○第149回(2015/2)

 『新潮45』2月号の特集 “「出版文化」こそ国の根幹である”で、永江朗が昨秋上梓した『「本が売れない」というけれど』(ポプラ新書)が、波状攻撃を受けている。それも、二人の論者が、全く同じ個所を攻撃しているのだ。

  “本はタダではありません!”と、ややヒステリックに叫ぶ作家林真理子が、『「本が売れない」というけれど』の「しばらくまえ「図書館栄えて物書き滅ぶ」などと騒いだ作家や出版社があった。図書館がベストセラーを多数そろえて貸し出すので、出版社や作家の儲けが減るという主張だ。ずいぶん下品な物言いだ。」という箇所に対して、「果たして本当に下品なことだろうか。」と噛みつく(失礼!反論する)。

「図書館の“錦の御旗”が出版社を潰す」と石井昴(新潮社常務取締役 )が、「一方、著者の側でも日本文藝家境界理事の永江朗さんは、図書館に文句をつけるのは出版社や作家の儲けが減るというずいぶん下品な主張だと著書の中で論じている。両者に共通するのは本を消費する側の論理だけで、生産する側の事情にいささかの配慮もないことである。」ここで両者というのは、永江ともう一人、昨年10月の「全国図書館大会東京大会」の報告書に、「新潮社首脳の目論見;出版社の首脳が仕掛け人となって、図書館の貸し出し猶予目論む異様な過程を検証したい」と書いた、町田市立さるびあ図書館の手嶋孝典である。

 直近に出た出版―書店論であったがゆえのとばっちりか?「下品な」と筆が滑ったのがいけなかったか?

 だが、永江の本は、作家や出版社の役員が目くじら立てて攻め立てるような内容の本ではない。本の流通形態はそもそも多様であり、更に時代とともに変遷してきたこと、今また大きな曲がり角に来ていることを冷静に見つめ、出版や書店、そして本の未来のための積極的な提言も行っている。まさに林が評する通り、「現実をきちんととらえている」が、「それをどこか『仕方ないこと』として肯定して」いる訳ではない。永江は決して本が読まれなくてもよいとは言っていないし、読まれ方には変化があるにしても実際には本は読まれているのではないか?と問うている。

 コンビニ、郊外型書店、新古書店、メガストア、そしてアマゾン、電子書籍と、この40年間時代の変転とともにさまざまな「外敵」にむしられっぱなしだった「街の本屋」がどんどん店を閉めていき、危機が「中くらいの本屋」にも及んでいる状況を、永江は誰よりも残念に思い、悲しんでいる。二人が攻撃する「ずいぶん下品な物言いだ」の次の一文を、永江はつぎのように続けるのである。

“だったら本屋のない街に本屋を作ってくれよ、自分が住む都会を基準にものごとを考えないでくれよ、と思った。”

 引用するなら、改行前のこの文まで引用して欲しかった、それでなければ永江の真意は伝わらない。

 また、永江は、消費する側にのみ立って生産する側の事情に配慮していないわけではない。

 永江が未来に向けて提言しているのは、定価を上げることと段階的に変動するマージン率。それによって書店の閉店を止めて疲弊を防ぎ、彼らが再び意欲を持って本を売るようになれば、出版社も作家も結果的に潤う。永江は決して両者の敵ではない。

 林は、永江が「読者(消費者)」と表記し、「本は『所有』するものから『体験』するもの、あるいは『消費』するものに変わった。物体として所有するのではなく、読むことを体験し、情報として消費するのだ」と現状分析するのを嫌っているが、ぼくも本はどちらかというと「所有」ではなく「体験」するものだと思うし、ぼくたちは本という物体に託して、お客様に「体験」を売っているのだと思っている。お客様はそれを「消費」するのだ。むしろ「消費」すると思って下さるからお金を(少なくとも消費税を)払ってくれる。(「本を「消費」するもの、読者は「消費者」と考えるのは、本を書いてそれを売ったお金で、つまり印税で生活したことのない人だ。」と林が非難しながら、すぐに「日本には筆一本で食べている作家は50人ぐらいしかいない」と続けているのは、ご愛嬌としよう。)

 出版流通の存続のための技術的提案(定価アップ、段階的マージン率)を掲げながら、永江はやはり存続そのキーとなるのは読者であると考えている。読者がどうするか、ではなく、作る側・売る側が読者をどう見るか、である。端的に言って、読者を尊重するか、である。

