○第177回(2017/6)

 マルクスの経済学(批判)が、産業革命とそれに伴う労働力受容の確保のための「囲い込み」を経て、「世界の工場」と冠せられた19世紀イギリスを考察の対象としたものであり、そこから描き出された図式がある地域のある時代から得られたものであることはマルクス自身を含め、日本の宇野弘蔵など多くの論者が指摘するところである。それゆえ、それ以降、いわゆる第一次、第二次、第三次産業の比率など産業構造が大きく変化していった結果、現代の経済的状況にマルクスの図式をそのまま当てはめることは妥当ではないとする論者も多い。まして、AIが人間労働に取って代わろうとする今日ー近未来を考える時に、マルクスを参照することなど時代錯誤も甚だしいと思われるかもしれない。

 だが、経済のあり様が、人間労働の占める位置とともに大きく変動しいようとしている今だからこそ、近現代世界を成立させていた資本主義経済を徹底的に分析したマルクスを読み直すことに、大きな意味があるとぼくは考える。

 W=c+v+m(W;商品の価値、c;不変資本 v;可変資本 m;剰余価値)

 この式が、マルクスの資本主義分析の根本である。具体的には、c;生産のための機械と原料 v;労働力(商品)である(かなり大ざっぱではあるが、以下の議論では、このような捉え方で問題ないと思う)。

 vとmは共に労働者が生み出す価値だが、vは労働力の再生産費用として労働者に与えられる賃金、資本家から見ると労働力の買い取り価格である。mは、労働者が生み出す価値のうちv以外の(剰余の)部分で、さしあたり資本家の所得と言える。

 マルクスの経済学(批判)に特徴的なのは、vを労働力「商品」の価格としたこと、即ち労働力を商品と捉えたことだが、忘れてならないのは、左辺Wもまた、商品の価格であるということである。つまり、この商品がWの価格で売れなければ、この式は成り立たない、労働者も資本家も所得を得られないということである。マルクスは、すべてが「商品」化した世界として、資本主義世界を捉えたのであった。

 売り手と買い手があって初めて「商品」は「商品」たることが出来る。では、買い手はどこにいるのか? およそ全ての労働者と資本家の所得が上の式の右辺の項となる資本主義世界にあって、買い手もまた労働者と資本家自身に他ならない(その二者の家族が購買をしたとしても、その原資は労働者と資本家の所得であるから、実質的には労働者や資本家が買い手であると言える)。即ち、生産のプレイヤーが同時に購買のプレイヤー、売り手即買い手なのである。ゆえに、労働者と資本家双方が、その所得(v+m)を商品の購入に充てなければ、W=c+v+mという図式は維持できない。(注1)

 そうした資本主義の成立条件を阻害する要因、即ち労働者と資本家が所得を商品の購入に充てられなくなる要因が、二つある。一つは、労働者の窮乏化、もう一つが資本家が蓄財や資本投下などによって、その所得の一部を商品の購入に充てないことである。

 資本主義経済は基本的には企業間の競争で成り立っているから、W;商品の価格を恣意的に上げることはできず、資本家は、c;労働者の賃金を低く抑えることによって、そして同じ賃金で長時間労働を強いることによって、m;自らの取り分を増やそうとする。労働者はその労働に見合った賃金を得られず、商品の購入が出来なくなる。

 だが、それだけでは、もしも資本家が得た収入をすべて商品購入に充てて贅沢三昧を繰り返す限り、格差は広がりそれが社会の不安定化に繋がりはするが、先の公式は破綻しない。作った商品がすべて売れるからである。

