○第171回(2016/12) 2025年の大阪万博誘致へ向けた大阪府の動きが本格化してきていると聞き、新刊書として店に入荷したときから興味を惹かれていた『万博の歴史』(平野暁臣著、小学館、2016年11月刊)を読んでみた。 よく分かったのは、1970年大阪が万博の頂点であり同時に折り返し点であり、それ以後日本でも世界でも万博熱は急速に冷めていったことである。 また、冷戦が終わり、20世紀の万博を引っ張ってきたアメリカを初めとする各国も、「国威発揚」の場を必要としなくなり、万博参加への意欲を減退させた。 だが、だからといって、ぼくには万博の存在価値を無条件に否定することは出来なかった。未来の可能性を信じられなくなることは、人類にとってとても不幸なことだからだ。今とは違う「よりよい世界」を目指すことは、とても大切なことだと思うからだ。そのために今最も必要なことは、世界のあちこちで続く戦争状態ー憎しみの連鎖を断つために、地球上の様々な民族=他者を理解することではないか。そう考えたときに、万博の、「未来を開く技術の進歩」博とは違うもう一つの貌=民族の博覧会に思い至った。 その貌が、元々各国の植民地主義の所産であり、植民地から連れてきた人びとを「見世物」にし、「国威」を示すためにあったことは確かである。そうした動機に与するつもりは毛頭無いが、未知の民族の自分たちとは違う生き様、暮らしぶりを知ることは、万博を訪れた観客にとって、技術による未来信仰とは別の楽しみであったことも事実なのだ。惨敗に終わったハノーバー博(2000年)において、“むしろ観客が楽しそうな表情を見せていたのは、地べたに座り込んでアフリカ土産をうる民族衣装のおばさんとの談笑であり、アジアの民族舞踊を見ながら食べる本場のカレー体験でした”と平野は書いている。 ここに一つのヒントが、万博の可能性がある、と思った。即ち、憎しみと殺戮に満ちた現在の世界とは違う世界(オルタナティブ)を目指すために、様々な価値観を持ち、異なった生き方をしている国民、民族が、相互に理解を深めるために出会う場としての万博という可能性が。 その時ふと「書店とは、小さな万博会場ではないか?」という思いが、頭をかすめた。書店に並ぶ本たちは、世界の人びとのさまざまな価値観、生き様を詰め込んだパビリオンではないか。ならば、「書店業は、観光業である」といってもよいのではないか? 万博も書店も、訪れたお客様がさまざまな価値観と生き様に出会う場だからである。 『デフレの正体』や『里山資本主義』の藻谷浩介が共著者の一人であることに惹かれて読んだ『観光立国の正体』(新潮新書)が、「観光業としての書店」にいくつものヒントを与えてくれた。その本質を同じうする観光業と書店業は、いま抱えている問題も、これから目指すべき方向性も、共有している、と感じた。
「いい本だから、売れるはずだ」「この本は多くの人が読むべきだ」という発想でやってきた出版業界もマーケティングの思想に欠けていることは、JPOの中町正樹(→コラム第168回)や文化通信社の星野渉(『出版産業の変貌を追う』青弓社)らが指摘している通りだ(但し、ぼくは出版におけるマーケティングには「市場調査」以上に「市場開拓」の意味があると考えるので、単なるPOSデータの集積・分析だけではダメだと思っている)。 藻谷が「観光カリスマ」と呼ぶこの本のもう一人の著者山田桂一郎は、自らの実践の中で、地域全体が活性化することが、観光業にとって何よりも大切だという。観光業におけるマーケットインの思想とは、顧客がそこに長く滞在したいと思うような地域を創造していくことなのだ。ところが、“これまで多くの事業者は、目先の業界利益だけにとらわれて、本当に魅力ある地域づくりに取り組んできませんでした”と、山田はいう。今、日本の観光・リゾート地に一番欠けているのが、この「地域内でお金を回す」という意識であり、魅力ある地域づくりのために大切なのは、「競合してライバル視する」ことではなく、「お互いのポジショニングを明確に」しておくことだ、と。 書店業界にも同じことが言えるのではないか。事実、かつて大小個性的な書店が林立していた京都四条河原町界隈からその多くが姿を消していったあと、生き残った書店の売上もどんどん落ちていった。それに対して、堀部篤史は、“一両編成の叡山電車に揺られ、恵文社でゆっくりと買い物を楽しみ、購入した本を近くのカフェに持ち込んで一服する。そんな「体験」があればこそ、次もお店に来てもらえるのではないか。”と、書店を地域全体に溶け込んだものと考え、京都の恵文社一乗寺店を全国区の人気書店にした(『街を変える小さな店 京都のはしっこ、個人店に学ぶこれからの商いのかたち。』 京阪神エルマガジン社)。今年9月に亡くなった岩波ブックセンターの柴田信は、最後の一日まで「神保町フェスティバル」の成功のために奔走していたという。 そして、何よりもぼくが参照したいのは、“観光は、その地域にいる人たちが幸せに生きていくための手段です。地域が衰えて無人になっても観光事業者だけは生き残れる、というようなことはありえません”という藻谷の言葉だ。山田もまた、“日本の観光・リゾート地がダメになったもう一つの理由は、住民の生き生きしたリアルな生活がお客様には全く見えず、体験する機会もなかったことです”と指摘する。 観光地に生きる人びとが幸せに生きることこそ、観光客を惹きつける観光資源なのだ。ハノーバー万博の観客が、そのことを裏書してくれるだろう。
「異日常」という言葉に、胸を射抜かれた。一過性のイベントなどの「非日常」ではなく、居並ぶ本たちが醸し出す「異日常」。読者一人ひとりを「異次元」へと連れて行く書物への、それ自体「異日常」な書店空間。人は、その「異日常」を求めて、書店を訪れてくれているのではないか? その「異日常」を創り上げているのは、本を愛し、本を売ることに生きがいを感る書店員たちではないだろうか? 彼ら彼女らが(幸せに)働いている姿こそ、人を書店に呼び寄せる、最大の「観光資源」かもしれない。
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |