○第195回(2018/12)

 AI/ITの進化により、それらが「自然」と結びつき、我々の環境となった「デジタルネイチャー」において、人びとの働き方・生き方がどうなるか、落合陽一は次のように言っている。

 “デジタルネイチャーは、〈近代以前〉の多様性が、〈近代以降〉の効率性や合理性を保ったまま、コンピュータの支援によって実現される世界だ。そこでの人びとの生き方は、ベーシックインカム(BI)的か、あるいはベンチャーキャピタル(VC)的かに分かれていくだろう。つまり、AIによる補完(多様化オートメーション)をはじめとするテクノロジーの発展で生産力が飛躍的に増大した結果、多くの社会で何らかの形でのBIもしくはそれに近い資本の再配分か金融商品の分配、問題解決に際しての資本へのアクセス性の簡略化が実現するということだ。そこでは高度なインフラを伴う社会維持システムに組み込まれた人間は機械の指示のもと簡単かつ少時間の労働を営みながらBI的に生活することが可能になる。”(『デジタルネイチャー』

 デジタルテクノロジーの進化の結果、能力とコストで劣る人間は、長時間労働から解放され、「間違えない」機械の指示に従って簡単かつ少時間の労働で生きていけるようになる。それが可能になるのは、テクノロジーの進化が生産性を極度に向上させ、そのことによって生み出される膨大な「富」によって、ベーシック・インカムが実現するからだ。人々は、生きていくのに必要なお金を、政府から支給される。

 ホリエモンこと堀江貴文が、盟友落合との共著『10年後の仕事図鑑』で、よりわかりやすく、より直截に言っている。

 “この世の中には「働く」ことが不得意な人間が一定数いる。そうした人たちに労働を強いるより、働くのが好きで新しい発明や事業を考えるのが好きで本気で働きたい人間にのみ、どんどん働かせたほうが効率が良い”。

 “これから日本全体がよい方向に向かっていくためには、高給で働く能力のある人だけが高給取りとして働き、その能力がない人は国からお金をもらって好きなことをして生きていけばよい”。

 堀江のいう「働くのが好きで新しい発明や事業を考えるのが好きで本気で働きたい人間」「高給で働く能力のある人」が、落合のいう「ベンチャーキャピタル(VC)的」に生きる人々なのである。

 二人が描く未来図では、「働く(価値がある)人たち」と「働かない(でもいい)人たち」に二分される。そしておそらくは、前者が圧倒的に少数派である。落合のいう「〈近代以前〉の多様性」は、「〈近代以前〉の身分社会」と聞こえる。そうした「新しい中世」には、エリート主義の強烈な匂いがする。

 こうした楽観的な未来図は、ぼくがこのコラム第176回で取り上げた井上智洋ら経済学者たちのAI・BI楽観論と同型である。

 その時に発した「ベーシック・インカムがそんなに簡単に実現するか?」という疑問は、落合もまたその具体的なしくみを提示しないから変わらないが、そのことを敢えて措くとしても、彼らの未来構想には2つの問題がある。

 一つは、AI/ITテクノロジーの進化によって、仕事は本当に減るのか?人間は労働から「解放」されるのか?という問題である。

 F・G・ユンガーは、次のように言っている。

 “機械ができる労働はすべて機械に任せるべきだ、という要求を掲げる者が、その根拠として、機械化は労働者負担の軽減につながると主張することはできない。機械化は、機械的運動を増大させ、この運動に関連した消費を増大させるばかりではなくて、労働の量も増やすのである”。(『技術の完成』

 これは、マルクスがつぶさに観察した19世紀の工場労働の時代から、ユンガーが見た20世紀半ばへと時代が下るに従って、変わらぬどころか大きく亢進した事態であったろう。産業革命後の機械化によって、工場労働者の労働環境は決して改善されなかった。むしろ、より過酷になった。AI/IT化という機械化が、同様の事態を招来しない保証はあるのだろうか?

 対して落合は、「機械が行なったほうがコストが低いのであれば機械に任せればいいのだ」(『10年後の仕事図鑑』)と断言する一方、次のようにも言っている。

 “土木作業、建設業など、現場で精密な作業が求められ、体を張る仕事はAIに代替されないだろう。しかしこれは、代替していかなければ、我々の社会は近いうちに人口減少にいより、新しい建物が建たなくなる。ただし、現場監督はAIに代替される。データをもとに効率的に働くプランを作るのは、人間よりもAIのほうが得意だ”(同)。

 この箇所での落合は、頗る曖昧である。管理職はAIに移るとして、精密な作業、体を張る仕事は機械に代替されるのか、されないのか?要約すれば、少なくとも直近では、人間に残されるのは、コストが機械より低い「体を張る仕事」ということなのだろうか?

 一方で、次のようにも言われている。

 “人間は、フレームに収まらない要素を見つけ出し、協議し、それをインターネット上に論文として提出し、コードをGitHubにアップする。これを繰り返すことで、人間とコンピュータのカップリングが進行し、世界を進歩させる。要するに、人と機械のどちらが生み出したのか判別できないような集合知が生まれているわけだ”。(『デジタルネイチャー』)

 どうやら、体を張る仕事と、コンピュータのフレーム外の仕事は人間に残されそうだ。「フレーム外」といえば、〈近代〉のオートメーション化した工場の中での人間の重要な役割は、規格外品の選別だった。AI/IT化においても、それは変わらないようである。

 また、落合は次のようにも言う。

 “今日、知的生産に携わる人間は、時間労働によって身体的に疲弊するのではなく、頭脳の処理による負荷で疲弊している。問題は「時間」よりも「演算ストレス」であり、近代が「タイムマネジメントの時代」であったのに対して、現代は「ストレスマネジメントの時代」なのである“”。(同)

 “重要なのは頭脳の演算による仕事の成果とストレスマネジメントであって、労働時間管理それ自体には、何の意味もないのだ。労働のハード思想からソフト思想への転換である” (同)

 落合自身には何の悪気もなく、研究者--経営者--教育者--アーティストとして七面六臂の活躍をする自身が、極度に短い睡眠時間でも疲れないことを自慢しているだけかもしれない。落合には「寝たほうがいいよ」と助言したいが、本人の選択だから、とやかく言う筋合いではないのだろう。だが、それを一般化して広く奨励・要求するとすれば、それは違う。安倍内閣が推進し法令化にまで至った、「新しい働き方」という名の下での労働時間の制限撤廃、残業代の不払いを推し進めることにもなりかねない。労働者の身体的・精神的過労は、ますます亢進するだろう。

 もう一つの問題は、機械の管理下のもとでの労働が、労働者にどんな影響をもたらすか、である。

 “技術が幅をきかせればきかせるほど、そして専門化すればするほど、機能的労働の量は増える。そしてこの現象と並行して、労働が労働者から乖離していゆく。労働は、労働者の人格を離れ、それ自体で独立するのである”。(『技術の完成』)

 ユンガーの言葉は、マルクスがかつて「疎外」と呼んだ状況を指している。

 “今はまだそうではないが、仮にこうした機械が地球全体に広まるくらい発展した状況を想像し、強力で巨大な装置の労働工程に人類が取り込まれ、機械的に動かされ、細胞の一つ一つに至るまで徹底的に組織化され、様々な機能のベルトコンベアに適応すべく調教されているさまを思い浮かべてみるなら、このような進展を予期する幾ばくかの人たちが抱く恐怖に強く共感することができるかもしれない”(同)

 ユンガーの時代には「まだそうではな」かった状況が、今訪れてしまっているのではないか。

 そうであるとすれば、「ベーシックインカム(BI)的か、あるいはベンチャーキャピタル(VC)的」即ち「働く(価値がある)人たち」と「働かない(でもいい)人たち」とに「人びとの生き方」を二分する落合=堀江の未来図は、次のどちらかを描くことになるだろう。

 一つは、この二分法そのものが決して実現しない、つまり「働かない(でもいい)人たち」は生まれない未来図、もう一つは、仮にベーシック・インカムが本当に機能して「働かない(でもいい)人たち」が生まれたときには、「働く(価値がある)人たち」に猛烈に過酷な労働が要求される未来図である。もうしも後者であれば、落合の「重要なのは頭脳の演算による仕事の成果とストレスマネジメントであって、労働時間管理それ自体には、何の意味もない」という言葉は、現在の労働法は、あまねく吹っ飛ばしてしまう。

 もしも到来する未来図が前者であれば、即ちに二分法が実現しないならば、労働者たちは、自動機械の従僕として働くことになるだろう。

 “当然のことながら、人間が支配し操っている自動機械化の影響は、人間へと跳ね返ってくる。自動機械化によって人間が獲得する力は、逆に人間を支配する力を獲得する。人間は自分の動き、注意力、思考を自動機械の方に向けるよう強いられる。機械と結びついた人間のしごとは機械的なものになり、機械的に、寸分違わぬ形で繰り返される”。(『技術の完成』)

 現在すでに、PCの画面に齧りつき、世界が画面上の数字と記号のみに収斂してしまっている労働者たちを、見よ。

 “機械を支配する人間は、同時に機械の従僕となり、機械の法則に適合しなければならない。自動機械は人間を否応なく自動的な行動に向かわせる。このことが最もよく分かるのが交通である。…交通は自動的な流れを前提としていて、人間はそれに従わなければならない”(同)

 技術の進歩によって、労働者のみならず、生活者すべてが機械の従僕と化すのである。そしてそれは、グレーバーが『官僚制のユートピア』(以文社)で見事に描き出した、現代世界の官僚性支配を招来する。

 “技術の進歩はその概念からして組織の増加と結びついており、絶えず増大する官僚主義と結びついている。官僚主義は途方もない人員を必要とするが、それは何も作り出さず、何も生み出さない人員であって、作り出されたものや生み出されたものが少ないほど、それだけ人員の数は増大する”(『技術の完成『』)

 技術の進歩は、「何も作り出さず、何も生み出さない」膨大な人員を「動員」するのである。その最たるものが、ユンガーの時代に、文字通り「世界の破壊」をもたらした世界大戦への「動員」である。世界各地の紛争を思う時、それは今もまた変わっていないと言うべきかもしれないし、「GAFA」が支配する今日の世界経済においては、すべての消費者が「動員」されていると言えるかもしれない。

 一方、もし仮に落合や堀江の見立てが正しく、ベーシック・インカムが本当に機能して世界が「働かない(でもいい)人たち」であふれた時、一体「働かない(でもいい)人たち」は、幸せなのか?