 しかし、資本主義下では、事態は決してそのようには進まない。資本の本性が、自己増殖であるからだ。そのために資本家は、生産性を高めるべく、その所得の一部を、技術革新による新しい機械の購入に充てる。その資金は、当然商品の購入には回せない。

 cの増大は、実は利潤率;m/(c+v)を下げる危険を伴うが、生産効率を上げることで分母のvを充分に小さくできれば、その下げ幅は小さくなり、利潤そのものは増大する。資本家の目的はまさにその利潤の増大であるから、新しい機械の導入=cの増大は、vの削減とバーターとなる。その結果、労働者の窮乏化は進み、また不要となった労働者は解雇される。労働者は、ますます商品を買えなくなり、収入を機械の購入に使う資本家はその穴を埋めることができない。生産効率の向上と共に商品は増産されるが、その商品はますます売れなくなる。それが、資本主義の根本的な自己矛盾であり、行き着く所が恐慌である。かくて、恐慌は資本主義経済体制に不可避に訪れる必然である、とマルクスは喝破した。

 ここ20年余りに亘る出版・書店業界の凋落は、この図式で説明できるのではないか?(注2)

 出版物の製作現場(出版社)においても、流通現場においても、特にIT技術の導入とともに、作業の目覚ましい効率化があった。手書きで送られてきた原稿を判読し、赤を入れて送り返すという作業を何度となく繰り返す編集→製作プロセスは、著者や印刷会社とのデータのやり取りで、随分労力を軽減できた。書店現場においても、販売した本から抜いたスリップを分け、それを数え上げる労力が減り、客に尋ねられた本の検索も、随分楽になった。

 その様子を見た経営者は、「これで人を減らすことができる」と判断した。その判断は、vを減らそうとする資本の論理としては正しいし、出版書店業界においてもすべてが間違っていたのではない。間違えたのは、製作現場でも流通現場でも、「本のプロは要らない。経験の蓄積がなくても、昨日今日入ったアルバイトだけでも業務は遂行できる」と判断(錯覚)したことだ。そうして、本を買っていた出版・書店現場の労働者たちがその仕事に十分な評価を与えられず、時に「切られた」。

 もちろん、業界内の人間が購入するだけでは、出版は産業として成り立たない。しかし、出版・書店産業に従事する労働者の多くは「本好き」であり、彼らの購入が産業にとって不可欠な商品とお金の流れの一部を形成していたことは、間違いない。

 更に、そうした「本のプロ」が減ったことは、業界外の読者との関係も悪化させた。すぐれた原稿を見出し一冊の本へと仕立て上げる技術、送られてきた本の価値を感じ取り、適格に仕入れ・展示し読者と出会わせる仕事を成り立たせるのは、読書と経験の蓄積に裏打ちされたセンスであり、POSデータでは無い。新技術の導入によって生産効率を上げるために最も必要なのは、導入した機械を使える人材の確保だったのである。マルクスもまた、新しい技術への資本投下によって、有能な労働者、そしてその能力に応じた報酬を得ている労働者の仕事が効率化され、生産性が上がり、その労働者の再生産に必要な賃金を生み出すための労働時間が削減された時に、それ以外の(剰余価値のための)労働時間が増え、より大きな剰余価値が生み出されて、利潤率が上がるとしている。納得のいく説明である。

 そうした利益産出構造を取り違え、労働者の(生産、消費両方における)役割を軽視した時に、もともと自己矛盾を孕む資本主義経済体制は、一気に恐慌へと加速する。それこそ、終わりの見えない出版・書店業界の不況の原因ではなかったか?(注3)

 さて、AIである。AIの進化によって、人間労働の多くの部分、多くの予想は少なくとも半分、論者によっては9割が、早晩AI搭載ロボットによって取って代わられるという(→前回)

 AI搭載ロボットは、それがいかに「人間らしく」振る舞おうと、機械である。マルクスの式においては、c;不変資本である。不変資本は、その名の通り商品に価値を付け加えない。人間=労働力商品;vがすべてcに代替された時に、剰余価値;mは発生しないのである。vが不要となれば労働者は賃金を得られないが、mがなければ資本家の収入も無い。追加の資本投下も出来ないから、資本は(その本性である)自己増殖を実現し得ない。資本主義は、自らが創り出した「怪物」によって、存立基盤を奪われてしまうのである。にも拘らず、労働者も資本家も、AIの進化を言祝ぎ、それがもたらす人間労働の無い世界にこぞって期待を寄せている。それは、一体どうしたことか?

