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○第161回(2016/2) 2月27日(土)18:30〜20:30、東京都国分寺市の国分寺労政会館で、「多摩デポ講座『紙の本は、滅びない』」という演題で講演をした。主催は、NPO法人共同保存図書館・多摩である。 年初めに、一通の手紙を受け取った。差出人は、堀渡さん。堀さんは、定年まで国分寺市立図書館長をつとめ、その傍らポット出版の『ず・ぼん』という図書館関係の年刊誌の編集委員をしていたと自己紹介し、2004年4月発行の『ず・ぼん9号』に、ぼくのインタビュー記事とぼくも参加した座談会を掲載したことを手紙に書かれていた。言われるまでもなく、堀さんのことも、『ず・ぼん』のことも、ぼくはよく覚えていた。ぼくへのインタビュー記事と本コラム「本屋とコンピュータ」の転載記事は24ページにわたってその号の巻頭に掲載されたのだ。 当時、図書館での複本やベストセラー貸出しが本を売れなくし、出版業を圧迫すると作家や出版社が図書館を批判、「無料貸本屋」などという蔑称が飛び交っていた。図書館ユーザーであるぼくは、元浦安図書館館長の常世田良氏らの「図書館を利用する人は、書店で本を買う人でもある」という主張に、自分自身がそうだから同意していたし、出版販売総額の96年以降の持続的な右肩下がりに加えてアマゾンの日本上陸に苦戦を強いられていた日本の書店業界が売上低下の犯人探しをすること自体に、ましてや「真犯人」をつくり上げ吊るし上げることに、何の生産性も感じなかった。むしろ書店と図書館は、本を読者に提供する役割を共有するものとして連携すべきなのだと、ぼくは言い続けていた。当時ほどの広がりはないが、この複本問題、「無料貸本屋」説は、いまでもくすぶり続け、時々火が付く(→本コラム149回)。 当時のもう一つのイシューは、図書館の民間委託問題だった。まさに『ず・ぼん9号』の特集テーマであった「図書館の委託」問題に対して、前年2003年の9月に施行された「指定管理者制度」が図書館にも及ぶことの可能性と危惧、批判が渦巻いていたのだ。図書館の民間委託は、あれから10年余、様々な反対意見も受けながらも拡がっていき、今では既成事実化した感がある。最近ではTSUTAYAが、小売書店・カフェ併設の新しい形での図書館運営をはじめ、注目を浴びたが、蔵書問題などで疑問視され、物議を醸してもいる。 さて、現在堀さんが理事を務め、今回の講演の主催者となる「NPO法人共同保存図書館・多摩」という名を見て、『ず・ぼん』でお付き合いがあった当時、堀さんが多摩地域に「共同保存図書館」を設置しようという活動に熱心に参画されていたことを思い出した。そして「デポジットライブラリー」という言葉が含まれた本も確か読んだはずだと思い、検索すると、『東京に、デポジットライブラリーを!―多摩発、共同保存図書館基本構想』(ポット出版)がヒットした。既に手許に無かったので、大阪市立中央図書館で借りてきて再読した。 「共同保存図書館」構想は、東京都が、都立図書館の保存スペースの限界を理由に、ある程度年数の経った資料(図書館では蔵書のことを「資料」と呼ぶ)を、都立図書館全体で2冊以上保存することなく、複数冊あるものは除籍、廃棄するという方針を一方的に通達してきたことに反対し、実際に動きはじめた除籍作業の中で出てきた資料を保存する場所をつくろうという構想である。都立図書館の除籍問題がきっかけになって多摩地域でこうした構想が生まれ運動が立ち上がったのは、二十三区とは対照的に比較的小さな自治体が割拠する多摩地域の市町村立の公共図書館が、利用者の要望に応えるために、都立図書館の資料の協力貸し出しに多くを依存しており、その原資たる蔵書が減らされていくことは自分たちの業務に即影響してくるからだ。そして、「都立があてにできないのなら」と、各館の書庫に置ききれなくなる蔵書の保存を行い、地域内で一度は蔵書となった資料タイトルの提供可能性を、いつまでも維持していけるようにするため、そして地域全体に希少な本も集約して、利用者に提供できるようにする「共同保存図書館」をつくろうと、地域の図書館関係者や関心を持つ市民が集まってできたのが、NPO法人共同保存図書館・多摩である。すでに十年余の活動歴があるというから、ちょうどぼくが『ず・ぼん』に関わっていたころに産声を上げたのだ。顧問に津野海太郎(元晶文社)、理事に清田義昭(出版ニュース社社長)と、よく知った人たちの名前も見える。 年年歳歳、日々刻々と増えていく資料の量が、やがて図書館の収容可能量を越える。図書館は、溢れた資料を放置するわけにはいかず、移動、除籍の措置を取らざるを得ない。増えるたびに保存庫を増設できればよいが、経済も財政も厳しい中、それは余り期待できない。 考えてみれば、これは図書館特有の問題である。書店にこの問題はない。委託商品が多い新刊本屋では、仕入れた商品が書棚に入り切れなくなれば、大抵は売れ行きの悪いものから返品する。お客様も、およそ売れそうにないものも在庫しておくことまでは要求しない。書店は「競技場」であるから、残り続けるものもあれば、去っていくものもあるのだ。
ところが、図書館が資料を処分するといわれると、抵抗がある。図書館は貸出機関であると共に、保存機関であるからだ。書店の書棚は本を流通させる装置、そこにやってきた本たちはいずれ去って行く(売れて読者の元に、あるいは売れ残って出版社へ)一時滞在の場であるが、図書館の書棚は、本たちにとって「終(つい)の棲家」である。書店在庫が無くなり、出版社でも品切れしてしまった本でも、図書館にさえあれば、いずれ読むことは可能だ、除籍となるとその安心感が潰えるので、心的抵抗があるのだ。 「共同保存図書館」構想は、そうした図書館特有の問題の解決のためのものだ。堀さんたちの構想では、保存だけでなく積極的な他館への貸し出しも図られている。あくまで図書館利用者の利便を第一に考えられており、今しがた述べた心的抵抗の解消にもつながるから、NPO法人共同保存図書館・多摩は、図書館関係者だけでなく、図書館利用者、一般市民と、広範囲の参加を得ている。 今回のぼくの講演会には、そうした人たちがたくさん集まってくる。そんな背景を知ったとき、ぼくは講演のタイトルが「紙の本は、滅びない」であることの意味に思い当たった。 『紙の本は、滅びない』はぼくが最も直近に上梓した本のタイトルであるから、講演会のタイトルに使われても不思議はない。とはいえ、すでに刊行から2年近くは経っている。この本の刊行は、当時余りに加熱した、「紙の本」が電子書籍に取って換わられるという喧伝に対抗してなされたものであった。書かれている主張に基本的には変化は無いが、刊行後、そうした喧伝はやや沈静化し、代わって、「ヘイト本」の氾濫やそれに対する自己批判、反「安保」法案・民主主義運動の高まり、それを応援する書店フェアへの攻撃など、本・出版・書店をめぐって新たな状況が立ち上がり、ぼくもそれについて発言したり書いたりしてきた。ひょっとしたら、図書館関係の人たちには、それらの話題の方が相応しいのではないか、と考えたりもしていた。例えば、「はだしのゲン」の扱いなどについて、書店と同じような戦いを図書館も強いられているという認識が、ぼくにはあったからだ。 その認識は決して間違いではないと思う。だが、資料の保存についての長く粘り強い活動を知ると、「紙の本は、滅びない」ことが、図書館関係者にとって今も変わらず第一の関心事であることに思い至ったのだった。「紙の本」が電子書籍に取って換わられる、資料の保存はデジタルで事足りるとなった暁には、資料の保存と活用のための「共同保存図書館」の設立を目指す彼らの運動は、その根拠を失うからである。そして、「紙の本」は電子書籍に取って換わられ得ない、コンテンツの保存はデジタルでは事足りないという主張を、ぼくは『紙の本は、滅びない』で、強く主張したのであった。 参加者に配布した簡単なレジュメに記した6項目のうち、「書物の時間 」(→本コラム第156回) と「電子図書館のアポリア」に特に注力して話そうと決意して、ぼくは演壇に向かったのである。 |
福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |