○第158回(2015/11) 11月13日(金)、グランフロント大阪で開催された「BOOK EXPO 2015 秋の陣」のイベント企画「明日につなげる書店人トーク」に登壇した。他の登壇者は、梅田蔦屋書店店長亀井亮吾氏、井戸書店代表取締役森忠延氏、司会は文化通信社常務取締役星野渉氏である。 各々簡単な自己紹介をしたあと、星野さんが投げた最初の質問は、「梅田蔦屋書店ってどうなの?」であった。登壇者の一人の店を最初から直接のターゲットにするのは異例かもしれないが、今年の大阪でのもっともトピカルな話題であるので、と星野さんは付け加えた。 事前に告げられていたこの質問に備えて、ぼくは『TSUTAYAの謎 増田宗昭に川島蓉子が聞く』(日経BP社)を読んでいた。実際に店を訪れた感想と、増田宗昭社長の理念、戦略を絡めて、率直に感想を述べようとしたのだ。そのことは間違いではなかったと思う。時折いささか意地悪な突っ込みも交えて投げかけた質問への亀井店長の答えは、ほぼ増田社長の考えと重なっていたからだ。 ぼくはまず、オープン後まもなく梅田蔦屋書店を訪れて、その独特の書店空間づくりに大変刺激を受けたことを言った。店のつくり方に賛否は分かれるし、後述するとおりぼくにも思うところはあるのだが、いくつもの喫茶、座読用スペースからクロークや靴磨きコーナーまで設けた書店空間は、ユニークであることに間違いはない。そしてこの空間づくりに、増田社長の強い意志が反映していることも、明らかである。 増田社長は、今日の(リアル)書店の衰退の最大の原因を、ネット書店の台頭に見る。その認識は間違っていないと思うし、(リアル)書店の存続のために、ネットにはできないことを目指すという方向性にも、賛同する。それは言い換えれば、「本をわざわざ買いに行きたくなる」場所であり続けることであり、そのために最も大切にしてきたのが徹底してお客さんの視点=顧客視点を持ち続けることだという姿勢にも、共感する。そうした認識と姿勢、戦略から増田社長がたどり着いたコンセプトが、「生活提案」である。 戦後のモノ不足の時には、モノの生産そのものが、高度成長期、バブル期にはモノを売るプラットフォームが求められた。それに対応して現れたのがコンビニエンスストアであり、ショッピングモール、楽天などのインターネット市場だった。音楽、映像、出版物をコンテンツの容れものとして一つに括り消費者に提供するTSUTAYAもこの時代に生まれた。そして、モノが行きわたった今日、さらにし商品を売って利益を得るために必要なのは、「生活提案」である。そして、本こそ「生活提案」の塊である。「雑誌でも書籍でも、人が人に何かを伝えようとして、言い換えれば、何かを提案しようとして作ったもの」だからだ。そうした認識の上に、代官山を皮切りに、蔦屋書店が登場した。 そこには、日々の応対の中で、客に有効、適切な提案をすることの出来る店員の存在が不可欠である。ジャンルごとに配される、知識・経験豊富で提案型の書店員は、コンシェルジュと呼ばれる。 だが、ぼくは、書店のコンシェルジュは、原理的にあり得ない、と思っている。多くの場合、買い求められる書物については、間違いなく書い手である読者の方が売り手である書店員よりも詳しいからだ。ぼくたち書店員に精一杯できるのは、顧客の背中を見ながら、その姿が見えなくならないように辛うじて後を追うことだけである。 確かに、ジャンルによっては、場合によってはさらに絞られた分野で、コンシェルジュ的な働きをできる書店員は存在するだろう。児童書や推理小説の専門店は誕生しえたし、「時代小説なら任せて」という人もいる。だが、それは例外的で、まして、人文書、社会科学書、理工書、医学書、芸術書、そして実用書も含めて、通常1人の書店員が担当する1ジャンルの範囲をカバーできる人はいないのではないだろうか?顧客の背中を追うことがぼくたちいせいぜいできることであるならば、大切なのは、増田社長じしんが言われているように、徹底してお客さんの視点=顧客視点を持ち続けること、徹底的に訪れてくださった読者を見るということであり、客に聞くということではないか?(ただし、ぼくは増田社長ほどには、ビッグデータの有効性を信じてはいない。ぼくたちの顧客は、いつも個々の読者だからだ。) 更に言えば、「生活提案」という理念そのものについても、書店におけるその具体的な展開をイメージするときに、疑問が残る。本が「生活提案の塊」ならば、注力すべきは、多様で魅力的な本を展示紹介することであり、書店を「まるごとカフェにする」ことではないのではないだろうか? 確かに、購書空間が本を探し、吟味するために快適なものであることは大切である。だがそれはあらゆる商業空間に共通の課題であり、「生活提案」という理念ゆえではない。本を購入したあと、居心地のよいカフェで美味しい飲み物を飲みながら新しい本を繙くのは至福の時間だが、それは読者一人一人の嗜好に任せるべきことで、ことさら書店が「提案」することではない。至福の時間が流れるのは、あくまでも本の内容によるのだ。周囲のことなど全く意識に上らないほどに読み耽り、没入する本を提供することこそ、出版=書店業界の役割である。 もっと言えば、本の「底力」から見ると、「生活提案」というのは、むしろ少し緩すぎる表現なのかもしれない。本には、時に読者の思考や生き様そのものを更えてしまう力があるからだ。 その意味では、梅田蔦屋書店の品揃えは、ぼくには物足りない。売上シェアは決して高くはなく、ニッチといってもよいかもしれない人文書の棚には、質量ともに主張がないからだ。 もちろん、そのことに合理性はある。ジュンク堂の売上構成比を見ても、実用書、ビジネス書の率は高い。しかも、それらのジャンルは、誰もが今すぐ実行できる「生活提案」に満ちている。蔦屋書店で実用書、ビジネス書ジャンルが圧倒的な存在感を持つのは、当然かもしれない。だが、誰でも今すぐ実行できることには、読者や読者を包む状況を、決定的に更える力は無い。 一方、人文書の本質は、世界のありようそのもののオルタナティブの提示である。究極の提案である。カフェスペースなど読書環境の「充実」のために、そうした究極の提案が切り捨てられているとしたら、少なくとも、「更える」力はその空間には感じられず、ぼくは魅力を感じない。そして、それが販売シェアの精査の結果であるとしたら、やはりデータは、現状肯定を前提とした戦略しか産み出さなかったと思うのである。 ピケティの大著を待つまでもなく、現代世界の最大の問題は、拡がり続ける格差である。いみじくも、増田社長は『TSUTAYAの謎』の中で、最初に就職した鈴屋の社長の遊びっぷりのゴージャスさに驚き、「ライフスタイルって、究めたらもっともっと上があるんだって思った」と語っている。梅田蔦屋書店の「靴磨き」コーナーにおける靴を磨く人と磨かれる人の非対称な風景こそ、格差の象徴であった。
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |