○第144回(2014/9)
「電子書籍のくせに、なぜ紙の本の真似をしようとするのか、それが許せないのです!」 不思議といえば不思議である。「マルチメディア」「ハイパーリンク」を属性とする、デジタルならではの「エキスパンドブック」が盛んに夢見られ語られたのは、1990年代。二昔前のことである。時代が下るにつれて、むしろ電子書籍はどんどん紙の本に近づこうとしてきた。デジタルならではの可能性の芽を自ら摘みながら。どうしてか? 『メディアの臨界』(せりか書房)で、粉川哲夫はこう言っている。
デジタル技術という新しいテクノロジーが、旧テクノロジーである「書籍」に奉仕させられているのだ。電子「書籍」という形にこだわる限り、それは新しいテクノロジーのポテンシャルの多くを犠牲にせざるをえないのである。その過程こそ、「エキスパンドブック」からキンドルへの道だ。その道は、デジタル・コンテンツにとって、より高みを目指す直線的な道でもなければ、迂回路ですらない。そのポテンシャルから見れば、下山路とでもいうべき道だった。 実は、「エキスパンドブック」は、早い時期に既に生み出され、今や長きにわたって成長してきている。インターネット空間こそが、巨大な「エキスパンドブック」に他ならない。 だからなのか、Amazon キンドル開発者ジェイソン・マーコスキー著書『本は死なない』で語る「読書の未来」は、終始両義的である。それは、よりよい電子「書籍」端末を創るためには、「紙の本」についての知識が、更には「紙の本」への愛情が不可欠となってしまうからかもしれない。
それは確かに有用ではあろう。「紙の本」は、「モノ」である限り、劣化、散逸を免れることは出来ない。「本の整理・保管」は、個々の愛書家のみならず、国家、更には世界にとって、人類の知的遺産の継承のためにも、重要な課題である。場所を取らず、集中的に整理・補完可能で、かつどこからでも瞬時にアクセスできるデジタル・コンテンツは、その課題の有効な解決策に見える。グーグルや国立国会図書館が本のデジタル化に積極的なのは、理解できる。 しかし、マーコスキー自身が、次のように言ってしまっているのだ。
デジタル・コンテンツも「モノ」なのだ。ある面で、「有形物」よりももっともろい部分を持つ。 では、なぜ電子書籍なのか。みずから大の本好きであるマコースキーは、昨今の読書離れを嘆き、だから「私たち読者は本の魅力を見直し、読書熱を再燃させなければならない」(P309)と言う。だが、なぜ電子書籍ならそれが可能なのかは、よくわからない。 そもそも、何故デジタル・コンテンツは、インターネットという「エキスパンド・ブック」から、わざわざ多くの武装を外して、降りてきたのか。なぜ電子「書籍」でないといけないのか? 粉川哲夫の指摘が示唆的である。
我々は確かに、画面をスクロールしながら「読む」ことに、困難を感じる。少し前の文を参照したくても、先ほど読んだ場所から移動してしまっているから、目が戻れないのだ。パラグラフ全体を目の隅に置きながら読むことも難しい。紙に定着したコンテンツの方が、人間の記憶装置である脳への定着も起きやすいのかもしれない(cf.記憶における映像に対する写真の優位)。
即ち、読書とは、あくまで文字を通じて、文字を越えて、文字の向こう側を読み出す行為であり、音も、絵も、映像もその「向こう側」にあるのだ。映像がそこにあれば、「越える」必要はなく、読書という能動的な行為は起きようが無い。それゆえ、「越える」ことによって生み出される音の、絵の、映像のオリジナルな、多様な創造も起こり得ない。 デジタル・コンテンツが電子書籍となるに当たって、多くの潜在能力を封印したのは、それらが、むしろ読書という行為を不可能にしてしまうからだ。 だから、粉川は、「本の主権を奪いつつあるのは、コンピュータの文字処理機能ではなく、映像機能だ」(P51)と言う。
インターネット上のコンテンツのブラウズ(拾い読み)は、読書よりも映像を見ることに近いかもしれない。もっと似ているのは、チャンネルを回し(回す、なんてこともしなくなった)ながらテレビを見ている状態だろう。読書という能動的な行為とは、全く違う。
『メディアとしての紙の文化史』のローター・ミュラーは言う。
そして、デジタル・メディアの先輩である紙について、次のように指摘する。
デジタル・コンテンツが「既存の生活様式のなかに入り込んで」、書籍のかたちを取ろうとするのは、そのためなのか? だが、忘れてはならない。ミュラーは、一つ前の引用で、「紙は、新しい形式や文化に適応する能力に優れたメディア」とも言っていた。結果的に紙は、新しい形式や文化に適応し、そのことによってそれらを推進していったのではないか。同様に、やがて、進化増殖したデジタル・コンテンツも、新たな形式(書籍→電子書籍)、新たな文化(読書→ブラウズ)を強力に推進し、紙の本の文化を駆逐するのだろうか? 将来のことはともかく、現在の状況へのミュラーの次の見立ては、当を得ていると思う。
紙の本vs.電子書籍は、その前哨戦だろうか?たとえ紙の本がその前哨戦を勝ち抜いたとしても、マルチメディア、ハイパーリンク、ヴァーチャル・リアリティや更に新しい技術で武装し、日々進歩を遂げるデジタル・コンテンツの様々な形態が、待ち構えている。 いま、ぼくたちは、次のミュラーの問いを共有しなければならない。
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |