○第181回(2017/10) マルクスは、『資本論』を、「商品」の分析から始めている。
マルクス自身によるその理由の説明は大変明快であり、また妥当である。「資本」の本質、秘密、形態を徹底的に分析しようとするこの大著において、その産物でありかつ成立条件でもある「商品」の謎の解明から筆を起こすのは、当然のことと思われる。いよいよ資本の解明に着手しようという第二編の冒頭でも、次のように言っている。
では、「商品」とは何か? 第一に、それは人間が使用/消費するために他の人間が生産したものである。第二に、それは売り買いされなければならない。「商品」のこの2つの属性から、マルクスは、「商品」の二重の性格を剔抉する。
人が商品を買うのは、それが買い手にとって価値のあるもの=自らの生存に必要なもの、自らに快楽をもたらすものだからである。その価値を、マルクスは「使用価値」と呼ぶ。 人が商品を売るのは、その時何か他のもの、多くの場合は貨幣を得ることが出来るからである。売り買いによって売り手が入手できる貨幣の量は、価格によって表される。それをマルクスは「交換価値」と呼ぶ(『資本論』では、これを「価値」と表記されていることが多いが、「使用価値」と混同されないように、小論では常に「交換価値」と表記する)。
重要なのは、「使用価値」と「交換価値」が、互いに「全く独立」したものであることだ。だからこそ、「商品」は、売れたり売れなかったり、すなわち買われたり買われなかったりする。買い手は、「商品」の価格(交換価値)が、自らが感じる或いは予想する使用価値に見合うものだと思う時にのみ、その「商品」を買うからだ。 だが、売り手は、売ることだけ至上命題として、どこまでも価格(交換価値)を下げることは出来ない。「交換価値」には、その大きさを決定する因子が存在するからだ。 マルクスは、それを「労働」の大きさだという。「商品」は、「労働生産物」だからである。
マルクスの考察によると、「使用価値」と「交換価値」は、まったく違う因子から相互に無関係に決定される。とすると、余りに「交換価値」が大きい、即ち所要労働時間の長い「手間暇のかかる」商品群は、永遠に「交換価値」(価格)が「使用価値」に見合わうことなく、決して売れる=買われることはないのであろうか?否、あくまで質的な「使用価値」とあくまで量的な「交換価値」は、そもそも比較することが出来ないから、結局購買決定競争はそれぞれの「価値」間で独立して行われることになる。即ち、買い手各々の「使用価値」の大小(人によって違う)による優先順位と、「交換価値」すなわち「価格」の大小の2つの変数を持った関数として決定されると言える。それゆえ、同じ範疇の「商品」群は、余程の理由がない限り他とかけ離れた価格設定はできない。それぞれの範疇には、商品の価格に「相場がある」。
さて、わが出版ー書店業界がその売り買いによって利益を得て成り立っている本も、当然「商品」である。 本という「商品」こそ、個々の買い手=読者によって「使用価値」は明らかに違う。ある程度高額であってもその本を読みたいという読者もいれば、タダでも、金を積まれても読みたくないという人もいる。ある本の「使用価値」と「交換価値」は、全く無関係である。人は安ければ(「交換価値」が小さければ)本を買うわけではないし、高ければ(「交換価値」が大きければ)崇めるというものでもない。 人は、自分が読みたいと思う本を、購入するのである。本の買い手は、一点一点の商品の価格合理性にそれほど頓着はしない。価格だけを比較して購入を決定することは、ない。 日本では、どの書店でも、販売価格は同じである。発売後、時間が経っても、本は安くはならない。それは、出版社と書店が再販売価格維持契約(再販契約)を結んでいるからである。 独占禁止法では、再販契約を結ぶことは、原則禁止されている。それは、メーカーによる価格拘束によって、小売業の自由競争を阻害するからである。今日主流の経済学では、価格は需要曲線と供給曲線が交わる点として決定されるべきとされる。需要も供給も時とともに変動するから、当然価格も固定的ではない。 現在日本で再販契約が認められている、すなわちメーカーに価格拘束権がある商品は、出版物と新聞だけである。ぼくたちが扱っている本という商品は、いわば例外的な「商品」なのだ。
ところがその例外的な商品こそ、マルクスの分析にもっとも適う「商品」であるのだ。「交換価値」(価格)が、「使用価値」(需要)とは無関係に決定されているからだ。 「交換価値」について、マルクスは次のように書いている。
考えてみれば本という商品は、商品自体に価格が「定価」として書き込まれた、例外的な商品である。「定価」の書き込みが可能なのは、発売後も、売れ行き=「使用価値」(需要)によって価格が変動しない「再販商品」だからだ。そうした例外的な商品こそ、そしてその例外的な商慣習である再販性こそが、「交換価値」と「使用価値」は「全く独立」しているというマルクスの見立てに適合するのである。 では、そこには「価格競争」は一切無いのか?否。出版社は、定価の設定にいつも四苦八苦している。より多く売るために、できるだけ定価を抑えようとする。人はある本を安いからという理由だけで買うわけではないが、人が同じく「使用価値」を見出す他の本、或いは本以外の商品との比較考量において、価格が安いことはその本の購入を選択する動機づけになるからだ。本の場合も、一つの範疇内での販売競争は、「相場」内での価格競争となる。 本の定価は、他の商品同様、その生産並びに流通にかかった、そしてかかるであろう費用全体を推計し、それに利益を加算して設定される。費用全体には、著者の印税、紙などの材料、出版社社員の人件費、印刷所や製本所への支払い、宣伝費、流通経費などが含まれる。印税、人件費はもとより、様々な支払い、経費は、そして材料や製作機械もまた労働生産物であるから、元々すべて労働の対価として発生したものと言える。 一方、マルクスによれば、利益は、労働が生み出す剰余価値の総計である。価格を抑えて利益を出すには、剰余価値を大きくする、すなわち労働の生産性を上げるしかない。材料や機械は、それ自身労働生産物であるとはいえ、現在の所有者はその購入価格(の一部)を自らの生産物の価格に転嫁するしかない、とマルクスは言う。そこには剰余価値は生まれない。剰余価値を生むのは、あくまで、当該の商品を生産する時の労働である。(注) マルクスは、流通過程でも剰余価値は生まれないとしている。資本にとって、流通段階で動くお金はあくまでも販売のための経費であって、剰余価値を生むのは製造段階に限られるというのである。 だが、マルクスが考察した時代から150年が経ち、産業構造は大きく変化している。多くの大資本が流通分野に資本投下しているし、労働者の就業率も流通が製造を上回っている。資本の増殖は「商品」生産における剰余労働によってのみ可能になるというマルクスの図式にあくまでこだわるならば、今や流通過程もまた「商品」生産の一部と考えるべきであろう。 だとしたら、例えばぼくたちは、書店という場所で、「商品」に何を付け加えているのだろうか? (注)AIロボットは、あくまでも「製作機械」である、だから剰余価値は生まない。よくも悪くも、それで資本主義経済が成り立っていくのか、甚だ疑問だ。ぼくがAIの導入と人間の労働現場からの排除による経済発展を信じられないのは、人間労働がない限り「剰余価値」が生まれないからだ。
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |