やはり相応しいと感じる。そうした本は、既成の分類、枠組みには入れ込むことができないから」と持論を展開したが、湯浅氏は「でも、読まれなければしかたがないと思う。大学4年間で200冊ぐらい読まなきゃ卒業できないようにしようとすると、紙の本じゃ間に合わない。シラバスや授業で参考図書にしても絶対に読まない。そこで本を読んでレポート書かなきゃ単位取れないという具合に課題をどんどん出す。そうすれば本を読まざるを得ない。でも紙の本を50冊100冊大学に置いておくのはおかしい。それを電子で読めるようにする。本を一冊一冊じっくり通読することは大事なことだけど、大学の授業に使うにはそれだけでは駄目だ」と、大学図書館の電子図書館化の必要性を主張する。

 電子図書館について、ぼくはこれまで、『紙の本は滅びない』や本コラム第130回(2013/7)でもその矛盾を論じ、疑問を表明してきた。電子図書館構想は、出版業のビジネスモデルを成り立たせなくし、新しい本を生み出すメカニズムを崩壊させる危険を孕んでいるのではないか、と。湯浅氏は「自分も書店にいた人間として、今の出版・書店業界も食べていけるバランスのいい展開を目指したい」と語るが、「バランスのいい展開」の明確なビジョンは未だし、と言わざるをえない。

 湯浅氏の大学図書館電子化への熱い語りを聞いているうちに、ふと二人の使っている「読む」という言葉の意味には、微妙な食い違いが、あるいは大きな隔たりがあるのではないか、と感じ始めた。学生を教え育てなければならない教育者と、本を一冊一冊売っていくことを生業とする書店人という立場の違いも、そこにはあるだろう。湯浅氏は、膨大な書物の集積の中から必要なコンテンツを探し出すことに大きな意義を見いだす。ぼくは、一冊の本をいわば分割不能なモナドと見る。その中では全体あっての部分、部分あっての全体であり、両者は不可分なのだ。「紙の本派」の人の多くが、「本全体のどのあたりを読んでいるかが、常にわかる」ことを紙の本の良さとして重視する理由が分かったような気がした。電子書籍でも、例えば(現在のページ)/全体のページ数という形でそれを表示することもできるが、紙の本を持つ手に常に伴う「体感」には及ばない。

 更に、「4年間で200冊」という数字への拘りに、昨今の大学の成果主義を連想してしまう。たった一冊の本を4年間かけて徹底的に読みこむということにも、大きな意味があるはずである。

  その後、話題は視覚しょうがい者のアクセサビリティの問題やデジタル教科書の可能性にも及んだが、時間の制約もあって議論を尽くすまでには至らなかった。

湯浅氏を招いたこと、二人が今回のイベントを当然のごとく「バトル」と捉えたことは、少なくともぼくにとって、結果的にとても良かったように思う。湯浅氏が『紙の本は滅びない』に徹底的な批判と多くの疑問を真正面からぶつけてくれたことが、ぼくにとっても問題の在り処をより明確にし、更に考えていく道筋を照らしくれたように思うからだ。「バトル」終了(中断?)後、会場から、何人かの方々の貴重なご意見もいただいた。
湯浅氏に、そして参加して下さった多くの人たちに心からの感謝の意を表したい。

 

<<第137回 ホームへ  第139回>>

 

福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年)