○第146回(2014/11)


 11月15日(土)、立命館大学衣笠キャンパスで開催された「第1回日本ペンクラブ・立命館大学文学部共催セミナー 電子出版時代の書店と図書館」にパネリストの一人として参加した。パネリストは、ぼくの他に、元浦安図書館館長で現在立命館大学教授の常世田良氏、白川書院取締役で『月刊京都』編集長の山岡祐子氏、コーディネーターは立命館大学の湯浅俊彦教授である。

 基調講演「浅田次郎が語る書店と図書館」で、日本ペンクラブ会長の浅田次郎氏が、自らの読書遍歴を語られた。

 浅田氏の場合、家に本が無かったことが、読書への思いを高めたという。一生懸命小遣いを貯めて、本を買った。東京オリンピックの年に中学一年生であったという浅田氏の世代では、町の図書館は子供が行くような場所ではなかったからである。当時まだあった貸本屋もよく利用した。それが、集中的に読書をして(速読では決してない)、多くの本を読む習慣を鍛えた(貸本屋の課金は、一日単位だから)。

 高校生になって、図書館に足しげく通うようになった。当時の図書館は閉架式で、今のように開架式の書棚から自由に本を抜き出して選ぶことはできなかったから、書誌カードを繰りながら、半ば勘に頼って本を借り出すしかなかった。5冊借りれば1冊は当たり、とギャンブルのような感じだったという。当時の図書館には文庫本やコミックはもとより、流行作家の本も置いていなかった。図書館は、一般の人が買えない、探せないものを所蔵する場所であったのだ。

 このように、浅田氏の場合、本は簡単に読めるものではなかった。人は、自分の手が届かないものに憧れる。むしろ遠い存在であったからこそ、本を希求し、読書にのめり込んだ。そして、一見何の役にも立たない小説が、人生をものすごく豊かなものにすることを知り、多くのファンを持つ小説家浅田次郎が生まれることになる。読書推進を謳い、子供たちに読むべき「良書」を提示して与え続ける今の大人たちに、聞いてもらいたい話だ。

 浅田氏が高校生時代に利用した図書館には、文庫、コミック、流行作家の作品は置いていなかった。その後、誰もが読みたい本を自由に借りることができる「市民の図書館」の理念が全国の図書館運動を主導していった。開架式の書棚が主流となり、利用者は自由に本を手にとって選ぶことができるようになった。図書館の敷居は低くなり、利用者も増えていった。そのこと自体は、戦後民主主義の発展として評価できる。だが利用者の増加とともに貸出し数が重視されるようになり、蔵書も利用者の希望が大きく反映されるようになって、文庫、コミック、流行作家の作品が増えていき、特に人気のある本は何冊も購入する館も出てきた。

 その結果、それまで書店で買っていた読者がタダで図書館で借りるようになり、新刊の売り上げが減り、出版者の収益や作家の印税収入を圧迫するようになったとの批判が噴出する。21世紀の初頭に「図書館無料貸本屋論争」として火がついた、「複本問題」である。

 浅田氏も、作家になった当初は、図書館で自分の作品が借りられているのを見てうれしく思ったが、だんだん自分の利益が損なわれているのではないかと不快感を持つようになった、と言う。

 それに対して、後半のパネルディスカッションで、常世田良氏は、図書館を利用する人こそ、本を買う人だ、と浦安図書館時代のデータを引き合いに主張された。図書館は、読者をつくる場なのだ、と。

 ぼくは、これまで色々なところで話し書いてきたとおり、自分自身がそうだから図書館を使う人は本を買う人でもあるという常世田説に賛成である。ただし、貸出し数を図書館の唯一もしくは最大の評価基準と見ることには疑問符を打つし、利用者に阿ったベストセラーの大量購入には、本来そろえてほしい資料のための予算を食ってしまうという意味でも、反対である。

 浅田氏も、図書館で何度も借りた全集を結局は購入した、と言う。その全集は、宮崎市定全集だった。

 それでも浅田氏は、今回のセミナーのタイトルを受け、次のような持論を語った。

 「書店と図書館は補完関係であるべきだと思う。流行本や市民の人が読みたがっている本は書店に置き、図書館は学術書など一般の人が手に届かないものや、買えないもの、探せないものを置くのが基本だと思う。“知の城”としての図書館の姿勢を回復してほしい」

 そして、電子書籍に関しては、「本が好きだった人は本を手放して電子書籍で読みたいとは思わないのではないか。従って、電子書籍のユーザーは今までの本の読者の上に積みあがる」と述べられた。「だから、私は、電子書籍化を野放図に許可している」

 楽観的、希望的な予測であり、現実には電子書籍が紙の本のシェアをいっさい侵食しないというわけにはいかないだろう。それでも、「本が好きだった人は本を手放して電子書籍で読みたいとは思わない」というのは、ぼく自身の実感でもあるし、電子書籍の読者が新たに積みあがるのであれば、ウェルカムである。

 最後に浅田氏は、「出版業界の危機」について、次のように問題提起された。

 「出版業界の危機は、電子書籍のことよりもむしろ出版点数が多すぎるいという問題にある。昔に比べて今は書籍の出版点数は多くなったが、質は下がっている。あまり議論されていないが、考えなければならない出版業界の構造的問題だ。」

 1997年以降、総売上の右肩下がりが続く出版業界は、出版点数を増やすことで日銭を稼ぐ自転車操業化が、年を追うごとに顕著になってきた。出版点数が増えただけ手間が増え、その分経費もかかって、売上が下がるのだから、業界三者が揃って疲弊していくのは当たり前だと指摘するのは、11月にポプラ新書から『「本は売れない」というけれど』を上梓した永江朗氏である。「読書離れ」が犯人扱いされるが、実はそれは「冤罪」である。本は読まれなくなったのではなく、売れなくなったのである。より正確に言えば、書店で売れなくなったのである。ブックオフやアマゾンの登場で、本の売れ方が大きく変化していったことが、この本には手際よく、分かりやすく書かれている。

 その上で永江氏が提案するのは、本の定価を倍にすること。売れ数は半減するかもしれないが、販売にかかる手間も半分になる。そして売上額全体は同じだ。

 “値段が上がれば読者(消費者)も購入には慎重になるだろう。買っても損をしない本だけを買おうとするようになる。出版社もそれを見越して企画を絞り込む。そうなれば出版点数も減る。”ここで、浅田氏の問題提起と繋がる。今なお本を愛してくださっている読者を手放さないためには、しっかり作り込んで魅力のある本を出していくことが何よりも大切なのだと、ぼくも思う。

 もう一つ永江氏が提案するのは、売れ数に従って書店のマージン率をアップしていく仕組みをつくること。売れ数に従ってマージンを上げていくのは、一見販売力のある大型店をますます利することになり、何冊売っても同じマージン率という現在の「常識」は、零細書店も大型店も平等でいいことのように思える。しかし、現実は、その仕組みのもとで商品は大型店に集中しているのであり、それは大型店の実際の販売力の結果ではなく、取次・出版社の配本コストの問題なのだ。だからこそ、話題の新刊が大型店では山積みになっているのに、町の書店は客注分でさえ確保できないという現状になっているのだ。

 むしろ、販売数あるいは仕入れ数に応じて書店のマージン率を大きくすれば、出版社の利益率はその分小さくなってしまうから、大型店以外にもきちんと配本しようというモチベーションが生まれるかもしれない。ただし、販売数に応じてというのは、納品後の結果に応じてマージン率を変える必要が出てくるから、煩雑で難しい。かといって完全委託のままで仕入れ数に応じて書店側のマージンを大きくしてしまうと、大型店に今以上に大量仕入れの動機を与えてしまうので、買切制もしくは責任販売制を取る必要があるだろう。実際永江氏がヒントを得たのは、海外の出版社からの仕入れの時のシステムで、それは基本的に買切であったと思われる。

 このように実際に運用するにはさまざまなハードルがあるだろうが、永江氏の提案は、どちらも一考に価する案だと思う。

 質の良いものが、それを求める人がいる場所に送られてこそ、売れる。その点は、本も、他の商品とまったく同じなのである。

 


 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年)