○第178回(2017/7)

 ベーシック・インカムとは、「全ての人が生活に必要な所得を無条件で得る権利がある」という思想のもと、全ての人に基礎所得を与えるシステムである。
「全ての人に」であるから、「無条件に」、「個人単位で」給付され、生活保護などこれまでのあらゆる社会保障とは別物であるといえる。

「全ての人が生活に必要な所得を無条件で得る権利がある」という思想には十分同意できる。日本国憲法でいえば、憲法第25条に

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」

と明記されている。

 「全ての人に」給付されるから、給付条件の精査にかかる経費はゼロとなる。そして、給付される側に「恥」の感情は生まれない。「無条件に」給付されるから、「自立支援」「就労促進」などが付帯せず、安心して受け取ることができる。その結果、本来助けられるべき状況にある人に社会保障が適用されず、みすみす死に至らしめるような悲劇が回避される。現状では、“100世帯中、10世帯が生活保護基準以下の生活をしているが、実際に保護を受けることができているのはたったの2世帯”(『ベーシック・インカム入門』山森亮 光文社新書)と言われる。“「不正受給」がしばしば報道されることと比べても、捕捉率に対するメディアの沈黙ぶりは際立っている”(同書)のだ。

 貧しい人を助けるのはいい。しかし、「無条件に」というのはどうだろうか?既に高給を得ている人にも「屋上屋を架す」ようにお金を与える必要があるのだろうか?

 尤もな疑問である。だが、至急事務の効率性、賛同の得やすさにおいて、「無条件に」という属性は圧倒的に勝る。現に、公教育やごみ収集などの公的サービスは、すべての受益者にその収入とは無関係に与えられている。

 ベーシック・インカム、あるいはベーシック・インカム的な経済政策は、これまでも、多くの学者、政治家から提言されてきた。古くは、アメリカ独立に大きな影響を与えた『コモンセンス』のトマス・ペインから黒人公民権運動のキング牧師、そしてニクソン大統領もその政策実現にまであと一歩というところまで漕ぎつけていた。ガルブレイス、フリードマンという20世紀後半を代表する左右の経済学者が共にベーシック・インカムを提唱していたことは、いかにそれが普遍的な意義をもつ政策であるかを表している。

 日本でも、西田門下の土田杏村が、共同社会の共通文化遺産の相続者は、共同社会の成員全体であるから、生産の成果からそれぞれの分け前を受け取る資本家と労働者のいずれに属しない人たちも、全体の共通文化遺産からは、何等かの分け前を得なければならない、と述べている(同書)。

 だが、それでもこれまで実現していないということは、逆にベーシック・インカムに対する大きな抵抗、反対がある事の証左でもある。

 反対理由の一つは、やはり「フリーライダー」問題である。ベーシック・インカムをいいことに、働けるのに働かない「怠け者」が増えるのではないか、という懸念だ。しかし、 ベーシック・インカムは、「無条件に」、つまり他に収入があっても同額の支給があるから、更に収入を得るため働きたいというモチベーションを減退させることはないともいえる。収入の額によって支給が見合わされる現在の社会保障制度よりも、ベーシック・インカムの方が、「フリーライダー対策」には有効である可能性は高い。

 それでも、ベーシック・インカムによる「フリーライダー」は皆無ではないだろう。そのことへの抵抗の大きさは、「働かざる者食うべからず」という思想が、人類の意識の根底に、かなり強く根付いていることによるのだろうか。

 しかし、その時に言われる「働く」ということが、多くの場合「賃労働」を指していることに気づくべきだ。「働く」=「賃労働」と定義する時に、「家事労働」は無視されている。様々な障碍のために「賃労働」に就けない人びとの生を視野の外に置いている。「家事労働に賃金を」要求するフェミニズム運動、「生きていることが労働だ」と訴えた「青い芝」に代表される障碍者運動からも、ベーシック・インカムの採用という選択への道は繋がる。

 もう一つの反対理由は、「財源はどうするのか?」である。 その質問自体を、山森亮は、次のように批判する。

 “奇妙なのは、お金がかかるすべてに財源をどうするかという質問がされるわけではないことである。国会の会期が延長されても、あるいは国会を解散して総選挙をやっても、核武装をしようと思っても、銀行に公的資金を投入するのにも、年金記録を照合するのにも、すべてお金がかかる。だからといってこうしたケースでは「財源はどうする!と詰め寄られるということはまずない。”(『ベーシック・インカム入門』)確かに「ウォール街では、銀行員はリーマンショック威光で最高額のボーナスを得ている」(『隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシック・インカムと一日三時間労働』ルトガー・ブレグマン 文藝春秋)を思えば、ベーシック・インカムに振り向けるべき財源は、どこかにあるような気がする。

 それでも、国民全員に、あるいはこの世界に生きる人間すべてに、労働の対価ではない生活資金を支給するベーシック・インカムは、一見途方もない計画に思える。しかし、『隷属なき道』によれば、“アメリカでベーシックインカムによる貧困撲滅にかかる費用は、わずか1750億ドルで、GDPの1パーセント以下だ。アメリカの軍事費の四分の一”なのだ。東西対立が一応の終息を見、米ロの首脳が談笑する図が不思議でなくなった今なお以前よりも頻発する世界のあちこちでの全く生産性の無い戦火さえ鎮めれば、何よりもそのことに知恵を結集し力を注入すれば、全世界の人間が生きていくことができるだけの生産力を、現在の世界は持っているのである。人類の資本主義は、そこまで発展しているのだ。

 その象徴的存在がAIであり、AIを搭載したロボットである。“「ロボット」という言葉は、「骨折って働く」という意味のチェコ語robotaに由来する。人間がロボットを作ったのは、自分たちがやりたくない骨の折れる仕事をやらせるためだったのだ”と、ブレグマンは言う。そして、このコラムでも言及してきたように、AIロボットが人間の仕事の半分を、あるいは9割を奪う時代は、目の前に迫っている。それは、人類の技術の進歩の到達点でもある。それを望んだのは、人類自身だといえる。

 “実のところ、今のペースでロボットの開発と進出が進めば、残された道は一つしか無い。構造的失業と不平等の拡大だ。”(同書)その唯一の道を人類の存続と幸福に導くものこそ、ベーシック・インカムなのである。

 ブレグマンだけでなく、AIやAIロボットの未来を語る多くの論者が、ベーシック・インカムの可能性と有効性、更には必然性に言及する。

 “小島寛之 マクロで集計すれば、AIが仕事を代替している分だけ生産物は人間の労働なしに増えているわけで、その分人類は豊かになる。そういう意味で、新井さんに半分程度は同意できるのですが、そんなに悲観的なことでもないのではないかとも思っているのです。”(『現代思想』2015年12月号 特集人工知能』

 “仮に今後、AIの発達のおかげで、機械が労働の多くを肩代わりして、人間はベーシック・インカムに支えられて自由に、対価を気にせず、様々な形で表現を行う時代が来るとすれば…“”(『人工知能が変える仕事の未来』野村直之 日本経済新聞出版社)

 “BI(ベーシック・インカム)なきAIはディストピアをもたらします。しかしBIのあるAIはユートピアをもたらすでしょう。”(『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊』井上智洋 文春新書)

 ぼくじしん、ベーシック・インカムの構想には、決して反対ではない。「不平等の拡大」が既にかなり進行している現状を打開する、ひょっとしたら唯一の方法なのかもしれないと思う。山森亮や、白石嘉治、樫村愛子ら、ベーシック・インカムを提唱する論客の主張を、早くから共感をもって読んできた。

 だが、AI推進論者に、「大量失業は仕方がない、人間労働はどんどんAIロボットに代替すればよい。失業問題は、ベーシック・インカムで解決できる」と簡単に言われると、即ち大量失業は必然、更には善であると簡単に前提されると、あるいは、ベーシック・インカムがあれば大量失業にも何の問題もないと結論されると、「それはちょっと違うのではないか」と感じてしまうのだ。

 彼らは決して、仕事を失う人類のほとんどの部分を放置してよいとは、思っているわけではない。憐憫の情からではなく、それでは経済がたち行かないこともよくわかっているからだ。いくら商品を作っても、買う人がいなくなると経済は回らない。

 ブレグマンは、とてもわかりやすい1960年代の逸話を紹介している。

 “ヘンリー・フォードの孫が、労働組合のリーダーであるウォルター・レアザーを自社の新しいオートメーション工場に案内した時のことだ。フォードの孫はレアザーに冗談めかして尋ねた。「ウォルター、あのロボットたちにどうやって組合費を払わせるつもりだい?」すかさず、レアザーが答えた。「ヘンリー、あのロボットたちにどうやって車を買わせるつもりだね?」”

 「お金の出どころ」についても、「AIの進化→大量失業→ベーシック・インカム」という図式に、ぼくはどうしても違和感をぬぐえない。

 一つには、AIロボットが人間労働を代替したとき、マルクスのW(価格)=c(不変資本)+v(可変資本)+m(剰余価値)の式が成立しなくなることだ。AIロボットはあくまで高度化した生産機械だから、c(不変資本)であり、v(可変資本)のみが生み出すことのできるm(剰余価値)を生み出さない。マルクスによれば、c(不変資本)にかかる経費はそのままW(価格)へと転化されるだけだからだ。だとすれば、資本家の収入も、資本の増殖もありえないから、ベーシック・インカムの原資はどこにも存在しなくなることになる。

 一方マルクスの先の式を棚上げし、AIロボットによる生産でも資本増殖が起こるとすれば、「お金」はAIロボットを所有する資本の元に集中することになり、今日すでに激しく広がっている格差が、極限にまで達するだろう。その状況でベーシック・インカムを実現させるならば、資本を独占した一握りの人間が、その他すべての人間に、資産を公平に分配することになる。人間の欲望の果てしなさ、略奪と流血の人類史を思うと、ぼくにはそうした未来が、どうしても想像できないのである。

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)