○第155回(2015/8)

 7月3日(金曜日)、河原町御池の京都ホテルオークラで行われた第三回河合隼雄物語賞・学芸賞授賞式に列席した。学芸賞を受賞された大澤真幸さんが、ぼくを招待してくださったのである。(物語賞受賞は、中島京子さんの『かたづの!』(集英社))

 受賞作は、『自由という牢獄』(岩波書店 2015.2刊)。自由が拡大すればするほど、社会は閉塞感に包まれ、束縛から解放されればされるほど、多くの選択肢を前に人間は選ぶことができなくなる。逆説的でありながら、極めてリアルな、大澤社会学の魅力が詰まった本である。大澤さん自身、「『自由という牢獄』は、ぼくにとっても特に重要な論文を収録しましたので、是非、多くの読者に届いて欲しい、と思っております。」と仰っておられ、ぼくもまた、本書にようやく収録された「公共性の条件」がおよそ10年前に『思想』に連載された時、すぐに単行本化すべきだと岩波書店の人に迫ったほど惚れ込んだことを思い出す。

  相応しい本が、相応しい賞を受けたことを祝福したいと、喜んで京都に出かけた。

  授賞式が始まり、講評を担当した選考委員の一人中沢新一さんが、「私は社会学が嫌いです。社会学は、コミュニケーションですべてを説明しようとするからです。」と、切り出した。社会学者である大澤さんの授賞式での講評としては、いささか異例である。

  だが、中沢さんは、「大澤社会学」が、ご自身が嫌いな通常の社会学の枠を大きくはみ出していることを認めて言っているのだ。確かに大澤さんの思索と著作は、社会学というにはあまりにもスケールが大きい。コミュニケーションを自明な単位として前提しているわけでもなく、コミュニケーションが成立する根源にまで深く踏み入っていく。中沢さんも、大澤さんの仕事を大いに讃えた。

 ともあれ、中沢さんのその一言は、ぼくの胸に響いた。中沢さんが専門とする人類学と社会学は、対象とする領域も方法も、素人目にはかなり重なるように見える。だがもし、社会学と人類学で「コミュニケーション」の持つ意味に重要な違いがあるとすれば、(一概にそうとも言い切れないにしても)「近代」を対象とすることの多い社会学と、時代区分を超えて人類を、しばしば「未開」と呼ばれる民族をモデルとしながら扱う人類学の領域や性格の違いが、より明確になるような気がしたのである。言いかえれば、(これも荒っぽい言い方ではあるが)「コミュニケーション」が近代の産物であり、時代を下るにつれ、その重要度がますます自明なものとされてきたように思われるのだ。

 例えば、IT技術にしても、知の集積や知的協働から、「コミュニケーション」へと、用途の中心がシフトしてはいないか(SNS)? それがビジネスにとって合理的であることは充分に理解できるが、それだけではなく、人類全体が「コミュニケーション」というオブセッションに、引きずられているように感じるのだ。

  労働者は職場で常に「コミュニケーション」を言われ、就活学生はひたすら「コミュニケーション力」を問われる。その要求は、教育現場へも遡及していくだろう。だが、予め前提とされる「コミュニケーション」は、どこかニセモノ臭い。ニセモノだから、攻撃的になる。イジメは、その結果ではないか。

 身近になる、を通り過ぎて今や身体に装着されようとしているIT機器は、常にぼくたちに素早い応答を迫る。熟慮は想定外で、沈思黙考は裏切りである。いつしか、人には脊髄反射的な行動しか許されなくなりそうな勢いだ。

  真のコミュニケーションは、それほど素早く応答できない、強烈なメッセージから始まるのではないだろうか? 言葉を失うほどのショックを受け、そして何とかそれに応えはじめることができたときこそ、真にコミュニケートできた、というべきではあるまいか?

  同様に、わかりやすくすぐに読み通せる本ではなく、どこかよそよそしい本のページをめくるときにこそ、実りある読書が始まるのだ。すぐに理解できなくとも、その本は読者の体内深く、沈潜・蓄積する。そしてある時、出来事や他の本との遭遇が触媒となって、閃光が生じるのである。時に、そこにあることさえ不快な本が、ぼくたちを鍛える。

 誤解を恐れずに言えば、より多くの読者の理解と共感をできるかぎり速やかに得る本がベター、ではないのだ。そのような本は、読者に何ら新しいものを埋め込まず、存在価値をアピール出来ずに消えていくことが多い。近年、出版社はそのような本をつくることを第一義とはしてこなかったか?書店は、そのような本を出版社に望み、「足の速い」本を初速に合わせて大量に仕入れることのみを、仕事としてこなかったか? だとすれば、出版―書店業界の凋落の真の原因はそこにある。数年、中には数ヶ月で市場から消えていく書籍の自転車操業的な量産で何とか凌ごうとしたことが、ますます業界全体を疲弊させてしまったのではないだろうか?

 その影響は業界内に留まらない。そのような出版や出版流通の傾向は、世の人々が、様々な問題に持続的な関心を持たないことの責任の一端を背負っているのではないか? 『絶歌』(太田出版)出版をめぐる、異常とも言えるバッシングを伴った議論はどうなったのか? 湯川さんと後藤さんが殺害されて約半年、今でも人々は「イスラム国」のことを気にかけているだろうか? 安保法制の以前に、特定秘密保護法があり、更に遡れば個人情報保護法についても公人の情報開示拒否の可能性からジャーナリズムを中心に強い反対運動があったことを覚えている人はどれくらいいるだろう? 反原発は…・・・?

  問題は全く解決していないし、消えてもいない。消えたのは関心である。見えなくなってしまった問題を「見える化」し、去ってしまった関心を呼び戻す、強烈なメッセージを持った書物を提供すること、それこそが出版―書店業界の責務であり、生きる道だと思う。その時、真のコミュニケーションが、始まるのである。

※中沢さんの講評に触発されて、『図書』の巻頭言を書いた、併せてご覧ください。
http://www.iwanami.co.jp/tosho/799/preface.html


 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年)