○第150回(2015/3) 昨年1月にポプラ新書『紙の本は、滅びない』を上梓した時、思いもよらず、30年以上会っていなかった大学時代の同級生が本を買いに店を訪れてくれたり、若い頃尊敬していた役者の先輩からはじめて手紙をいただいたりした。他にも、全く知らない方を含めて、多くの方々から感想や激励の言葉をいただいた。広告や取材のお蔭もあったに違いないが、本の力を改めて知ったぼくは、少しばかり悦に入って、 「本は、宛名のない手紙。それでも不思議と、必ず、届いて欲しい人のところには届く」 と嘯いていた。 ところが最近『街場の文体論』(内田樹著 ミシマ社)を読んでいて、
という一文に出遭う。それに対して、届くメッセージは、メタ・メッセージ=「宛て先があるメッセージ」だと、ウチダ先生は言うのである。「信仰の父」アブラハムが引き合いに出される。「生まれ故郷を離れ、私が示す地へ行きなさい」「全焼のいけにえとして、息子イサクをわたしにささげなさい」という神の命令にアブラハムが聞き従ったのは、主の言葉がほかならぬ主の言葉としてアブラハムに切迫してきたからであり、この言葉の宛て先は他の誰でもなく自分であるということだけはアブラハムに十全の確信を以て理解されたからだという。 ウチダ先生によれば、そもそも、
そうであれば、「宛て先」が明確であるということは、メッセージが届くための最低条件であるとも思われてくる。 確かに、「だれでもわかる〜」とか「みんなのための〜」というタイトルは、眉唾ものである。たいていの場合、その実態は、「だれにもわからない〜」か「だれのためでもない〜」である。「誰でも知っている話題」から入ると初心者は喜ぶという態度は、読み手を見下していて、合格点をもらうためだけに採点者に提出された「答案」と同じ種類の言語活動だ、とウチダ先生は言う。そして、書き手に要望したいのは、みんなに「読み手に対する敬意と愛」を身につけてほしいということだ、と。 一方で、ウチダ先生は、「自分がこれから何を書くことになるのか書く前にはわからない」、そして読者についても「リテラシーというものは、自分では自分が何をしているのかわからないままに行使されている能力」と言っている。こんなあやふやで曖昧な関係の中で、しっかりと「宛て先」を確定することなどできるのだろうか?それこそ、「答案」のような、味もそっけもない文章になってしまうのではないか? 見誤ってはいけないのは、ウチダ先生は、「宛て先があるメッセージ」と言っているのであって、「宛て先が明確なメッセージ」とも「宛て先が限定されたメッセージ」とも言っていないということだ。 ウチダ先生によると、欧米では、日本にくらべて「宛て先が限定される」ケースが多い、という。
「エクリチュール」とは、集団の社会的なふるまい方を規定する無意識の縛りであり、ヨーロッパの階層社会を成り立たせている見えない力である。その「エクリチュール」を批判的に分析しているロラン・バルトやブルデューのような人たちでさえ、書かれたものは難解な学術的文体から成っているのだ。 ウチダ先生は、社会はできるだけ高い流動性を維持すべきだ、と思っている。階級は固定化しない方がよいし、階級ごとに読む(読まない)ものが分化されていない、届けられるメッセージが固定していない状況の方がよいと、ぼくも思う。そのような日本的状況は、日本の人口当たりの書店数の多さと整合性があり、書店人としても好ましい。 諸外国に比べ数の多い書店店頭で、ウチダ先生は「本と目が合う」と言う。その「本と目が合う」という出来事にこそ、「宛て先がないと届かない」かつ「宛て先が確定していない方がよい」という二律背反(アンチノミー)を解く鍵がある。 著者には伝えたいことがある、あるいは、書いているうちに伝えたいことが発生する。たいていの場合、それは一人でも多くの人に伝えたいから本にする。だから、当初、定まった宛て先は、無い。
著者が書き上げた時には「宛て先の無い手紙」だったコンテンツが、多くの人の手を経て物質性を発する本となり、書店に並べられて、読者と「目が合う」。その時に、あたかも予め決められていたかのように、「宛て先」が発生するのである。発展的、創造的な「誤配」も含めて。 一冊の本の「宛て先」はその本が最初から付与されているものではなく、製作段階、流通段階、書店現場で生まれ育っていくものなのだ。例えばピケティの『21世紀の資本』は、あれほどすぐに何冊もの解説本が周りを固め、書店現場で存在感を漂わせなかったら、あれほど売れなかったと思う。 それゆえ、宛て先(書店)を持たない営業担当者に扱われた本は誰にも届かず、宛て先(読者)を持たない書店は自然と淘汰されていくのである。
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |