○第154回(2015/7)

 ジュンク堂書店難波店では、7月24日(金)19:00より、「年報カルチュラルスタディーズ」第3号(航思社)刊行記念トークセッション「戦争に抗えるか?」を開催した。パネリストは、「年報」の編集代表でもある神戸大学准教授の小笠原博毅、関西学院大学教授で「カルチュラル・タイフーン2015大阪」の実行委員長を務めた阿部潔のお二人である。

 小笠原はまず、「遠い戦場」という距離感の幻想、欺瞞を問題にした。今日の日本における戦争に関する議論において、なぜか戦場はすべて遠いことが暗黙の前提とされている。安保関連法案についての議論においても、自衛隊や徴兵制が取り上げられるが、戦争に直接かかわるのは自衛隊員たちであって、それ以外の国民は安全でいられるという幻想がまかり通っている。だが、山之内靖らの「総力戦研究」がそのことを明らかにしているように、近代の戦争=総力戦において、戦場と銃後の区別はなく、その距離は限りなくゼロに近い。そのことを、すでに70年前に日本は経験したはずである。

 ところが、今日「集団安全保障」を語るとき、戦場ははるか彼方にあることが「自明」なのだ。それこそ地球の裏側、中近東あたりでしか戦争は起こらないかのようなのである。別の文脈では、北朝鮮の核や、中国の海軍力の脅威がことさらに主張されているにも関わらず。そして、どこで参戦しようと、戦争である以上自国への攻撃は当然ありうるが、その「近さ」は、なぜか棚上げされてしまうのだ。

 この、「戦場/銃後」についての根拠の無い心理的な距離感が、今多くの日本人を「シニシズム」に陥らせている、と阿部は言う。それは、「現在の情勢下で、圧倒的多数の人間は、そこそこの人生を送れる。今この流れを変えないと自分もどうなってしまうか分からないという状況にリアリティはない。」という、実はまったく根拠の無い確信に裏打ちされている。

 つまり、実際の治安状態は、統計的に見ても過去に比べてよくなっているのに「体感治安」が悪くなっているのとちょうど逆の状況、将来は絶望的なのに人々の体感はそれほど悪くないという状況が「シニシズム」を招いている、と小笠原博毅は頷いた。

 そして、国内に蔓延する「シニシズム」は、安保関連法案に反対や批判の火の手が上がっても、結局はそれを通してしまっている。反対する側に、何とかこれを通そうとする安倍自民党ほどの切迫感、必死さがないからだ。

 安保関連法案は、自民党の悲願であり続けた。たまたま孫が首相になったから岸信介の野望が復活したわけではない。安倍晋三は、「40年振りの岸信介」ではなく、「40年目の岸」 なのである。その持続の力に、国民の側は気づいていない。少し前にあれだけ盛り上がった特定秘密保護法への批判も成立してしまうとすっかりと萎んでしまい、マイナンバー制度も今や既存の前提として多方面での対策ばかりが図られている。ちょうど施行10年となる個人情報保護法も含めて、これら一連の法制定にはつながりがある。今回の安保関連法制、さらには憲法9条の改定あるいは骨抜きへのプロセスなのだ。その強力で持続的なプロセスに、国民の側のシニシズムは場当たり的な抵抗しか示しえず、なし崩しにされてきたのである。

 思えば敗戦後も、戦後復興、高度経済成長の中で「総力戦体制」は持続していた。兵士たちは猛烈サラリーマンへと姿を変え、「会社/家族」の図式が、「戦場/銃後」の図式になり替わった。「総力戦体制」の持続は、そのことに気づかずそれを支え続けてきた国民を麻痺させ、再び支配層のミスリードに従わせるのであろうか?

 「戦場/銃後」の距離感が心理的なものであるに過ぎないことは、いわゆる「ヘイト本」や「ヘイトスピーチ」が、隣国の韓国や中国を嫌悪や攻撃の対象としていることからも、よくわかる。相手国の侵略的野望を言挙げする言説も多く含まれているのに拘らず(あるいはそれゆえに一層)、近隣国を侮蔑し、挑発する発言と行動は、よほど日本の防衛力に自信を持っているのか、自分の運の良さを信じているのか、いずれかでしかありえない。しかしそのどちらも根拠は薄弱としか思えないから、やはり「シニシズム」のなせるわざというべきであろう。

 『NOヘイト!』の第二弾である『さらば、ヘイト本!』(ころから)でも書かれているように、ここに来てヘイト本の勢いは少し弱まってきた。一昨年や昨年のように次から次へと出版され書店の新刊棚を埋め尽くすようなことはなくなった。だが、目にする機会が減ったものが、現実に少なくなったとは限らない。

 『さらば、ヘイト本!』の刊行を機に年末年始のフェア以来復活させた「反ヘイト本・ヘイトスピーチ」のコーナーを、朝日新聞が7/8(水)夕刊一面で大きく取り上げてくれた。それを見た東亜日報が7/22(水)に電話取材、翌23日にインタビュー記事を本誌に掲載並びにデジタル版にアップ。23日午後に「読んだか?」という電話が店にあったのを皮切りに、他の店や営業本部などにも、いくつかクレームの電話やメールが入った。

 面白いのは、朝日新聞の夕刊一面よりも東亜日報の記事の方が反応が早かったことだ。彼らは、朝日新聞は読まないが、東亜日報は読んでいるのだ。もちろん愛読しているわけではなく、ウォッチャー(監視者)がいて、何かあればニュースがネット空間に拡がっていくのだろう。

 彼ら、今なお隣国への嫌悪・憎悪を持ち続ける人々がどれくらいいるのかはわからない、だが、見えなくとも存在することは確かだ。同種の思いを心の中にひそませている人々のことは、もっと見えない。

 表層部分での変化の速さが、すなわち忘却の速さが、持続的なものをますます見えなくする。あれだけ批判の十字砲火が浴びせられた『絶歌』(太田出版)についても、言いっ放しの「議論」は、早くもいつのまにかどこかへ行ってしまった感がある。やしきたかじんの最期をめぐって議論が沸騰した『殉愛』(幻冬舎)騒動も、まだ半年余りしか経たない今、すっかり鎮火した気配だ。店頭での『絶歌』の「瞬殺的な」売れ方は、『殉愛』のそれに、本当によく似ていた。

 見えていないもの、特に意図的に隠されている持続的なものを見えるようにすること、それは、シニシズムを再びリアリズムに引き戻すために必要な作業であると思う。出版とはそうした掘り起こしの作業ではないだろうか。そして、書店とは、まさに社会を「見える化」すべき空間ではないか。
そう思いながら、10年前のベストセラー『見える化』(東洋経済新報社)を読み始めた。


 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年)