○第160回(2016/1)

 1月14日(木)、アサダワタルさんが難波店を訪れてくれた。アサダさんは、一昨年の年末に 『コミュニティ難民のススメ』(木楽舎)という本を上梓し、すっかりぼくを魅了してしまった書き手である。

 彼は、二つの相談を持ってきた。

  一つは、彼が昨年11月に『表現のたね』(モ*クシュラ刊)という書籍を上梓し、それと関連する音楽CDを制作したのだが、それを本と一緒に書店で売ってもらうにはどうしたらよいだろうか、というものだった。書籍の方はツバメ出版流通株式会社を通して、全国の書店に並べられている、CDの方は、(株)ブリッジを通じてCDショップに流れている。その二つの商品は深く関連しあっているので、ほんとうは是非一緒に並べて販売してほしいのだが、物流の系統が全く違うので通常の方法ではそれが叶わない、というのがアサダさんの「悩みのたね」だった。

 書店で、取次ルートに乗っていない商品を、直取引などの方法で販売することは可能だ。アサダさんは、直取引は個人でやっている小さな店に個別に頼み込めばなんとかなりそうだが、チェーン店では難しいと思っているようだったが、決してそういう訳ではない。丸善ジュンク堂や紀伊國屋書店などナショナルチェーンでも、直取引は数多くある。取次ルートで仕入れるよりは手間はかかるが、棚の活性化、他店との差別化のためには、そうした仕入も積極的にやっていかなければならない。

 但し、一軒ごとに、また一件ごとに取引開始時の取り決めをしなくてはならないのは、双方ともに煩雑であることには違いない。取次口座を持つ出版社に発売元になってもらい、ISBNをつけることが出来れば、いちいち面倒な手続をしなくとも、全国の書店に卸すことができる。日本の出版販売網は、そういう意味では今なおすぐれたものであると言える。

 実際、ISBNや雑誌コードをつけることによって、全国の書店でブランドバッグも鍋も枕も、組み立て式のロボットや3Dプリンターも売られている。TSUTAYAの増田宗昭社長が、「本とは生活提案の塊」というならば、逆に「生活提案の塊が本である」と言えるのだ。

 むしろぼくたちが望むのは、書店の什器(=書棚)に収まりの良い形態である。新刊、新譜時、或いはイベント絡みやフェアで、ある程度のボリュームを持って面陳列する時には気にならないが、棚に差して長く売ろうと思うと、CDケースだけでは背表紙も見づらく、本の間に埋もれてしまう。やはり、書棚に合うのは、書物並みの大きさ、厚みを持つ商品だ。最近では小学館や宝島社が、本の大きさの紙箱に入れて、クラシック音楽CDを書店で販売している。内沼晋太郎は、『本の逆襲』で、‘’一部の三省堂書店には「カレーなる本棚」という、日本全国のご当地カレーが県別に並ぶ本棚があります。‘’と紹介、「カレーも本である」と宣言し、次のように書いていた。

 “レトルトのカレーの箱は、ちょうど本と同じくらいの大きさで、側面にも商品名がかいてあることが多く、棚に差しても判別できます。レトルトであれば日持ちするので、書店にとっては本にかなり近い感覚で販売できる商品のひとつだと言えるでしょう。”

 要するに、店舗で販売するには、什器に合ったパッケージこそ重要なのだ。レトルトカレーは、「ちょうど本と同じくらいの大きさで、側面にも商品名がかいてあることが多く、棚に差しても判別でき」るからこそ、書店で販売することが出来たのである。アサダさんと話しながら、そのことは商品というものについて、決定的なポイントだと、ぼくは考え始めていた。

 本やCDは、パッケージ商品だと言われる。デジタル化が破竹の勢いで進み始めたころ、消費者が求めるのはコンテンツなのだから、パッケージなど本来無駄なものだ、音楽はダウンロードに、本は電子書籍に取って替わられるだろう、と盛んに喧伝された。だが、本もCDも、未だに「取って替わられ」てはいない。商品には、パッケージが必要不可欠だからだ。パッケージこそが、中身の品質を保証する手形であり、流通を円滑に、保存を容易にし、店舗での販売を可能にするのだ。

