○第147回(2014/12)

 12月14日(日)の18時、予想されたとおり記録的な低投票率と自公の勝利で衆議院選が終わりつつあるころ、ぼくは御堂筋から宗右衛門町に入り、「無料相談所」の立ち並ぶ道を西へと、ロフトプラスワンウエストに向かっていた。

  今年4月に、自身が勤める書店から歩いて15分くらいのところに、トークライブハウス「ロフトプラスワン」が出来ていたことを、迂闊にもぼくは知らなかった。本家である新宿の「ロフトプラスワン」には、池袋本店時代に2度ばかり行ったことがある。1度目は、確か2005年の年末、その年の4月に全面施行された個人情報保護法の反対集会で、吉田司さんにご一緒し、会場には、斎藤隆男さん、森達也さんらがおられたのを覚えている。

今回ぼくをロフトプラスワンウエストに赴かせたイベントは、“日本の出版業界どないやねん!?物書きと出版社出て来いや!スペシャル”と題された “凡どどラジオ”の公開中継である。“凡どどラジオ”は、ぼんどぅーどぅるという「在日」の二人がパーソナリティをつとめるインターネットラジオで、その日のゲスト(=呼びかけに応じて「出て来た」物書きと出版社)は、「在特会」に取材した『ネットと愛国』(講談社)の著者安田浩一氏と、『NOヘイト! 出版社の製造者責任を考える』を刊行した出版社ころからの木瀬貴吉氏であった。

  『NOヘイト!』の出版に大いに共感し、ジュンク堂PR誌『書標』に書評も寄せていたぼくは、ある人の紹介で、11月の終わりから、木瀬氏とメールのやり取りを始めていた。その中で木瀬氏に、「出演が決まったので、是非来て下さい」と誘われ、何よりも木瀬氏にお会いしたく、そのイベントに赴いた次第であった。「共演」の安田氏とも、今年1月の森達也氏の大阪市立中央図書館での講演でお目にかかり、もっとお話しを聞きたいと思っていたので、とてもいい機会であった。

  今書店の店頭は、「嫌中憎韓」本で溢れている。多くの新刊が出され、送り込まれ、そして実際にそこそこの売上げを見せるそれらの本を、書棚の目立つ場所に展示して行く書店員が、それらをつくり、書店に送り込む出版社が、日常の仕事の中に埋没させながらも確かに積み重ねてきた違和感が一冊の本として結晶したのが『NOヘイト!』である。2014年7月4日に開催されたシンポジウム”「嫌中憎韓」の本とヘイトスピーチ―出版物の「製造者責任」を考える“と、それに先立って行われた書店員へのアンケートの回答を中心に編まれた本だ。書店現場からは、書棚が「ヘイト本」で埋め尽くされることに抵抗を感じる声が多く寄せられたが、一方で「表現の自由を否定するのか」などといった反発、「編集者や出版社は、思想に奉仕するためにあるものではない」、「出版社が売れる本を出すのは当然だ」という反論もある。「棚を占めるタイトルの割合は「嫌韓嫌中」を煽る内容に偏っており、ふらっと書店に立ち寄った利用客に既成事実であるかのような印象を刷り込むのには十分に過ぎる」とある書店員が言う一方で、「そもそも本を大きく展開するのは売れ行きがいいからだ、それ以上でもそれ以下でもない」との声もある。現実として、多くの書店の書棚には、「ヘイト本」が溢れている。

  そうした「ヘイト本」の増産、それらが書店に並ぶ風景を糾弾するのが、“日本の出版業界どないやねん!?物書きと出版社出て来いや!スペシャル”のテーマであった。

 「在日」二人の掛け合いで笑いを誘いながら、“凡どどラジオ”は、「在特会」のヘイトスピーチに満ちたデモ、あまつさえ朝鮮学校の生徒たちにも罵詈雑言を浴びせかける活動を糾弾していく。「在特会」のヘイトデモに対抗し、それを追放しようとするカウンターデモの臨場感あふれる報告がなされ、熱気は会場全体を包んでいった。

 木瀬さんは、語る。

 “「表現の自由」とは、為政者・国家からの表現者の自由を言い、「何でもあり」ということではない。我々業者じしんが、製造者責任を問うのは、「表現の自由」には決して抵触しない。書店に「嫌韓本」が並んでいるのは、攻撃対象である「在日」の人たちに大きな心の傷を与えるから、間違いなくヘイトクライムである。規制して当然だ。”

 安田さんが続く。

 “今、「表現の自由」を奪われ、沈黙を強いられているのは誰か!?その人たちの「表現の自由」を、「表現の自由」を振りかざす連中は、決して守ろうとしてはいない。”

 一番前の席で聞いていたぼくは、「中入り」で木瀬さんと初めて言葉を交わし、安田さんやぼんさんにもご挨拶をした。そして、イベントの後半、書店の人間として発言するように求められた。ぼくは快諾した。

 ラジオ放送は既に終了した後半の部が始まって40分ほどたった時、「会場に書店の人が来ているということなので、発言を」と振られ、ぼくは概ね次のように答えた。

 「このイベントに参加できて、嬉しく思っています。ヘイトスピーチもヘイト本も、ぼくは大嫌いだし、パーソナリティのお二人や安田さん、木瀬さんのやって来られたことには大変敬意を表します。しかしそれでも、書店の人間として、ヘイト本を書棚から外すという選択は、しません。現にそこにある事実を覆い隠しても、それが無くなるわけでもなく、見えなくするのは結局良い結果を生まないと思うのです。むしろ、そうした批判すべき本を、実際に読んでみる必要があると思います。一水会の鈴木邦男さんが、トークイベントで言われていました。『自分の考えを強めるためにする読書は、実はあまり重要ではない。むしろ、何故こいつはこんな考え方をするのか信じられないと言いたい人の書いた本を読むことが、勉強になった』と。だから、ぼくが今この瞬間にもっとも読みたい本は『大嫌韓時代』かもしれません。もちろん、そうした本に感化されない自信があって言うのですが、実際に『大嫌韓時代』を読んでみたいと思います。」

 会場から、予期せぬ拍手が起こった。そして、木瀬さんが壇上からエールを送って下さった。

 「完全にアウェーであるこうした場に、書店の人が来てくれ、そして話してくれたことが、とてもありがたい」

 迂闊にも、ぼくはその時まで自分がアウェーにいるなどとは、まったく気づいていなかった。考えてみれば、イベントのタイトルには「物書きと出版社出て来いや!」とあるが、書店は「出て来い」と言われていない。書店は、ヘイト本の乱立という事件が起きている場であるが、書店の人間は蚊帳の外か、議論の相手にはならないと思われているのか…。

 書店の人間も当事者であり、時に加害者であるのだ。そのことに思い悩み、葛藤しながら、本を並べているのである。その一端が示されていることが、『NOヘイト!』に魅かれた理由のひとつでもある。

 木瀬さんの言葉は、ぼくにとって何よりありがたかった。それは、書店の人間を当事者として迎え入れる言葉であったから、いや何よりもぼくが今アウェーにいるのだということを気づかせてくれ、そのことがぼくに不思議なよろこびを与えていたからである。アウェーに出て行くことこそ自分を鍛え、自分の世界を拡げてくれるのだ。その意味で、自らがアウェーにいることに気づかないぼくの迂闊さはむしろ強みでは、と感じた。

 そんな風に思えたのは、ぼくが翌15日に会う予定であったアサダワタル氏の新刊、『コミュニティ難民のススメ』(木楽舎)をすでに読んでいたからかもしれない。

 “コミュニティ難民”とは、アサダワタル氏の自己定義によれば、特定のコミュニティに属さず、自らの価値観を表現することと、その表現を社会と摺り合わせて「仕事」という枠組みで実践していくこととのハザマを漂いながら、生き続ける民である。この場合の「コミュニティ」は「地域コミュニティ」に限定されず、関心や価値観を共有する人々の集団、分野領域をいう。

 “コミュニティ難民”は、ひとり小舟に乗って〈母島〉(職場、専門領域)の〈岸辺〉から飛び出し、アウェーである他の〈島〉に果敢に赴いていく。そして、常に「一体何者?」と問われながら、そこでさまざまな「仕事」をやり遂げていく。彼らの「仕事」は、アウェーでこそ輝く、あるいは、彼らは自らの「仕事」をつくり出すために、飽くことなくアウェーを探し求めていく。

 “コミュニティ難民”は、明確な帰属先を持たず、常に不安定で、時に疎外感を経験する。が、決して孤独ではない。「小舟に乗る」=敢えて「ひとり」になることによって、漕ぎ出した大海で、必ず他の“難民”に出遭うからだ。“難民”一人一人が、多くの人を呼び集め、まさに「編集」して「仕事」を仕上げる「ハブ」だから、それも当然かもしれない。

 ころからの木瀬さんをぼくに紹介してくれたのは、大阪は堂島の、ジュンク堂大阪本店から四つ橋筋を渡って数分のところになるビルの2階で、「本は人生のおやつです」という小さな、とても素敵な古本屋さん(新刊書も売っている)を営んでいる坂上友紀さんである。木瀬さんは「坂上さんのハブ力は凄い!」と言う。

 アサダワタル氏は、ぼくが勤めるジュンク堂難波店と同じビルにある共同通信社の多比良孝司記者と、京都在住の旧知の編集者川口正貴氏が、それぞれ別々に、ほぼ同時に紹介してくれた。

 アウェーを怖れず、新しい世界を模索する“難民”たちが、蠢いている。

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)