○第196回(2019/1)

 『HUMAN+MACHINE 人間+マシン』(P・R・ドーアティ H・ジェームズ・ワトソン著 東洋経済新報社)は、製造、研究、事務作業、マーケティングから接客業務に至るまで、あらゆる分野の産業、労働現場で進行中の人間とマシンの融合・協働の実践を取材し、成功事例を掲げながら、そのあるべき方向を探っていく。

 敵か? 味方か?

 多くの産業に、職場に深く侵入しつつあるAIに対して、労働者が抱きがちな二者択一的な問いは不毛で無意味である、と本書は説く。一方で、AI導入をを人手不足の穴埋め、もしくは人件費の削減の手立てにしようとする経営施策は、すぐに頭打ちするとも警告する。あらゆる技術において、またビジネス現場において、AIだけでの進化は困難で、必ず人間の補助を必要とする。従来のオートメーションやIT技術と違い、AIは、労働者を一方的に支配する、もしくは問題解決を委ねる技術ではないからだ。AIはデータがない状況をも切り抜ける人間のスキルに学び進化し、人間は膨大なデータを前に優れた能力を発揮するAIに助けられてより創造的な仕事を目指していくのが、本書が示す、あるべき方向性なのである。

 実際、多くの具体的な事例を渉猟する本書の報告によると、GE、マイクロソフト、BMW、グーグル、アマゾンなどの先進企業においては、すでにマシンと人間の融合ー協働が実現しており、さまざまな成果をあげている。

 “マシンは、自らが得意とする分野を任されている。それは繰り返しの作業や大量データの処理、定型化された作業などである。そして人間も、自らが得意とする分野を任されている。あいまいな情報の処理や、難しい場面における意思決定、怒り心頭に発(ママ)している顧客への対応などだ”(同)

 機械化やそれを可能にする技術の進化への労働者の敵対視は、産業革命とIT革命に共通する、次の事情によるものだった。

 “一部の管理業務、たとえば請求処理、簿記、会計、苦情処理、データ入力、スケジュール調整などは本質的に機械的な作業であり、1990年代?2000年代にかけての標準的なIT技術の導入によって生じた。当時の技術には限界があり、それに人間の作業者の側が合わせる必要があったのである”(『HUMAN+MACHINE』)

 だが、AIの進化によって、状況は変わった。

 “これまで人々は、コンピューターの動く仕組みに合わせてこなければならなかった。しかし今、逆のことが起きている。AIシステムの方が、私たちに合わせてくれるようになったのだ。”(同)

 ただし、労働者が安穏としていられる訳では、決してない。上の文章に、次の一文が続く。

 “しかしそうするために、AIシステムは大掛かりなトレーニングを必要とする”。

 AIシステムをトレーニングするのは、人間の役割だ。しかし凄まじいスピードで進化し、しかも人間のトレーニングの結果をすぐに吸収するAIのトレーニングを仕事とし続けるためには、人間自身がAIに置いていかれないように進化していかなければならない。

 “現在の問題は、ロボットが人間の仕事を奪っているということではない。AIのような新しいテクノロジーによって急速に進化している仕事に対して、求められる適切なスキルを備えた労働者が不足しているということなのだ”(同)

 求められるのは、プログラミングの能力やIT技術、AIやその機械学習に関する知識だけではない。そちらの方はAI自身が自ら進化発展させることが出来る。むしろ、さまざまな人文知的なスキルが労働現場において要求されるようになる。AIが自力では獲得、進化させ得ない人間的能力として、本書は、創造力や即興力、狡猾さ、判断力、社交性、リーダーシップを挙げる。このどれをも兼ね備え、否そのどれか一つにおいても加速的に進化するAIに歩調を合わせて進化させうる人間は、ほんの一握りではないか? 定型的な仕事をAIに任せて、人間はより創造的な仕事を、と言われても、それは生易しいものではない。

 “2016年、テスラはすべての新車に、各種センサーやニューラルネットワークが実装されたコンピューターなど、自動運転に必要なハードウェアを搭載することを発表した。注目すべきは、自動運転を行うAIソフトは完全には完成していないという点だ”(同)

 テスラは、未完成の自動運転システムを自動車に搭載し、人間のドライバーの運転データと比較し、人間のドライビングスキルをAIに学ばせようとしたのだ。

 “テスラは自社のAIプラットフォームをトレーニングするのに、世界各地で発生する最高のデータを活用する、分散型のテストベッド(実証環境)を使っている。それはすなわち、現実世界にいるドライバーたちだ。この場合、人々のドライビングスキルがシステムをトレーニングする上で重要になる”(同)

 AIが、ドライバーたちのドライビングスキルを次から次へと「吸収」していったらどうなるか?早晩ドライバーたちには最早AIに教えることはなくなり、融合ー協働関係は打ち止めとなり、「失業」してしまうのではないか?

 一方、人間の側の(おそらくごく一部)がAIの進化についていき、このトレーニングプロセスが終わらないとしたら、AIのシステムはあくまで人間の能力を引き写しただけのものとなり、AI導入によってドラスティックな産業・労働環境の変化が起こるとは言えないのではないか?

 AIと労働者の相互援助→相互発展のプロセスは、落合陽一の未来像と、一見整合性があるように見えるが、このアポリアによって、むしろ齟齬の方が明確に浮かび上がってくると言える。落合は、あくまで「近代の超克」を目指しているからだ。

 “そもそも、私たちの社会で一般化している〈倫理〉の概念は、ルソーに由来するが、これは近代以降、〈人権〉と共に生じた欺瞞の一つである。近代の人権思想の発祥はフランス人権宣言だが、これはあくまで当時の「人間によって駆動される人間社会」を前提としたときの、現実的な落としどころであり、あくまで「人間用」の概念だ。

 人類は生まれながらに平等であり、不平等は是正されなければならず、「男女に」平等な権利が与えられるべきである。これらの倫理は、確かに聞こえはいいが、AIによる最適化が可能になった世界では、必ずしも最適解ではない。一人一人の人間を均等に分割するような平等観は、全体最適化がリソース的に不可能であった時代の「最良の努力」であったというだけだ。

 近代の人間的倫理を上回る全体最適解をコンピュータが弾き出せるようになった現代における、真の平等とは、全人類がその最適化される領域に属する権利がある、ということだ。”(『デジタルネイチャー』

 ここで彼は、大胆にも〈倫理〉〈人権〉〈平等〉といった、人類が近代に謳い上げ、現代にも至っている理念を否定する。AI時代を迎えた今日、それらの理念は賞味期限切れと言わんばかりだ。その根拠は「AIによる最適化」である。すなわち、それらの理念は「人間によって駆動される人間社会」を前提としたあくまで「人間用」の概念だとして、その不完全性を指摘し、バッサリと切り捨てるのだ。

 だが、この方向性は、「AIによる最適化」が存在してはじめて正当性を持つ。先程の例で、もしもドライバーのトレーニングが延々と続くならば、どこまで行っても「最適化」には至らない。どの段階でもAIには人間に学ぶ余地が残っており、ある段階の「最適解」は次の段階の判断に劣ることになるからだ。

 一方、AIが人間から最早学ぶ必要のない段階に達し、ドライバーたちが「失業」するならばどうだろうか? その時の「最適解」は確かに人間とAIの相互援助ー相互進化のプロセスが到達する「最適解」かもしれないが、そうなると、人間の到達した「最適解」とAIが導き出す「最適解」には、大差がなくなると言える。

 ひょっとしたらそのことに気づいているのか、落合は決してAIがさまざまな「人間的能力」に学ばなければならないとは言わない。落合にとって人間がAIに勝っているのは、唯一「リスクを取る性向」なのだ。

 “現行人類のコンピュータに対して優れている点は、リスクを取るほどに、モチベーションが上がるところだ。これは機械にはない人間だけの能力である”(『デジタルネイチャー』)

 「リスクを取るほどにモチベーションが上がる」のが、人間の一つの性向であることは認めよう。だが、人間に残された仕事として称揚されるのが「賭博」行為だけだとしたら、それは「冒険主義」や「貴族主義」を招来し、そして戦争や経済の破綻につながる危険を孕んでいることも、十分に踏まえなければならない。そうした人間の仕事とAIが結びつきが「リーマン・ショック」をもたらしたのは、記憶に新しい。

 「リスクを取る」能力の称揚が「デジタルネイチャーは、〈近代以前〉の多様性が、〈近代以降〉の効率性や合理性を保ったまま、コンピュータの支援によって実現される世界だ。そこでの人びとの生き方は、ベーシックインカム(BI)的か、あるいはベンチャーキャピタル(VC)的かに分かれていくだろう。」という落合の主張に結びつく。多くの人は、「AI+VC」的な生き方ではなく、「AI+BI」的な生き方を選択するだろう。その時「〈近代以前〉の多様性」は、「前近代的な格差」と読み替えられるように、ぼくには思える。

 前回ぼくは、“落合や堀江が描く未来図における「主」は、「だれ」であろうか?”と問うた。AI時代においてなお「働く(価値がある)人たち」か、AIか?と。だが、その二者択一は間違っていたかもしれない。AI時代においてなお「働く(価値がある)人たち」とAIの融合・協働部隊が「主」となり、それ以外の多くの人間が「僕」となるというのが正解なのかもしれない。

 そうした「前近代的な貴族主義」が望ましい未来像だと、ぼくには思えない。

 落合は言う。

 “これまでは、法律にしろ政治にしろ、すべて人間がその限定的な処理能力の内側で学習して判断しなければならなかった。そのためには直感的なわかりやすさや、人々への教育コストの低さが重視される。つまり「人間の頭脳で処理できるか否か」という基準によって社会システムは作られていたのだ。

 これは、「人間の標準」を決める思想だ。五体満足で生まれてくる人間が最も多いという理由でそれを「標準的な人間」と定義し、それ以外を区分けして保護したり弾いたりする発想だ。人間中心主義の社会を効率よく機能させるために必要とされた思想であるが、しかし、コンピュータ中心の包摂可能な社会では、技術的解決速度の遅い時代の基準に合わせる必要はどこにもない。”(『デジタルネイチャー』)

 “近代の人間的倫理を上回る全体最適解をコンピュータが弾き出せるようになった現代における、真の平等とは、全人類がその最適化される領域に属する権利がある、ということだ。”(『同』)

 あくまで、落合はAIによる「最適解」を、個々人の、そして個々人が集まった社会の判断より優れたものとするのだ。その時、さまざまな立場の、多様な欲望を持つ人間の対話・議論によって行き方を決めていく民主主義は、スピードが遅すぎ、邪魔になる。

 “民主主義は、構成員の人数が一定以上増えると問題解決には寄与しなくなる。その場合、AIの力を借りて、意思決定可能な人数まで構成員を分割し、集団の再編を行う手法もありうる。おそらくは優秀な個人の影響力が波及しうる規模の、そして共同体の理性的なコミュニティによる意思統一が可能になる規模の人数になるだろう。”(『同』)

 おそらく、落合のいう「意思統一」の内容は、AIによる「全体最適解」であろう。だが、『HUMAN+MACHINE 人間+マシン』によれば、少なくとも現時点では、AIは発展途上である。発展途上の段階のAIは、「最適解」を出せるとは言えない。早晩、発展途上が頂上に登りつめ、全能になる保証は、どこにもない。

 だが、落合は言い切る。

 “全体最適化および個別最適化の融合といった価値観を意思決定の根拠とする場合は、賛同する人間の数は問題にならない。あくまで生態系として捉えた社会全体にとって都合が良い選択肢が、個々の問題を一人一人に対して、別々に選び出されるわけだ”(『デジタルネイチャー』)。

 そして、「民主主義」の否定。

 “前世紀の全体主義が「人間知能と民主主義に由来する全体主義」だとすれば、これは「人間知性と機会知能の全体最適化による全体主義」および「〈デジタルの自然〉を維持するための環境対策」といえるだろう”(同)

 確かに、民主主義に弱点はある。前世紀に民主主義が全体主義を呼び寄せた可能性を否定することはできない。だが、民主主義のそうしたリスクを取るか、「人間知性と機会知能の全体最適化による全体主義」および「〈デジタルの自然〉を維持するための環境対策」を受け入れるかとの二者択一を迫られたら、ぼくは前者を取る。全体主義との親和性は、「AIの最適解」の方が強いと感じるからだ。

 「全体最適解」こそが、不気味である。「全体最適解」への信仰は、次のようなスローガンを導くからだ。

 “「バイ・ザ・ピープルではないし、オブ・ザ・ピープルでもない。しかし、それでいてフォー・ザ・ピープルになるような政治」”(『デジタルネイチャー』)

 そのようなスローガンは、「プロレタリアこそ革命の主体である」というマルクスのテーゼを継承しながら、「未だ自覚的でない民衆」を「正義を独占する」前衛党が「指導」していくことこそが「最適解」であるとして、夥しい粛清の犠牲者を生み破綻していった20世紀の超大国の、悲惨な実験を想起させないだろうか?

 

 

<<第195回 ホームへ  第197回>>

 

福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)