○第152回(2015/5)

 5月10日(日)、大阪市を廃止し、5つの特別区に分割する「大阪都構想」の賛否を世に問う住民投票が行われ、反対(50.4%)が賛成(49.6%)を僅かに上回って、橋下徹市長肝煎りの地方行政大改革案は「否決」された。

 数字を見ると、まさに「僅差」である。変化を好まない国民性を持つと言われる日本で、一つの改革案に対する住民投票の賛成票と反対票が、ここまで拮抗するとは予想していなかった。橋下善戦と言うべきか? 人々の追いつめられ感は、想像以上に大きいのか?

 賛成反対がここまで拮抗しているのなら、大阪都構想をめぐる議論は、終わるべきではなかった筈だ。ところが、翌日の新聞報道は「橋下氏政界引退」一色だった。

 小泉純一郎とともに21世紀の日本政界最初の「風雲児」と言っても良い人だから、その引退表明に耳目が集まるのはとうぜんであろう。自ら「天下分け目」と見定めた「合戦」で勝てなかったのだから、潔く身を引くのが筋なのかもしれないが、スポーツ選手の引退とはちょっとわけが違うのではないか、とぼくは思った。スポーツ選手が引退を決意した試合の結果は、直接的には本人と勝った相手以外の人に大きな影響は与えないが、住民投票の結果は、参加した(参加しなかった)人全員に影響を与えるのだ。しかも、審判はほぼ五分だった。

 逆に、こうなっては、橋下氏がやめようが、誰が後継となろうが、維新の会がどうなっていこうが、それはもうどうでもいい、とさえ言える。報道の優先順位は、「橋下引退」がトップではなかった筈だ。

 だが、実際には、「橋下引退」が一面を飾った。読者の耳目を引くからだ。読者の興味関心に訴えることができるからだ。

 ぼくは、『批評メディア論 戦間期日本の論壇と文壇』(大澤聡 岩波書店 2015年1月) 第4章「人物評論」を想起した。

 この本で大澤は、1930年代日本の、特に批評に照準を合わせて論じている。キーワードは、「出版大衆化」だ。出版史で言えば、少し前に全集の流行があり、それが1927年の円本の誕生・隆盛に繋がり、階級を問わず平等に享受が可能になる、との幻想を広く与えた。商業としての出版の隆盛が始まり、商品としての書物が量産された。書物の量産化に伴い、読者の側では「何を読んだらいいか」が、出版社の側では「どう売っていけばいいか」が課題となり、双方の課題を受けて、批評が要請されたのである。

 そうした中、「人物批評」も、ひとつのジャンルとして成立してくる。

 “時代のキーパーソンを特定し、社会動態における当該人物の位置価を正しく測定したうえで、選択すべき解決策のハイライトを摘記してほしい―まさに「参考書」だ。そうした注文を読者が突きつけてくるのだという。この「虫のいい」即俗的な要望はもちろん出版大衆化の進展が招来した。”

「人物批評」は、文芸批評や論壇時評から見れば派生形かもしれないが、出現してきた背景は同じであり、だから役割も良く似ている。特徴的なのは、「キャラ化」である。「キャラ化」なんていう言葉は当時は無いだろうけれど、出版やジャーナリズムの大衆化された新しい顧客である大衆は、人物の思想・信条・業績以上に、為人(ひととなり)、奇行、失敗、スキャンダルに関心を持ち、「一事が万事」的な見方をする。そして、類型化・カリカチュア化された分かりやすい批評を好むのだ。似顔絵が、象徴的な役割を果たす。

 おそらくその傾向はもっと前からあったのだろうが、特に21世紀になってからの小泉、安倍、福田以下の首相も、その思想信条よりも、カリカチュア化された性格、癖、生きざまなどが注目され、報道もされた。1930年代と2000年代は、似ているのだ。

 「人物批評」のありさまだけが似ているのではない。

 大澤の膨大な資料の渉猟とそれらの丹念な読解=虫の目に伴走しながら、扱われている1930年代を鳥瞰する目の照準を70年ほど後ろにずらしてみると、そこには大澤が描く1930年代とそっくりな状況がある。

 「出版不況」が叫ばれる中、新刊点数はいたずらに伸びていく。70年前の「出版大衆化」に代わって、インターネットをはじめとしたIT技術の大衆化がある。情報は再び爆発的に増加し、誰しもアクセスでき、誰しも発信できるという幻想が社会を覆う。匿名の言説がネット上に溢れる。だが実際に影響力のある、有効な発信は、ますます一極集中していく。「スピード化」の昂進は言わずもがな。読者は作品そのもの、現実そのものに向き合わず、手軽な解説書、マニュアル本で間に合わせようとする。「教養主義的圧力」に代わったのは、「認知資本主義的圧力」か。資格本が、書店店頭に山脈をなす。

 大澤が描いた1930年代は、出版史としては「出版大衆化」にともなう量産体制が成立した出版隆盛期だが、教科書的な日本史では、軍部の力が益々増強し日中戦争に突入していく昭和ファシズム期である。それは、「出版大衆化」だけではなく、1925年普通選挙法公布後政治もまた「大衆化」した(筈の)時でもあった。

 5月12日(火)、台風接近の中、大阪北区茶屋町の関西学院大学梅田キャンパスで、出版学会関西部会主催で対談した大澤氏とぼくは、不気味な結論に同意していた。

 「出版が流行れば流行るほど、それは暗い時代かもしれない」

 出版に限らない。政治も「民主的」に見えれば見えるほど、危ういのかもしれない。

 ぼくたちは、決して出版の低調を望んだり、民主主義を否定したり揶揄したいわけではない。ただ、出版が盛んである、選挙などが民主的に積極的に行われている(住民投票!?)だけで安心していては、かつての二の舞を踏むということを、肝に銘じたいのである。


 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年)