○第186回(2018/3) ミヒャエル・ハインリッヒは、マルクスの『資本論』を読み解き、「恐慌」を「生産された商品量の大部分をもはや販売することができない・それらの生産物にたいする欲求が存在しないわけではないが、支払い能力のある欲求は存在しない」状態と捉える。ぼくは、前回、20世紀末からの「出版不況」は「恐慌」であったと書き、その原因として、出版資本の自己増殖と技術革新による増産を挙げた。だが、これは先のハインリッヒの定義の部分の前半部分にのみ関わる。ハインリッヒのいう定義の後半部分、「それらの生産物にたいする欲求が存在しないわけではないが、支払い能力のある欲求は存在しない」は、出版業界にも当てはまるのだろうか? 然り。この微妙な言い回しが、本をつくり売るわれわれの業界の今日的状況にこそ、ぴったり当てはまると思うのだ。 マルクスが考察した19世紀において、生産物の中心は、生活必需品であった。だからこそ、宇野弘蔵の次の言葉が妥当する、
だが、ハインリッヒは、「それらの生産物にたいする欲求が存在しないわけではない」と、微妙な言い回しをしている。ぼくは先程、「この微妙な言い回しが、本をつくり売るわれわれの業界の今日的状況にこそ、ぴったり当てはまる」と言った。どういうことか? これまでにも何度か触れたが、このケースに当てはまるものとして、ぼくは第一に出版労働者、書店労働者のことを考えている。最近では例外もある(というか、例外の方が多いかもしれない)が、出版社や書店で働こうというモチベーションを持つ人たちは、本が好きで、本を読みたいという欲求を持っている。言わば、生産に携わる人たちが、同時に消費者でもあったのだ。だが、IT技術導入による人減らしや労働形態変更(社員中心→アルバイト中心、外注等)のために、彼/女らは減り、本の購入に充てる可処分所得の総計が、間違いなく減少した。本は、読まなければ生を存続できなくなるほどの必需品ではなく、また本への欲求は本を読むことによってしか生まれ育っていかないから、出版社や書店が従業員に支払っていた給料が、彼/女らが本を買うことによって還流するプロセスが、徐々に崩壊していったわけである。 もちろん、出版−書店業界で禄を食むものだけが本を買っていれば業界が成立するわけではない。利益を上げるために、否「単純再生産」を続けるためだけにも、多くの「外部」の読者に本を買っていただかなければならない。 「読書離れ」が言われる。特に「学生が本を読まなくなった」ことが、出版不況の元凶として指弾される。確かに学生は出版業にとって重要な市場であったし、今もそうである。さまざまな理由で彼らが本を買って読まなくなったことは、痛い。 だが、単に学生を出版不況の犯人扱いすることには、何ら生産性がないと思う。むしろ、ぼくは学生に同情的である。 学生が持つお金と時間が、本からPCやスマホに移行していったことは間違いない。しかし、それは学生だけではなく、ぼくら出版−書店業界に生きる人間をはじめ、社会全体でそうなっているのだ。学生だけにその責を負わせるのは、おかしい。 今日の学生の経済状況は、ぼくたちが若い頃に比べて非常に厳しくなっている。第一に、授業料の高騰がある。長く続く国全体の経済不況の影響で、親からの仕送りもままならない。奨学金の返済も、かつてに比べて非常に厳しくなっている。生活のためにも、彼らはアルバイトに勤しむ他はない。弱者となった学生につけ込むブラック企業や学生融資ビジネスも、あとを絶たない。そのような状況で、どうやって金と時間を本に回せと言えるのか? 学生にとって本来必需品であった本が、どんどん「それらの生産物にたいする欲求が存在しないわけではないが」という曖昧な存在になってきており、そして間違いなく「支払い能力のある欲求は存在しな」くなっているのである。 条約を批准しながら、「高等教育の無償化」を実現する気など毛頭なさそうな政府の姿勢を含めて、学生を取り巻く状況を改善することが、先決なのではないだろうか? 