 コカコーラの原液は5円以下であると言われる。消費者が支払う大半は、コーラを瓶詰め、缶詰めする経費に対してだ(子供のころ、「この番組は、コカコーラ・ボトラーズの提供でお送りします」というテレビのアナウンスを聞いて、なぜ中身の会社ではなく瓶の会社がスポンサーなのだろうと、不思議に思っていたことを想い出す)。

 本にしても同じことで、IT時代の今、コンテンツだけならネット上に溢れ返っているものを、タダで享受することができる。だが、これを読みたい、これを読まなければ、という欲望を喚起するのは、コンテンツを包むパッケージなのかもしれない。商品が、すなわちパッケージ化されたコンテンツが、店頭に積み上げられ、あるいは静かに書棚に並んでいる風景なのかもしれない。パッケージ化されていることの意味を、商品(ブツ)であることのアドバンテージを、本やCDを販売する我々は、もっと自覚すべきではないだろうか?

 アサダさんのもう一つの相談は、難波のスタンダードブックストアの中川社長が「アサダワタル極つき十三夜」という企画を立ててくれたのだが、というものだった。1年にわたり、「日常編集家」アサダワタルが、さまざまなジャンルのゲストを招いて語り合う、という企画だ。

 「それはいい!」と、ぼくは即座に膝を叩いた。ぼくが魅了された本のタイトルにもなっている「コミュニティ難民」とは、既存のアイデンティティに縛られずに、さまざまなジャンルに活動の場を拡げる人たちのことで、「越境者」と言い換えてもよい。著者のアサダさん自身が、誰よりも「コミュニティ難民」=「越境者」であるから、そうした企画のホスト役にはうってつけだと思ったからだ。しかも、その魅力的な企画のゲストの一人として、ぼくを呼んでくれると言うのだ。

 最初「来て頂くことは、可能でしょうか?」とアサダさんが遠慮がちに打診してきたのは、他社の企画に出てもらうことはありえるのだろうか、という懸念があったのだろう。ぼくは即座にOKし、アサダさんを驚かせた。

 確かに、スタンダードブックストアは、ぼくが店長を務めるジュンク堂書店難波店の、恐らくは直近のライバル店である。ぼく自身も自店でトークイベントをやっているから、その意味でもライバル関係にあると言えるかもしれない。だが、両店は、書店としてのあり方が大きく違う。「本屋ですが、ベストセラーはおいてません」と謳い、本と雑貨が自由に入り乱れるスタンダードブックストアを、ぼくはとても面白く感じていた。おそらく客層も違っていようし、イベントのやり方も違う。精力的にイベントを打っておられるのは知っているし、「ハコ」が違えば得意分野も違うであろう。お互いにイベントの紹介をし合う、裏返せばお客様の紹介をし合えば、双方にメリットがあるのではないか、と思っていた。

 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店やジュンク堂書店大阪本店など自社の他店舗だけではなく、隆祥館書店、紀伊國屋書店グランフロント店、梅田蔦谷書店など、積極的にイベントを行っている他社書店も多い。それぞれの店の常連客の多くは、本好きに違いない。イベント告知を協力して行うことで、協同して読者にアナウンスし、結果的に読者を紹介し合うことが出来れば、大阪が「本の街」であることを、もっと喧伝できるのではないか?

今のところ、ぼくの夢想に過ぎないかもしれない。だが、スタンダードブックストアの連続企画「アサダワタル極つき十三夜」へのぼくの参加が、そうした動きのきっかけになれば、と願うのである。

 

スタンダードブックストア「アサダワタル極つき十三夜」は、1月28日(木)に第一回が開催されました。第二回は2月23日(火)の予定です。

福嶋の参加は、現在4月くらいを目途に調整を進めています。

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年)