○第187回(2018/4)

 チェスの世界チャンピオンや囲碁・将棋のトップクラスのプロが、既にAIに敗けているのだ。AIが学力において多くの日本人を上回っていてもなんの不思議もないではないか?

 そうではない、と新井紀子教授は言う。羽生善治永世七冠が「人間の将棋とAIの将棋は、まったく別物」と言っているように(→本コラム第175回)、新井もまた、人間が問題を解く作業と、AIが問題を解く作業は全く別物と言う。言い換えれば、AIのディープラーニングと人間の学習には、(まだ今のところ)決定的な違いがあるのだ。だからこそ、東ロボくんは、東大合格という目標を達成できなかった。

 新井の東ロボ開発プロジェクトの真の目的は、その「できなかった」理由を解明することにある。進化するAIがどんどん伸ばす得意分野と、それでもなおAIが到達できない人間の得意分野を腑分けすることにより、仕事のほとんどが人間からAIに奪われてしまうディストピアを回避し、そのことでAIの開発により積極的な意味を付与すること、言わば、AIと人間の共生を目指す道が模索されているのだ。

 では、AIが苦手とするのは、具体的にはどういう問題か?新井は、AIの得点率が低い国語の問題のタイプと、それらを解くために必要な能力を分析する。その結果、AIは、「係り受け」(主語ー述語、修飾語ー被修飾語の関係)や「照応」(指示代名詞が何を指すか?)を理解する能力についてはかなりの進化を遂げているが、文の構造を理解した上で生活体験や常識、さまざまな知識を総動員して文章の意味を理解する「推論」の能力、文章と図形やグラフを比べて内容が一致しているかどうかを認識する「イメージ同定」の能力、定義を読んでそれと合致する具体例を認識する「具体例同定」の能力は発達していないことが分かってきた。意味を理解しないAIには、後三者の能力を必要とする問題は、まったく歯が立たないのだ。

 一方新井は、AIに読解力をつけさせるための研究を積み上げエラーを分析してきた蓄積を用いて、人間の基礎的読解力を判定するためにリーディング・スキル・テスト(RST)を開発する。RSTは、AIの正解率が80%を超える「係り受け」や急速に研究が進んでいる「照応」、AIにはまだまだ難しいと考えられている「同義文判定」、AIにはまったく歯が立たない「推論」「具体的同定(辞書・数学)」の6つの分野で構成されていた。

 人間とAIの幸福な共生を目指すならば、人間はAIが苦手とする分野で能力を発揮していかなければならない。だが、RSTを用いて、中高生を中心に、一部上場企業の大人も含めた2万5000人の読解力調査を行った結果、憂うべき現実が明らかとなった。AIが苦手とする問題を、人間も苦手としていたのだ。即ち、AIに備わっていない能力が、人間においても欠落してきているのである。

 AIにとって正解を出すことが難しい問題群は、要するに「意味を理解できない」と解けない問題だ。AIと人間の苦手領域が似てきているということは、「意味を理解できない」人間が増えてきているということだ。

 人間を超えることを目指して開発が続けられてきたAIがどうしても乗り越えられない地点で足踏みしている間に、人間の方がそこまで降りてきてしまっている、即ち人間の方が「不完全なAI」化しているのだ。そうなると、「シンギュラリティは来ない」という新井の予言も危うくなってくる。AIが順調な進化を遂げるからではなく、人間が退化していくことによって。

 AIも人間も苦手としている問題の具体的な例の数々は、『AI vs.教科書が読めない子どもたち』で実際に見ていただきたいが、多数の解答者が「意味を理解できない」でいることを示す、象徴的な問題が次のものだ。

「Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexander の愛称でもある。」
この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい
Alexandraの愛称は(    )である。

@Alex  AAlexander B男性 C女性

 結果を見ると驚く。中学生の正答率は半数に達しておらず、中学1年生では23%、四択問題の選択肢を何も考えずに選んだときの25 %を下回っているのだ。

  “おそらく「愛称」という言葉を知らないからです。そして、知らない単語が出てくると、それを飛ばして読むという読みの習性があるためです”と、新井は分析する。たとえ「愛称」の意味を知らなくても、例文をしっかり読めば正答を選べる可能性はもっと高いと思われるのだが、この正答率は、そもそも知らない言葉は目に入らない、なんとかその意味を想像しようという意識も無いことを示しているとしか思えない。

 この読解力水準で、そもそも「本を読め」と推奨、命令してもまったく無駄である。彼らは単に本を「読まない」のではなく、「読みたくない」のでもなく、「読めない」のである。

 高校生になると、確かにこの問題の正答率も上がるが、それでも、60%台であり、高3になると50%台に落ちている。高校生の5人に2人は、この例文の意味が理解できていないのだ。もっと言えば、文章を読んで意味を考えるという姿勢が無いのだ。

 その状態で、「本を読め」と言っても無理だ。本という生産物については、「それらの生産物にたいする欲求が存在しないわけではない」(ハインリッヒ)という微妙な状況が、「欲求は存在しない」に向かって、間違いなく悪化しているのである。

 そうなると、確かに出版ー書店業界は困るだろう。本が売れなくなったら、業界そのものが縮小せざるを得ない。時代は変わっていくのだ。それにつれて、縮小、消滅した業態も多い。出版ー書店業界もその例外ではない、というだけか…。

 人々の読解力が減退して、本を読む人が少なくなり、英語力が落ちても、ITやAIの進化が人類を救ってくれる。人間が本を読み様々なことを学ばなくても、サイバー空間のアーカイヴにある膨大な情報に必要な時にアクセスできればよく、英語力が落ちても、自動翻訳がどんどん進化すれば、困らない。

 否。問題は、出版−書店業界の存亡だけではない。読解力=意味を把握する能力の減退・喪失は、理系の学問も破綻させる。新井は、RSTより前に、6000人の大学生を対象に「大学生数学基本調査」を行った際、「偶数と奇数を足すとどうなるか?」という論証問題の正答率が34%だったことに愕然としたという。

“論理的なキャッチボールができる能力を身につけないまま学生が大学に入ってきても、大学として教育できることは限られています”。

 こうした学生たちが世に出ても、そのすべての能力においてAIの後塵を拝すとなると、AIの側は、苦もなく「シンギュラリティ」の時を迎え、労働市場を席巻するだろう。そしてそうなった時、没落するのは仕事を失った労働者だけではなく、資本家もまたその後を追うのである。買い手がいなくなってしまえば、出版ー書店業界だけではなくあらゆる業界が収益構造を維持することはできず、社会はこれまでの経済構造を維持できないからである。少なくとも近現代の社会構造は、人々が本を読みさまざまな知識を得て万象の意味を理解することを前提に成り立ってきたのである。

 すべては、教育の問題か?その通りである。だが、教育は学校教育に限られる訳ではなく、その責が学校にのみ帰せられるものではない。教育とは、社会全体が知を生み出し、それを広く伝えていくという営為なのだ。即ち、学校外にいる人々も皆その責を負っており、況や知の時間的/空間的流通手段である本を糊口を凌ぐ手段としている出版書店業界の人間は、教育への意欲において、教員その人は置くとしても、他の何人にも先んじていて然るべきである。それなのに我々は、「速読」「多読」と称揚して、新井が言う「知らない単語が出てくると、それを飛ばして読むという読みの習性」の埋め込み、繁殖を助長するような本をも、出版、販売してこなかったか?

 受験参考書や受験産業も、決められた時間の中で得点を上げるテクニックとして、飛ばし読みのテクニックを受験生に授けてきたようだ。ある一定のルールに則って問題文を変形すれば、文意を全く解さなくても正解が書けるというような「技」もある。

 ルールに忠実であればよい、解釈は不要。そうした定式に人びとが唯々諾々と、面倒な解釈労働(他人の心のを慮ること)から免れることを歓びながら従っていく世界こそ、グレーバーが批判する「官僚制のユートピア」である。(→本コラム183回)

 そうした世界は、かつてエーリッヒ=フロムがナチスの支配を許したドイツ国民のあり様を言い表した「自由からの逃走」の世界である。すでに18世紀の終わりに、カントが、ルールにのみ従うあり様を、悪の第三の形態と呼んでいることを、ぼくは最近、大澤真幸の『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』(KADOKAWA)に教えられた。

 

カントの「悪の三類型」

1.人間の意志の弱さに由来する悪 してはならないとわかっているのに、意志が弱いために欲望に負けたり、快楽に溺れたりしてしまうこと

2.一見、何か正しい倫理的な動機に従った行動のように見せながら、その内部では、個人的な欲望や、「しつけ」と称して子どもを殴って鬱憤を晴らすような快楽のためにやっている。「不純な動機」。

3.正しいこと、正しい義務への内発的動機がないケース;なにをやってはいけないか、やるべきなのか、そうした感覚がまったくない

 

 そしてカントは、第三の形態が最も破壊的な悪だと言っているという。それは、この形態においては、ルールを守ろうとする内発的な動機がないからである。

 「内発的な動機」、それは、自分がそのルールを守って行為することの意味を知ることではないか?意味を知ろうとする姿勢の欠如は、即ち「破壊的な悪」につながるのではないか?実際、「だってさ、ルールさえ守っていればいいだろ。どんなことをしても」という人が、現代社会に増えてはいないか?その姿勢は、やがて「意味のわからない」破壊的な事件や事故につながっていかなかったか?

 意味を知ろうとする姿勢、「内発的動機」は、学習しよう、本を読もうという行為に不可欠なものである。

 学習者の意欲なくして教育は成立しない。ならば、教育の第一歩は学習への誘惑である。誘惑とは、即ち、相手の欲望を引き出す行為であるからだ。書店においては、本への誘惑である。そのためには誘惑者自身がその欲望を強く持っていなくてはならない。「本を読みたい、知りたい、理解したい」という欲望を、本を売るもの自身が持っていること、その欲望が他者の欲望を引き出す空間を書店に創り出すことこそが、書店員の最も重要な仕事なのだ。そして、そうした空間とともに生まれるのが、緩やかなコミュニティ(※)なのである。

 (※)「緩やかな」というのは、「紐帯が弱い」ではなく「より多くの人に開かれている」ことを意味している。

 

 

<<第186回 ホームへ  第188回>>

 

福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)