経済状況だけではない。今日的な教育のあり方が、さらに言えば来るべき社会への展望そのものが、学生と本の関係にとって深刻な状況に陥っている。 的場昭宏は、「大学はサービス産業ではない」と嘆息する(『最強の思考法「抽象化する力」の講義』的場昭宏 日本実業出版社)。 学生の大学への注文、要求が多くなり、それを真に受けた大学側が成績についての合同相談会を設けたりすると、「何で俺を落としたんだよ?」と凄む者が出て来る、という。「先生、この前レポートを提出しましたよね。なのにどうして合格点をくれないのですか?」「先生の本を買ったんだよ。だから単位くれよ!」。単位は勉学の成果ではなく、学費支払いによる「獲物」と考えられているのだ。 そのような状況で、「学生」に、読むべき本を示し、それについて論じよ、と言っても、徒労に終わるだろう。大学というメディア自身の変容=弱体化が、学生から「本を読むべし」というモチベーションを奪っているのだ’。本という「生産物に対する欲求」が「存在しないわけではない」から「存在するかどうか、覚束ない」あたりまで滑り落ちる。 もちろん、そのことの責任は、すべて大学側にあるのではない。大学に学問ではなくサービスを要求する学生の素地は、それまでの初等・中等教育が培ってきたものであり、日本の教育制度全体の問題である。 国立情報学研究所の新井紀子教授は、2011年から東大合格を目指すAI「東ロボ」君の開発に関わってきた。だが、彼女は決してAI信奉者ではない(以下、『AI vs.教科書が読めない子どもたち』(新井紀子著 東洋経済新報社)を参照・引用しました)。 「コンピュータはすべて数学でできています。AIは単なるソフトウェアですから、やはり数学だけでできています。」「数学で説明できるのは、論理的に言えることと、確率・統計で表現できることだけだということです。つまり、数学で表現できることは非常に限られているということです。」それゆえ、「数学者として、私は「シンギュラリティは来ない」と断言できます」とキッパリ言い切る新井の言葉は清々しく、生半可な知識で来るべき世界を楽観的/悲観的に空想する「未来学者」よりも格段に説得力がある。 新井が「東ロボ」プロジェクトに関わった本当の目的は、人間がAIに仕事を奪い尽くされないために、AIにできないことは何かを解明することだった。 結局東大合格水準には達しないまま、「東ロボ」プロジェクトは2016年に凍結される。情報検索が威力を発揮する世界史や、論理的な自然言語処理と数式処理の組み合わせで答えを導ける数学では高得点を叩き出せるが、それらふたつの方法では、国語と英語はどうしても克服できなかったのである。情報検索の速さや精度、膨大なデータによるディープラーニングも、「意味を理解する」という能力を産み出さないからだ。 新井は、「東ロボ」の苦手分野を踏まえて、リーディングスキルテスト(RST)を開発し、実施する。ところが、その結果は深刻だった。 「東ロボ」に欠けている能力が、多くの人間にも欠けていたのだ。それは、意味を理解する能力、読解力である。具体的には、AIにはまだまだ難しいと考えられている「同義文判定」、AIにはまったく歯が立たない「推論」「イメージ同定」「具体例同定」分野の正答率が、人間においても、著しく低い。得手不得手が同じなら、日々進化するAIに人間がやがて仕事を奪われていくことは必至となる(東大合格には至らなかったとは言え、「東ロボ」はMARCH、関関同立合格レベルの偏差値には到達している。受験生全体で見れば、かなりの高位置にいるのだ)。 新井は、教育の最重要課題を、次のように言う。
これは、皮肉でも冗談でも戯言でもない。実際に、多くの大学生が、教員も含めた大人たちが、文章を読んで意味を理解することを出来ないでいるのだ。 そうなると、「出版恐慌」を抜け出すことは、永遠に不可能になる。
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |