○第151回(2015/4)

 4月24日(金曜日)、時々寄稿しているWEBRONZAの編集者の紹介で、朝日新聞の記者が、シャルリー・エブド襲撃事件とそれについて書かれた『イスラム・ヘイトか、風刺か』(第三書館)の扱いについて取材したいと、わざわざ東京から大阪・難波のぼくを訪ねてくれた。彼女は、28年前の朝日新聞阪神支局襲撃事件をふまえた特集記事を書いていて、シャルリー・エブド事件にも言及したいのだ、と言った。ぼくが紹介されたのは、中国、韓国や、在日の人たちを標的としたヘイトスピーチやヘイトデモに反対し、出版社の製造者責任(ぼくは書店の販売者責任も含まれると考えている)『反ヘイト』(ころから)に共感し、推薦する文章を書いたり、「店長の本気の一押し!」フェアを展開していたからである。

 『イスラム・ヘイトか、風刺か』には、「シャルリー・エブド」に載った風刺マンガが、一部ボカシは入れながらも、数多く転載されている。そのため、イスラム過激派の報復を恐れて、在庫しなかったり、丸善ジュンク堂書店の東京の旗艦店を含めて、店頭には並べなかった書店が多かった。社内外からの明確な規制があったわけではなく、我々の会社でも各店判断であったので、ぼくらの店(ジュンク堂書店難波店)では、新刊到着と同時に、店に出した。

 何故か?と問われても、「それが普通だから」と答えるしかない。ぼくたちの第一の仕事は、やって来た本を店の書棚に並べることだ。決して、それらの本の評価や批判をすることではない。

 一方、ぼくは、その原則を大上段に構えて、店に出さなかった書店を非難しようとも思わない。

 東京駅の真前で万が一テロ事件が起こったとしたら大変であり、店長がそれを回避したくなる気持ちは分かる。また池袋の店には事前にイスラム教徒の方が訪れ、シャルリー・エブドの風刺マンガがいかに自分たちの信仰を侮辱し、心を傷つけるかを切々と語ったらしい。それを聞いた店長は、テロの危険云々よりも、イスラム教徒の人たちの心情を察して、店頭には並べなかったと聞いている。それも一つの判断であり、高所から批判するつもりは、まったく無い。

 ただ、全国の書店がテロの危険を回避するためにその本の販売を控えるとすれば、それは余りよろしくない状況であると感じていた。

 ある本を店頭に置くか置かないかの選択権は、あくまでそれぞれの書店にある。その本と店長をはじめとする書店スタッフの信条、その書店の規模や立地条件、客層などをつき合わせて答えを出せばよい。だが同時に、その本がどのような本であるのかの吟味と判断も必要である。もしも、『イスラム・ヘイトか、風刺か』が、イスラム教徒の人たちを無用に攻撃する本であると見られたのなら、それは誤解である。薄い本だからちゃんと読んでみればいいと思うのだが、この本は、シャルリー・エブドや事件後パリで展開されたデモに参加した人たちが「出版の自由」を金科玉条とすることに反論し、シャルリー・エブドをイスラム教に対する「ヘイト本」(実は攻撃対象はイスラムだけではない)として批判している、敢えて言えば「イスラム寄り」の本なのである。

 確かに、池袋本店を訪問した人たちが言うとおり、この本に転載されたシャルリー・エブドの風刺マンガは、イスラム教徒たちに多大なる不快感と怒りを誘発するであろう。しかし、テロを恐れて本の展示を見合わせることは、日本在住のイスラム教徒をテロリストに見立てることを意味してしまう。却って失礼ではあり問題ではないか、とぼくは思うのだ。そして、全国の書店がそうすることで、むしろ「イスラム教徒は怖い」という風評を煽ってしまうことにならないか、と危惧するのだ。ほとんどの日本人は、イスラム教について、何も知らないからである。

 大切なのは、知ることだと思う。イスラム教とは、どんな宗教なのか。イスラム教徒が、何を大事にしているのかを。

 シャルリー・エブドに描かれた風刺マンガは確かにイスラム教徒を傷つけるし、更には日本人の差別感情を増長する危険性も孕む。それでなくても、異質なものを理解しようとせずに排除しようとする風潮が強まる昨今である。

 それでも、そうしたリスクを犯してでも、やはり知ることは大切であり、知ることを保証する場は必要なのだ。それは、イスラム教に間違った理解、偏見を持っている人たちにとっては勿論のこと、イスラム教に理解を示している人々にあってもそうなのだ。

 “たとえば、イスラーム原理主義について、「それは本来のイスラームの教義とは関係がない」などと言われたりするわけだが、そもそも「本来のイスラームの教義」が何であるかを知る日本人はほとんどいない。となれば、日本人は、イスラーム原理主義にからむニュースを、ほんとうはまったく理解していない、ということになる”と言う大澤真幸は、“イスラーム教とは何かということについて何も知らない人にも読んでもらいたい”と、『〈世界史〉の哲学 イスラーム篇』(講談社)を上梓した。イスラームの専門家ではない大澤と同じスタートラインに立ち、大澤の「謎」の発見と「謎解き」に随行しつつ、イスラームについての理解を深められる本書は、特にこれまでイスラームと接点を持たなかった人々にとって、格好の参考書であると思う。

 アメリカ軍の侵攻・空爆後のイラクをはじめ、中東諸国で医療支援を続ける鎌田實医師は、『「イスラム国」よ』(河出書房新社)を次のような問いかけで始めている。

  「イスラム国」よ、おまえの狙いは何か。
  「イスラム国」よ、おまえたちはなぜこれほどまでに残虐なことをするのか。おまえはどうやって生まれてきたのか。
  「イスラム国」よ、どこへ行こうとしているのか。何をしようとしているのか。

 「イスラム国」を単なる過激派テロ集団と見ている眼からは、この問いかけは出て来ない。イスラムの人々の間で医療支援を続けながら、喜捨という美しい言葉、習慣を持ち、いつも親切で温かいイスラムの人々と接してきたから、「イスラム教は人に親切にすること、優しくすることを教えている。人を脅かしたり国を乗っ取ったりしろなんて、経典にはありません」というイスラムの言葉を聞いてきたから、出てくる問いかけである。

 大切なのは、まず、知ることである。さまざまなことを知ることの出来る場で、書店はありたい。


 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)