 そうは、思わない。ぼくは、ここでもやはり、ユンガーの次の見立てが正解だと思う。

 “ゆとりを有意義に利用する能力をもたない、失業した労働者は、自分が何もする必要がなく、その上、生活のための糧(パンやニラ)を買うために国家から失業者扶助がもらえることを知らされたとしても、犬儒学派の哲学者のように自分の樽の前で小躍りすることはない。むしろ彼は、自分へと流れ込む空虚な時間に何をしたらよいのか分からず、堕落してしまう”(同)

 堀江なら、「ならばゆとりを有意義に利用する能力」を持て、と言うだろう。「遊びのプロになれ」(『10年後の仕事図鑑』)と。それだけでも有意義だが、そうなれば更に新たな仕事も必然的についてくる、と。

 だが、そういう問題ではないのだ。「ゆとりを有意義に利用」すべく遊びや趣味に長けることが問題の解決になるのではないのだ。人びとが、労働から疎外されることが、疎外としての労働を強制される以上に、致命的なことなのだ。

 仲正昌樹の『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)は、ヘーゲルの思想が、現代フランス思想にいかに大きく影響を与えたかを教えてくれる。とりわけ、コジェーブやイポリットを介して現代フランス思想に流れ込んだのは、『精神現象学』の、有名な「主ー僕の弁証法」だった。

 『精神現象学』の中で、「自己意識」への成長した意識は、未だ自分自身だけを主体として認識しており、自分自身だけの自由を求めるから、他の「自己意識」との「生死を賭けた闘争」を行う。その「生死を賭けた闘争」の中で、死の恐怖に怯え相手の軍門に下った方が「僕」であり、勝利し「僕」を従えた方が「主」である。
「主」は、自らの主体性、自律性のために「僕」に自らの世話をさせることで、物への囚われから免れることが出来る。「僕」は、「主」の命令に従って「主」の欲望を満たすために物を加工し、製作する。即ち、労働する。その結果、やがて「僕」は自分自身を製作物のうちに見出す(後にマルクスは、この製作物を「商品」として資本家が労働者から搾取することを指弾する)ようになる。たとえ、その製作物を享受し欲望を満たすのが、おのれではなく「主」であったとしても、「僕」は自分自身を対象とすることができ、対自存在となる。

 一方、「主」は、「僕」の製作物を享受することで自らの欲望を満たすことが出来るが、享受する対象は「僕」の労働の結果だから、そこに自分自身を見出すことは出来ない。「主」は、生きるために「僕」の製作物を、「僕」の労働を不可欠とする。

 仲正の説明を引く。

 “(「僕」は)当面は、「主」の命令を果たす中で、なかなか思い通りにならず、自分を受動的な状態に縛り付けている、物的な環境に打ち勝ち、それをそれを支配することを試みる。それが「労働Arbeit」である。「労働」とは自己の「欲望 Begierde」を抑制しながら、「物」に手を加え、利用可能な対象へと形成する営みである。「労働」を通して「僕「は次第に自己形成し、自発的な意識を持続的に保持し続けられるようになる。「労働」の能力を身に付けた「僕」、「主」の「欲望」を充たすうえで欠くことのできない存在なので、そのことが互いの間で了解されると、「死への恐怖」は次第に緩和されていく”(『ヘーゲルを越えるヘーゲル』)。

 こうして、「主」と「僕」の優位性の逆転が、或いは少なくとも同等性が生じる。これが(やや単純化しているが)「主ー僕の弁証法」であり、意識を「自己意識」から「理性」「精神」へと高める道程の契機なのである。

 人が労働から疎外されるということは、この契機を失うことであり、「理性」「精神」という、『精神現象学』における、意識のより高位な状態へと進むことを阻むものなのである。ユンガーがいう、失業した労働者が「自分へと流れ込む空虚な時間に何をしたらよいのか分からず、堕落してしまう」のは、趣味や遊びを知らないからではなく、この契機を失うからなのだ。

 落合や堀江が描く未来図における「主」は、「だれ」であろうか?

 実際に「働かない(でもいい)人たち」が多数となった場合は、「働く(価値がある)人たち」が「主」。そうでなく、やはり多くが働く必要のある場合は、彼らが隷従するAIが「主」となるのだろうか?

 前者であれば、そもそも労働という契機を多くが失う。後者であっても、AIという「主」には生命がなく、それゆえ「死の恐怖」を持たず「僕」を不可欠とは感じないから、「主ー僕の弁証法」は成立しない。いずれの場合も「〈近代以前〉の身分社会」の到来が不可避となる。

 労働の喪失は、まちがいなく現在の政治のあり方を変えていく。

 

 民主主義は、崩壊する。

 

 

<<第194回 ホームへ  第196回>>

 

福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)