○第144回(2014/9)


 2月21日(金)に立命館大学教授湯浅俊彦氏をジュンク堂難波店にお招きして開催した“トークバトル「紙の本」か?「電子出版」か?“(?本コラム2014年3月)の最後の質疑応答のコーナーで、大阪堂島の小さな古書+新刊書店「本は人生のおやつです!!」の店主坂上友紀さんは、次のような質問(?)を投げかけてくれた。

  「電子書籍のくせに、なぜ紙の本の真似をしようとするのか、それが許せないのです!」

 不思議といえば不思議である。「マルチメディア」「ハイパーリンク」を属性とする、デジタルならではの「エキスパンドブック」が盛んに夢見られ語られたのは、1990年代。二昔前のことである。時代が下るにつれて、むしろ電子書籍はどんどん紙の本に近づこうとしてきた。デジタルならではの可能性の芽を自ら摘みながら。どうしてか?

 『メディアの臨界』(せりか書房)で、粉川哲夫はこう言っている。

“いつの時代も、新しいテクノロジーは、それ以前のテクノロジーをより効果的に展開するためにのみ使われる。そのためには、新しいテクノロジーは、そのポテンシャルの大部分を犠牲にし、その能力を奴隷的レベルにまで引き下げることによって旧テクノロジーに奉仕させる”。(P66)

 デジタル技術という新しいテクノロジーが、旧テクノロジーである「書籍」に奉仕させられているのだ。電子「書籍」という形にこだわる限り、それは新しいテクノロジーのポテンシャルの多くを犠牲にせざるをえないのである。その過程こそ、「エキスパンドブック」からキンドルへの道だ。その道は、デジタル・コンテンツにとって、より高みを目指す直線的な道でもなければ、迂回路ですらない。そのポテンシャルから見れば、下山路とでもいうべき道だった。

 実は、「エキスパンドブック」は、早い時期に既に生み出され、今や長きにわたって成長してきている。インターネット空間こそが、巨大な「エキスパンドブック」に他ならない。

 だからなのか、Amazon キンドル開発者ジェイソン・マーコスキー著書『本は死なない』で語る「読書の未来」は、終始両義的である。それは、よりよい電子「書籍」端末を創るためには、「紙の本」についての知識が、更には「紙の本」への愛情が不可欠となってしまうからかもしれない。

“まず電子書籍は、質感や手触りの点では紙の本に遠く及ばない。この観点から言うと、私は子供の頃に読んだ聖書の質感が一番気に入っている。”(P99)

“紙の本の具体性には、作者の考え方や物語の重厚さを効果的に伝えることが出来るという側面もある。”(P101)

“電子書籍には、紙の本のように素早く最後のページをめくることが出来ないという欠点もある。”(P103)

電子書籍の特に大きなメリットとして挙げているのは、かろうじて「読んだ本を保管して整理できる点」だけである。(P104)

 それは確かに有用ではあろう。「紙の本」は、「モノ」である限り、劣化、散逸を免れることは出来ない。「本の整理・保管」は、個々の愛書家のみならず、国家、更には世界にとって、人類の知的遺産の継承のためにも、重要な課題である。場所を取らず、集中的に整理・補完可能で、かつどこからでも瞬時にアクセスできるデジタル・コンテンツは、その課題の有効な解決策に見える。グーグルや国立国会図書館が本のデジタル化に積極的なのは、理解できる。

 しかし、マーコスキー自身が、次のように言ってしまっているのだ。

“人間は、悪魔と契約を結ぶことで言葉をデジタル化する道を選んだのかもしれない。利便性を獲得する代わりに文化の持続性を差し出したのだ。それでは世界中のデータ・センターに障害が起こったら、どうなってしまうだろう。この世の電子書籍がすべて消失してしまう事態も考えられる。”(P26)

 デジタル・コンテンツも「モノ」なのだ。ある面で、「有形物」よりももっともろい部分を持つ。

 では、なぜ電子書籍なのか。みずから大の本好きであるマコースキーは、昨今の読書離れを嘆き、だから「私たち読者は本の魅力を見直し、読書熱を再燃させなければならない」(P309)と言う。だが、なぜ電子書籍ならそれが可能なのかは、よくわからない。

 そもそも、何故デジタル・コンテンツは、インターネットという「エキスパンド・ブック」から、わざわざ多くの武装を外して、降りてきたのか。なぜ電子「書籍」でないといけないのか?

