○第179回(2017/8) 「大学改革」が叫ばれて久しい。繰り返し「改革」が叫ばれるのは、「改革」が(少なくともそれを企図した者にとって)成功していない証拠である。 膨大な財政赤字を踏まえ、おそらくは財界の意を汲み取りながら、政府が目指すのは、大学自身の自助努力による競争主義的、成果主義的な大学のあり方である。2004年の国立大学独立行政法人化が、その劃期となる。そのための効率的で機動的な組織運営は、トップダウンによって実現され、企業型の運営を導入することこそ大学の「ガバナンス強化」だと、財界や政府は考えている。それは、大学への政府の介入を容易にする方途でもある。そのために、人事をはじめさまざまな権限が、教授会から学長に移行した。 だが、そもそも企業においてもトップダウン方式はうまく機能していない。そのことは、昨今の日本経済の不調を見ても明らかだ、と山口は指摘する。 また、大学間の競争を煽る「競争主義的な政策」は、「大人数で分担して取り組まねばならない事業」を必ず悪化させると山口は言う。そして教育とは、まさにそうした事業なのである。 「競争主義的な政策」に垣間見える財務省の本音は、今後の少子化を見据えて大学の数を減らすことにあるのかも知れない。が、“多くの国立大学を瀕死の状態にしてなぶり殺しにするような政策では、生き残った大学の体力も相当に消耗することになるから、弊害が多すぎる。” 今日の日本では、「すべての大学が入学試験を実施して、ほぼその結果のみで選抜」している。これは、日本独特の入試制度で、「欧米諸国には存在しない」ものである。「改革」は、そうした日本の入試制度にもメスを入れようとしているが、そもそも日本では、企業は大学を教育機関としてではなく、選抜機関と見ている。企業が採用において学歴を重視するのは、それゆえなのだ。“日本の大学入試システムは、「新卒一括採用・年功序列・終身雇用」という、いわゆる日本的経営とがっちり組み合って作動しているのである。“ そうした日本的経営は、国が果たすべき社会保障政策と連動している、否それを肩代わりしてきたと言えるのである。即ち、大学のあり方、日本的経営、国の社会政策は三位一体で動いているのであって、そのうち大学の制度だけを「改革」しようとしても、うまくいくはずが無いのである。大学院重点化政策が失敗したのも、当然の結果だったのだ。 年功序列について、山口は次のように言う。
そして、教育現場にも労働現場にも、社会全体に蔓延する「競争主義」について、山口は、次のように断ずる。
こうした山口の発想は、前回話題にした「ベーシック・インカム」の思想と近接していると言える。「ベーシック・インカム」は、生活に必要な最低限の現金を政府が全国民に支給するという制度だからだ。いわば、企業が「年功序列」などで肩代わりしてきた社会保障を、再び国の責任で行う制度なのである。 山口は、その「ベーシック・インカム」について、“私としては、現金給付よりも、保育・教育その他の現物給付を基本とするのが良いと考えている。現金給付だと、ギャンブルなどで浪費する人も出て来るだろうが、現物給付ならそうした流用ができない上に、サービスに従事する労働者の雇用も生まれるからである”と自説を述べる。現物給付、サービスに従事する労働者の雇用の発生という行き方は、一律に現金を支給することによって作業を簡素化し事務手続きを極力省くという「ベーシック・インカム」の発想からは少し離れるが、山口が人間労働の価値、必要性を踏まえている点は、労働はすべてAIロボットが肩代わりしてくれるから、人間は支給された「ベーシック・インカム」でその生産物を消費し生きていくだけで良いというAI待望・楽観論者の未来予想よりも、ぼくには共感できる。 一方で山口は、「大学の自治」や「学問の自由」を「紋切り型のように繰り返す」大学人たちにもまた、批判の矛先を向けている。彼らもまた、それらを金科玉条のように唱えるだけではなく、そうした理念の歴史的背景を認識しておくべき、というのだ。 そもそも、「大学」という概念自体、長い歴史の中で大きく変遷してきた。世界最古と言われるボローニャ大学においては「大学」は学生の組合として、おおむね同じ時期に生まれたパリ大学では教師の組合として成立した。やがて、都市が発展し、給料の支払いが学生から都市当局に移るにつれて、15世紀末には、大学はもはや都市当局の一機関とみなされ、16,7世紀頃までには、大学の自治は破壊されてしまう。その時期に、大学専用の建物が造られ、「大学」はぼくたちに馴染みの概念に近くなってくる。 フランスでは、革命の世紀(19世紀)に、一旦大学は解体される。“大学では研究と教育が表裏一体のものとして行われるべきである。職業に役立つ教育や、強制による教育は、拒否されるべきである。また、大学に対する国家の干渉も有害である。学問研究は自由になされなくてはならない”というフンボルトの理念を持つドイツの大学も、やがて国力増進のための装置への移行していく。 「基礎研究が応用研究につながり社会の役に立つ」という、今大学人たちの多くが自らの存在理由の根拠とする主張は、世界史的に見れば後発国であるアメリカの大学起源のものである。そしてそれは、アメリカの急速な資本主義的(「帝国」主義的)発展によって、軍産学協同体を形成していったものでもある。 こうした「大学」の歴史に学びながら、今、この国において、「大学」とは何か、何のためにあるのかを真剣に問い直すことが、大学人にとっても、社会にとっても、何よりも大切である、と山口は言うのだ。 山口によれば、一部のエリートを育成するのが大学の役割であった時代と違って、若い世代の過半が進学することによって大学が「ユニヴァーサル化」した今日、大学の最も大切な役割は、民主主義社会を実現すべく、学生に対話による意見構築の技法を学ばせることだ。“大学で最低限度教育すべきことは、さまざまな問題について、その背景を知り、前提を疑い、合理的な解決を考察し、反対する立場の他人と意見のすり合わせや共有を行う能力”なのだ。 だが、今日の大学は、“きちんと学習し考える力を身につけさせないままに学生を卒業させてきた”と山口は断ずる。
今、この国が目指すべき政治や社会のあり方を思う時、この山口の見立てに、ぼくは賛同する。 このコラムでも参照した『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊 』(文春新書)の著者井上智洋は、『atプラス32号』(太田出版)で、AIとBI(ベーシック・インカム)によって「労働」から解放された未来の人間は、いよいよ人間的な「仕事」(永遠性を有したもの制作)や「活動」(古代ギリシアの民主制で展開された政治)に専念でき、ハンナ=アーレントの望んだ世界が実現するだろうと楽天的に述べているが、単にAIロボットが「労働」を肩代わりしてくれただけでそのような社会が到来するとは、ぼくには信じられない。 生体としては未熟なまま生まれてきた人間という(ネオテニー)動物にとって、教育という営為は、不可欠なものであるはずなのだ。その教育とは、山口の言うようにこれまでの日本の大学には決定的に欠落していた教育、今日の「教育」とは、全く違う営みであろう。 (ジュンク堂書店難波店では、9月9日(土)に山口裕之先生をお招きして、トークイベントを開催します⇒https://honto.jp/store/news/detail_041000022834.html?shgcd=HB300
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |