○第176回(2017/5)

 「鉄腕アトム」の時代から、「人間の心を持ったロボット」は、人類の大きな夢であった。20世紀終盤の「第5世代コンピュータ」の挫折で一度は費えたかに見えたその夢は、IT技術の超速の進歩と、ディープラーニングによってコンピュータが「学習する」というパラダイムチェンジによって、21世紀に蘇る。「人間のような知能」を持ち、どんな目的をも達成可能な「汎用人工知能」(Artificial General Intelligence/AGI)が現実のものとなりつつあるという言説も現れた。レイ・カーツワイルは、「汎用人工知能」をはるかにしのぐ「超人工知能」(ASII)の出現を当然のこととし、人工知能が人間の能力を決定的に超える「シンギュラリティ」が2045年に起こると予言した(『ポストヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』NHK出版)。

 しかし、西垣通は「生きる」という価値軸にそって目標を設定する人間と、身体に支えられて「生きる」という衝動を持たないコンピュータが、同じような「知能」を持つことはあり得ないと主張し(第174回)、羽生善治は「将棋ソフト」の強さと進化を認めながら、「恐怖心」を持たないコンピュータには「美意識」も「時間」の概念もなく、コンピュータの将棋は、人間の将棋とは全く別物だ、と断ずる(第175回)。

 AI活用に積極的な論者にも、「汎用人工知能」の実現と活用については懐疑的な人が多い。野村直之は、人工知能開発の方向性を、「強いAI」(「人間の脳のふるまい、原理の知能を作る」ことを目指す)/「弱いAI」(「人間の能力を補佐・拡大する仕組みを作る」ことを目指す)、「専用AI」/「汎用AI」、「大規模知識」/「小規模知識」の3軸で分類、「弱いAI」+「専用AI」の組み合わせが、今のところベストであると見る。彼は、生身の人間をまるごと置き換えてしまう「強いAI」を目指そうとする海外の論調は、米国の国防高等研究計画局(DARPA)の影響もあって、人間兵士を代替する人工知能搭載のロボットを前提しているのではないか、と危惧している。そして、人間は人間の得意な新たな判定により機械向けのトレーニングデータという副産物を作りつつ本業をこなし、機械は人間たちの判断に対して、広さと精度を保管する方向が、人間と機械の役割分担の基本戦略として推奨するのである。(『人工知能が変える仕事の未来』日本経済新聞出版社)

 野村は、「強いAI」の早期実現を予言する「シンギュラリティ」論者の描く未来に対して、次のように反論する。

“そもそも、強い動機付けや責任感、倫理観といったものもAIにはありません。これらがないと誰にも指示されずに、自発的に課題を発見して取り組んだり、独自の問題解決法を思いついたりするのは困難と思われます。”

“まず、「生物が自らを進化させたように、AIがAI自身をぜんぜん違う知性を発揮できるように自らを進化させる」(たとえるなら言語を獲得するなどの根本的変化)という言い方をする一部のシンギュラリティ論者たちには、「ダーウィンの自然淘汰説によれば生物は自らを設計、進化させたことはないはずですが」と言いたいです。” 

 井上智洋もまた、「強いAI」の実現には懐疑的だ。

“AIが知性の多くの分野で人間を超える可能性はあります。しかし、知性の「大部分を超えるというのと「全てを超える」というのでは、天と地ほどの違いがあります。”

 そして、「天と地ほどの違い」を「生命の壁」と呼び、次のように言う。

“私が考える「生命の壁」というのは、全能アーキテクチャ方式の汎用AIは生命ではないので、人間が与えた範囲でしか欲望や感性を持ち得ないということを意味します。”(『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊』文春新書)

 一方、両者とも、「弱いAI」の生産現場、ビジネス現場への導入には積極的であり、そのことによる経済の活性化については楽観的である。

 野村は、『人工知能が変える仕事の未来』のそもそもの執筆理由を、「今回のAIブームがバブルとなり、弾けて、前回と同様、産業応用が頓挫することを恐れた」ことにあると言い、「定型的なデータ処理、その典型的、定型的な解釈は、コンピュータがもともと得意な繰り返し作業、単純作業」であると指摘、「これまで自然言語の壁に阻まれて、効率化できなかった壁がAI活用で壁が取り払われつつあることを歓迎」している。

“こうして浮かせた時間を使って、全体像を広く深く把握できたところで、人間は、深い分析、追加調査、裏取り取材、交渉などに時間を割けるようになります。実に素晴らしいことと思います。”(野村前掲書)

 そして、生産現場での効率化のみならず、公的機関、商業、医療の現場においても、「弱いAI」は力を大いに力を発揮し、われわれ人間を助けてくれると構想する。

 国民生活センターや企業の利用者サポート窓口に日々集まる、大量の質問や苦情のテキストへの対応におけるコスト削減。小売店の売れ行き、在庫状況のリアルタイムの画像認識による発注、品出しの効率化支援。医療周辺のヘルスケア、介護、看護における「見守り」の課題の解決...。

 実際、AIを搭載した「ロボット」たちは、既に現実社会での活躍を開始している。

 掃除用ロボット「ルンバ」、人間とのコミュニケーションを念頭においたソフトバンク「ペッパー」などの「ソーシャルロボット」、セコムのパトロールロボット「ロボットX]等々。グーグル、トヨタというIT業界とものづくり業界の両雄は、AIが運転する自動走行自動車の実現に、激しくしのぎを削っている(河鐘基『AI・ロボット開発、これが日本の勝利の法則』扶桑社)。『日経TRENDY』(日経BP社)2017/6号は”Top Tech Trends 2017 あなたの明日を変える革命商品 買える!役立つ!人工知能&IoT”という特集を組み、ゴミ箱、傘立て、洗濯機、ぬいぐるみから 、自動車やドローンまで、日常生活に入り込む様々なAI活用商品群を紹介している。

 疲れることを知らないAI、AI搭載ロボットによる業務の効率化は、確かに魅力的であるかもしれない。原発事故現場などでの危険な作業、過酷な条件下での労働の回避、緩和について、ロボットたちの活躍を期待するのは、決して間違いではない。経済が爆発的に成長し、今や「世界の工場」の名も冠される中国では、労働者不足の解決のためにロボットの開発・普及が喫緊の課題とされているという(河前掲書)。少子高齢化が進む日本にとっても、それは他人事ではない。

 だが、すべてをAIに頼ろうとするのはいかがなものか?ビジネス現場でのAIの活用の目的を、野村は「消費者の志向に合わせたサービス」の徹底化とするが、いかにディープラーニング経たAIが休むことの無い「監視」によって膨大なデータを集めようと、それはどこまでも過去のデータである。消費者は知らず知らずのうちに自らの過去に縛られ、AIの弾き出す欲望を、つまり自らの過去の欲望を、常に現在の欲望としてして受け取ってしまうようにはならないか。その結果人間は、新しいものを生み出そうとする性向、今とは違う世界を構想する力を失ってしまうのではないだろうか。

 少なくとも、本を売るという我々の生業にとって、それは困る。読書とは、今とは違う自分、今とは違う世界の可能性を求めてなされる行為だからである。『現代思想』2017年3月臨時増刊「特集 知のトップランナー50人の美しいセオリー」に寄せた小文で、ぼくは次のように書いた。

“だが、〈未来〉を喪失した人の〈今〉は貧しい。〈今〉の躍動、〈今〉の充実は、〈未来〉に向けて成長を志向することから生まれる。成長の志向に資するべく、或いはその〈未来〉が未だ獏として見定められない時はそれを見出すために、人は本を読むのだ”。

 そもそも、現在のAIの基盤になっているディープラーニングには、大きな問題に繋がるであろう、決定的な属性がある。それは、「なぜ人工知能がそう考えたか、人間が見ても、その思考過程がわからない」ということだ。

 早稲田大学理工学術院で人工知能を研究する尾形哲也教授は言う。

“中身がわからない、だが性能がよいという技術が登場してくると、あらゆるケースでブラックボックスに直面することが想定できますよね。音声認識・画像認識・翻訳などは、少々間違ったって別にいい。そのぶん生活が便利になるのであれば、人間はそれを受け入れるでしょう。ただ自動運転ではどうでしょうか。人工知能は人間より確実に事故率が低い。だけど、事故をおこしたときに、人間がそれを受け入れられるかというと、すぐには難しいでしょう”(河前掲書)

 産業現場、医療現場、そし生活空間にAI搭載のロボットがどんどん進出していけば、いかにそれらが優秀で悪意がなくとも(悪意などがあったら、人類は早晩滅ぼされるだろう)、避けられない事故は発生する。その原因となったロボットの判断、指示が人間には理解できないこともあるだろう。それでも、AIは人間の知性よりも勝れているはずだから、事故も仕方ない、と諦めるのだろうか?「真理」「正義」は、常にAIにあると。

 特に、日本ではそうなる危険が大きい。「しょうがない」が決まり文句であるこの国、トップの思想信条に疑問が呈され、公私に亘るさまざまなスキャンダルが取り沙汰されながらも尚その支持率が下がらない、この国では。

 全く身に覚えがなくとも、「お前は国家に反逆している」「お前はブルジョワだ」と告発され、批判を浴びせられ続けると、徐々に「自分が間違っているのだ」と信じるようになっていく。そして国家の宣告に従って、粛々と死に赴いていく。大澤真幸が繰り返し引用する粛清期のソ連の状況が、思い起こされる。そうした状況下では、「自由」という概念も、そして何より「責任」という概念が、消失してしまっている。

 そうしたディストピアよりも、もっと近い将来に訪れるであろう(或いは既に始まりつつある)問題は、労働の問題である。人間が、AIに仕事の場を明け渡す、仕事を奪われるという問題だ。

 2013年、オックスフォード大学でAI研究に携わるマイケル・A・オズボーン准教授とカール・ベネディクト・フライ研究員が、「雇用の未来ーコンピューター化によって仕事は失われるのか」という論文を発表し、話題になった。彼らが702種の業種を徹底調査し、モデル化と計算機によるシミュレーションによって判明したというリストによれば、現在ホワイトカラー業務、事務業務とされている仕事や、いわゆる職人的な仕事の約半数が機械に取って代わられる、という見通しが立てられている。

 15年12月末には、野村総合研究所(NRI)が英オックスフォード大学の研究者たちと共同で作成した『日本の労働人口の49%が人工知能やロボット等で代替可能に?601種の職業ごとに、コンピュータ技術による代替確率を試算』というレポートが日本社会で物議を醸す。

 ライス大学のモシェ・バルディ教授は、2016年2月に行われた米国科学振興協会(AAAS)の年次総会で、人工知能、およびそれらを搭載したロボットが、将来的に人間の失業率を50%まで引き上げ、格差が拡大するというシナリオを予言した。

 井上智洋は、“機会が人々の雇用を順調に奪っていくと、今から30年後の2045年くらいには、全人口の1割ほどしか労働していない社会になっているかもしれません(2015年度の就業者数は全人口のおよそ半分の6400万人)”と言う。

 多くの論者が、「AIによる大量失業」の可能性を否定しない。だが、AI推進派は、そんな心配をものともしない。井上は、次のように言う。

“技術進歩は常に技術的失業を生み出す危険性を孕んでいますが、それゆえにこそ経済を成長させます。”

 小島寛之が“マクロで集計すれば、AIが仕事を代替している分だけ生産物は人間の労働なしに増えているわけで、その分人類は豊かになる”(「東ロボくんから見えてきた、社会と人類の未来」新井紀子との対談『現代思想』201512 特集人工知能)と言っているのも、同趣の発言である。

 要するに、人間が仕事をやめても、AIがそれを引き継ぎ、飛躍的に発展させるから製造も流通も、産業は大丈夫だ、心配無用ということか。

 井上は更に続ける。

“AIやロボットの発達に限らず資本主義経済では絶えず技術進歩が起こっており生産性が絶えず向上しているので、マネーストックも絶えず増やさなければ需要と(潜在)供給の均衡は保たれません。”

“中央銀行がマネーストックを増やし、私たち「家計」の手元にあるお金も増えたとします。そうすると、私たちはよりお金持ちになっているのだからより多く買い物することになり需要が増大します”。

 要は、AIやロボットがどんどん生産性を向上させるので、その分インフレの心配なくお金を刷ればよい、そうして消費者にお金を分配すれば重要が増大し、未来の経済についても全く心配は無い、そういうことだろうか?本当に、そんなに簡単な図式で、物事が進むだろうか?マネーサプライの増大による経済浮揚策は、近年明らかに失敗を続けている。

 国民の1割しか労働していないのであれば、刷ったお金を賃金報酬として渡す、配分することは出来ない。井上は、いささか唐突に、「ベーシックインカム」を言う。「唐突に」というのは、ひょっとしたらぼくがそう感じただけのことかもしれない。野村直之もまた、“仮に今後、AIの発達のおかげで、機械が労働の多くを肩代わりして、人間はベーシック・インカムに支えられて自由に、対価を気にせず、様々な形で表現を行う時代が来るとすれば”と、ベーシックインカム導入を想定しているからだ。

 ぼくが「唐突に」感じたのは、2000年代、拡がる格差と絶対的貧困を無くすために議論されたベーシックインカムが、AIがつくった物を購入・消費して経済を回すということのために安易に「登用」されたことに対する違和感によるのだと思う。「仕事は、AIに任せろ。人間は働く必要は無い。ベーシックインカムをやるから、AIがつくった物を、ひたすら消費しろ」というのは、ちょっと違うのではないか。それがユートピアだとは、ぼくにはどうしても思えない。第一、一握りになるであろうAI技術の所有者、即ち産業の独占者と政治権力が、何の恣意的な操作もなく、手に入れた利益をベーシックインカムとして公平に分配するだろうか?

 少なくとも本屋にとっては、人びとが労働を奪われた状況は、困る。本がますます売れなくなるからだ。仕事がなくなれば、その仕事のための資格書は存在理由を失う。また、そもそも仕事に就かない人が、自己啓発書を初めとしたビジネス書を買うこともない。書店の売上を確実に支えてくれていた多くのジャンルが、絶滅していくに違いない。

 仕事がらみの本だけではない。ぼくが『現代思想』に書いたように、そもそも本を読むモチベーションは、成長への志向を前提にしている。多くの人にとって、仕事におけるスキルアップは、収入という面に限定されず、自らの成長の大きな指標である。だから、絶滅の危機に貧するのは、「仕事に直接役に立つ」ビジネス書だけではない。思想や文学、ノンフィクションも、危ない。「人工知能」フェアを前に、ぼくは「これは、何か大変なことが起こりつつあるのではないだろうか」と思った(第174回)一番の動機は、そこにある。

 だが、ぼくが「AI信仰」を危ういと思うのは、出版・書店業界に身を置く者のエゴイズムだけではない。人間の労働というファクターを除外して、そもそも経済が成り立っていくのだろうかが、最大の疑問なのだ。そのことを考えるために、労働の商品化、そのことによって生まれる剰余価値を、資本主義経済の不可欠な動因と喝破した偉大な先人の思索を参照しなくてはならない。

 その先人とは、言うまでもなく、カール・マルクスである。(次回に続く)

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)