 粉川哲夫の指摘が示唆的である。

“文字をたくさん使ったホームページも少なくないが、われわれは、それを、本を読むようなやり方で読みはしない。まさに「拾い読み」(ブラウズ)するのである。”(『メディアの臨界』P60)

 我々は確かに、画面をスクロールしながら「読む」ことに、困難を感じる。少し前の文を参照したくても、先ほど読んだ場所から移動してしまっているから、目が戻れないのだ。パラグラフ全体を目の隅に置きながら読むことも難しい。紙に定着したコンテンツの方が、人間の記憶装置である脳への定着も起きやすいのかもしれない(cf.記憶における映像に対する写真の優位)。

“表音文字としてのアルファベット、表意文字としての漢字、何れの場合も、知覚される形は、そこを越えて呼び出される「何か」のための通路でしかない。古い文字が運命を暗示するメタファーであったり、解読されるべき神秘的な暗号であると考えられたのは、もともとメタファーが文字の本質をなしていたからである。「メタ」には「越える」という意味がある。”(P58)

 即ち、読書とは、あくまで文字を通じて、文字を越えて、文字の向こう側を読み出す行為であり、音も、絵も、映像もその「向こう側」にあるのだ。映像がそこにあれば、「越える」必要はなく、読書という能動的な行為は起きようが無い。それゆえ、「越える」ことによって生み出される音の、絵の、映像のオリジナルな、多様な創造も起こり得ない。

 デジタル・コンテンツが電子書籍となるに当たって、多くの潜在能力を封印したのは、それらが、むしろ読書という行為を不可能にしてしまうからだ。

 だから、粉川は、「本の主権を奪いつつあるのは、コンピュータの文字処理機能ではなく、映像機能だ」(P51)と言う。

“本は、こちらが読んでいるのであって、映像のように向こうからこちらに飛び込んでくるわけではない。文字という抽象的な記号の集まりから肉感的な存在者を構築したり、ダイナミックな動きを感じとったりするのは、読者の能動性なしには不可能である。”(P52)

“考えなければならないのは、本の終末ではなくて、読むこと、文字を追いながら考え、感じることの変質である。”(P55)

 インターネット上のコンテンツのブラウズ(拾い読み)は、読書よりも映像を見ることに近いかもしれない。もっと似ているのは、チャンネルを回し(回す、なんてこともしなくなった)ながらテレビを見ている状態だろう。読書という能動的な行為とは、全く違う。

“考えなければならないのは、本の終末ではなくて、読むこと、文字を追いながら考え、感じることの変質である。”(P55)

 『メディアとしての紙の文化史』のローター・ミュラーは言う。

“紙の歴史こそは、デジタル技術を応用した蓄積・流通メディアの先史なのである。現在、電子メディアの発達とデジタル化の急速な進展によって変化しつつあるのは、「グーテンベルクの世界」ではなく、紙の時代そのものなのである。紙は、新しい形式や文化に適応する能力に優れたメディアであり、だからこそ近代文明における重要な地位をー銀行で、図書館で、郵便局で、新聞社でー確保することができた。それが、電話と電信の時代にいたって、初めて有力な競争相手を得た。そして現在、紙を基本とする生活習慣や文化技術−文書による遠隔通信−自体が、デジタル技術を用いた生活習慣や文化技術にとってかわられ、補完され、形を変える時代となった。”(P13)

 そして、デジタル・メディアの先輩である紙について、次のように指摘する。

“紙は、新しい生活様式を生み出すのではなく、既存の生活様式のなかに入り込んで、それを安定させ、発展させるのを得手とするメディアである。みずからデータを生み出すよりも、データを蓄積し流通させることに適したメディアなのだ。”(P379)

 デジタル・コンテンツが「既存の生活様式のなかに入り込んで」、書籍のかたちを取ろうとするのは、そのためなのか?

 だが、忘れてはならない。ミュラーは、一つ前の引用で、「紙は、新しい形式や文化に適応する能力に優れたメディア」とも言っていた。結果的に紙は、新しい形式や文化に適応し、そのことによってそれらを推進していったのではないか。同様に、やがて、進化増殖したデジタル・コンテンツも、新たな形式(書籍→電子書籍)、新たな文化(読書→ブラウズ)を強力に推進し、紙の本の文化を駆逐するのだろうか?

 将来のことはともかく、現在の状況へのミュラーの次の見立ては、当を得ていると思う。

“かつて印刷機の登場によって〈印刷されたもの〉と〈印刷されないもの〉の共時的な緊張関係が生まれたのと同じで、現在生じているのは〈アナログ的なもの〉と〈デジタル的なもの〉の共時的な緊張関係にすぎないのである。”(P380)

 紙の本vs.電子書籍は、その前哨戦だろうか?たとえ紙の本がその前哨戦を勝ち抜いたとしても、マルチメディア、ハイパーリンク、ヴァーチャル・リアリティや更に新しい技術で武装し、日々進歩を遂げるデジタル・コンテンツの様々な形態が、待ち構えている。

 いま、ぼくたちは、次のミュラーの問いを共有しなければならない。

“電子的な記憶装置が不可欠だとの見地から、紙はなくてもよいという結論が使われるだろうか。また現代人は本当に「紙から、紙を使わない記憶装置へ」のメディア転換をすでに終えているのだろうか。”(P346)。


 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年)