 AI信仰者は、ぼくのこの素朴な(粗雑な)議論と疑問を嗤うであろう。人間が生きていく上で必要な商品は(サービスという「商品」も含めて)、AI搭載ロボットが生産してくれるのだから、何も心配無いと言う。例えば、前回引用した数学者小島寛之の発言、“マクロで集計すれば、AIが仕事を代替している分だけ生産物は人間の労働なしに増えているわけで、その分人類は豊かになる”。

 では、その生産物を、誰が買うのか?労働者も資本家も収入を失う状況で、どのように商品が流通し、人びとの必要と欲望を満たし、経済が成立するのか?

 何人もの論者がそこで出してくる切り札こそ、「ベーシック・インカム」である。だが、果たしてそれは、本当に有効な切り札なのか?(次回に続く)

 

(注1)vとmをすべて購入に充てても、cの分だけWには足りないように見えるかもしれない。だが、マルクスは、生産部門を部門T;生産手段の生産と部門U;消費手段の生産の二つの範疇に分け、部門T(生産手段の生産)の総生産価格をWT=cT+vT+mT、部門U(消費手段の生産)の総生産価格をWU= cU+vU+mUとし、部門Tで生産された生産手段は部門T、部門U双方の生産手段となるから、cT+vT+mT=cT+cU、部門Uで生産された消費手段は部門T、部門U双方の労働者、資本家の使用をカバーするため cU+vU+mU=vT+mT+vU+mUが成り立つと説明。どちらの式からもcU=vT+mTが導き出され、部門U(消費手段の生産)で用いられる不変資本cUの価値は、部門T(生産手段の生産)のvTとmTの合計に等しくなければならないことを導く。即ち、部門U(消費手段の生産)において、cUはvTとmTに還元されるのである。

一方、部門T(生産手段の生産)が連続していく時はどうだろうか?即ち部門Tの生産物(商品)が、別の部門Tの生産のcとなっていく場合である。部門Tの複数の連鎖を時系列で考えれば、n番目の生産物の価値(価格)は、WT(n)=WT(n-1)+v(n)+m(n)、すなわち直近の生産過程の生産物にその過程のvとmを加えたものとなる。この式は、WT(n)=c(1)+v(1)+m(1)+・・・・・+v(n)+m(n)と書き換えられる、すなわち最初の生産過程の不変資本(原材料);c(1)に、n番目までのすべての生産過程におけるv+mの総和を加えたものとなる。

ところで、原材料の発掘以前まで遡れば、cは限りなく0に近くなると言える。そして、マルクスの定義ではc(1)は商品生産において価値を上げることなく(それゆえ「不変資本」と呼ばれるのである)、生産過程の系列がどれだけ続いてもその価値は増大しない(=限りなく0に近いままである)。それゆえ、vとmを抜きにしたcの値は、産業の総体を考える時、無視してよいと言える。その意味では、労働価値説は、必ずしも的外れではない。

(注2)確かにマルクスは、先の式のm;剰余価値が資本の増殖をもたらすのは産業資本即ち商品の製作過程に限っており、流通過程では流通経費を極力抑えて制作過程の利潤、資本の増殖に寄与する(邪魔しない)ことが出来るだけであるが、寡占や合併・グループ化による企業規模の拡大、様々な技術革新への資本投下が進んできた今日の流通業界は、擬似的にW=c+v+mが適用できると考えても間違いではないと考える。その場合、cは仕入商品+IT技術を含めた流通現場の維持費、Wは売上高もしくは流通利益であろうか。

(注3)もちろん、インターネットの進化・インフラ化やスマホなどの端末の普及など、環境の変化が出版・書店業界の売上減に与えた影響を無視できないことは、重々承知している。しかし、この業界は、「読書離れ」だ何だと、いつでもそうした外的な要因に何もかも帰責する僻が強すぎた。その前に自分たちの考えを吟味し、自分たちの行動を反省することが先決ではないか?そう思うがゆえに、ここでは敢えてそうした環境要因は棚上げする。

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)