 「すべては、この「本」と「著者」と「読者」のために何ができるかから問われなければならない。「本」は出版社が活動を続け、その社員たちに給料を払うために存在するわけではない。出版社も書店も取次も、「本」を「読者」に手渡すためにある。

 現在の「本」を取り巻く状況はそのようなものになっているだろうか。著者が10年かけて書いた本が、書店の店頭から1週間で姿を消し、多くの読者が知らないうちに断裁されパルプになってしまう状況は、「本」と「読者」のためになっているだろうか。それどころか、出版社と書店と取次の経営のために、「本」と「読者」がないがしろにされているのではないか。」

 巻末の永江のこの言葉に、作家が突っ込みを入れるべき箇所が、あるだろうか?

 じつは、トーハンの新年会での新潮社佐藤隆信社長の年頭の挨拶で、いわゆる「複本問題」を取り上げ、図書館のベストセラーの複数購入とその利用者への貸し出しが、出版社の利益を著しく阻害しているので、この問題の早急な解決が図られるべきだ、と主張したと聞いている。『新潮45』の特集が、新潮社を挙げた図書館批判を大きなテーマの一つとしても、不思議はない。ターゲットは、永江ではなく、図書館なのだ。だとしたら、やはり永江は、とばっちりを受けたと言えるだろう。

 新年会といえば、この特集にも「日本の出版文化を守りたいーアマゾンと闘う理由」という文章を寄稿し、日本の出版書店業界がいかにアマゾンに侵食されたかを訴える紀伊國屋書店の高井昌史社長も、新年会ではアマゾンに消費税がかからない不公平をなんとか是正すべしと訴えられていたと聞いた。

 アマゾンに対する税制面での不利は、ぼくも是非改善して欲しい。だが、日本を代表する出版社と書店の社長の年頭の挨拶としては、両方とも淋しいと感じざるを得ない。結局は、縮小しつつあるパイの、自分たちの取り分を増やせという要求であり、敢えて言えば、「本が売れなくなった」ことの犯人探し、犯人づくりであり、建設的な展望を感じられないからだ。

 実際、図書館が複本購入をやめ、あるいはベストセラーの貸し出しを半年間凍結したからといって、それがどれだけ販売数の上乗せに繋がるのか、誰にも分からない。何よりも、読者の利益とぶつかるそうした要求は、慎重であるべきだ。

 図書館は、憲法で保障され、図書館法に基づいてされた公的機関であり、その設置は市民の「知る権利」に基づく。出版社や作家の利益に抵触するからといって、簡単に介入できるものではない。だとすれば、図書館と共存、さらに共闘する道を探るべきではないか。

 本を読まなくても、すぐに困ることは余りない。そして本のよさは、読んでみないと分からない。図書館が本と気軽に接することができる場、読書への敷居を低くしてくれる場であるなら、作家や出版社にとって不可欠な「読者の創造」のために協力していく方が、よほど未来の展望を開いてくれるのではないか。作家はどんどん図書館にでかけ、出版社はそれを仲介していく、図書館に情報を惜しみなく流す、まず与えることによって信頼を得、関係を構築していく。そうして「読者」というパトロンを増やしていくことが、まず第一にしなければならないことではないだろうか。ドラッカーは、企業の仕事はただ一つ、「顧客の創造」であると言った。

 また、税制面での不利だけが、この15年間アマゾンの躍進、独走を許した原因か、と言えば、決してそうではないだろう。なぜ、読者がアマゾンを使うのか、その視点から改めて検討、自らの業態を見つめ直していく必要があるのではないか。それは、なぜ自分たちの顧客がアマゾンに走ってしまったかを、真摯に反省する作業である。決して、自分たちの窮状の原因を他の誰かになすりつけることではない。

 永江は言う。

 “街の本屋からさまざまなものをむしり取っていったコンビニや郊外型書店やブックオフやアマゾンには、これからの街の書店の可能性を考える上でのヒントがたくさん詰まっているとも考えられる。奪われたものは奪い返せばいい。”

 「奪い返す」のである。永江は決して、現状を「仕方ないこと」と肯定などしていない。

 タイトルの『「本が売れない」と言うけれど』という逆接詞のあと、文の後半を埋めるはずのどんな言葉を、永江は省略したのだろうか?


 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)