2008年分 第74回 第75回 第76回 第77回 第78回 第79回 第80回 第81回 第82回 第74回(2008/1) 『ビッグイシュー』をご存知ですか? そう、ホームレスの人たちが街角で独占販売している雑誌だ。彼らの脱ホームレス化を目指して、まずイギリスで発行・販売が始まった。同じ志を持ち、2002年から『ビッグイシュー日本版』を発行し続けているのが、「ビッグイシュー・ジャパン」代表佐野章二さんである。 かつての部下K君からのメールが、きっかけだった。ぼくの異動を知らずまだ池袋にいると思っていたK君は、ぼくの(異動に伴って変わらない)メールアドレスに、“「ビッグイシュー」の活動を書いた『突破する人々』(大月書店)に感動し、その活動に関わっています。「ビッグイシュー」のバックナンバーフェアを池袋本店で開催してはどうでしょう。”という提案メールをくれたのだ。 ぼくは、“知らせてなくて申し訳なかったが、実は僕は今大阪本店にいる。”と返信した。 K君は、“代表の佐野が大阪にいますので、こちらでのミーティングの際、是非福嶋さんを訪ねてくださいと言います。”と再返信してくれた。 もとより、「ビッグイシュー」には関心があったし、『フリーターズフリー』(人文書院)で佐野代表のインタビュー記事を読んでその関心はいや増していたところであった。大阪本店で何らかの企画を打てるかどうかはともかく、佐野代表に会いたい気持ちは強くあったので、K君の提案はとても嬉しいものだった。 店を訪れて下さった佐野代表にまずぶつけた質問は、「『ビッグイシュー』のバックナンバーフェアは、ぼくが担当ではなかったのですが、池袋本店でもやりました。ただ、その時ぼくが一抹の疑問を感じたのは、こんな風に書店で『ビッグイシュー』を売り、販売員さんたちの「割り前」を取ってしまっていいものかどうか、ということです。」 佐野代表の答えは明確だった。「いや、むしろ書店でバックナンバーフェアをやってもらえるのは大変ありがたいのです。『ビッグイシュー』は、日本での活動開始時にマスコミに取り上げられ、そこそこの知名度を持ってはいますが、まだまだ足りない。私たちは、買って読むに足る雑誌として企画編集を行っている。これは決してボランティアではなく、商行為なのです。路上販売という形態の弱点は、“立ち読み”をしてもらいにくいところにある。だから、バックナンバーフェアを書店で行って、『ビッグイシュー』の雑誌としての良さをより多くの人に分かってもらいたいのです。それが、販売員の最新刊の売上に繋がっていくのです。」 ぼくは得心し、12/10〜1/10のバックナンバーフェアを決めた。 佐野さんと話しているうちに、気鋭のアジア学者である中島岳志氏が、札幌で「ビッグイシュー」の活動を支えていることを知った。ぼくは喰いついた。 「中島さんは大阪のご出身ですから、お正月休みにこちらに帰られるなら、フェア期間中にトークショーを、というのは無理でしょうか?」 正直、ダメ元で言ったことだが、佐野さんはすぐに中島さんに連絡を取って、快諾を得てくれた。但し、お正月は混むので、12月10日頃に帰る、11日夜は空いているのでそれでよければ、という回答だった。 日程的には、バックナンバーフェア開始に合わせられる。その回答を得たのが11月の終わり近くで情宣期間は半月を切っていたが、決行に踏み切った。タイトルは、「中島岳志、ビッグイシューを応援す!」とし、中島さん、佐野代表、『ビッグイシュー日本版』編集長の水越洋子さんをパネリストとした。チラシ、ポスターは「ビッグイシュー・ジャパン」が作ってくれた。 中島岳志人気かビッグイシューへの関心の高さ故なのか、予約はどんどん入り、当日を待たずして「満員御礼」となった。 当日は、ぼくが時々「ビッグイシュー」を買っていた販売員の方も参加下さった。彼は、『中村屋のボース』を読んで中島さんのファンになり、それで来たのだ、と言った。一方中島さんは、かつてその販売員から「ビッグイシュー」を買っていたことを話した。出来すぎた話のようだが、実は不思議はない。その販売員はずっとジュンク堂大阪本店から一番近い場所で「ビッグイシュー」を売り続けていて、中島さんは『中村屋のボース』を書くための資料を、ジュンク堂大阪本店に買いに来てくれていたからだ。 書店が「劇場」であり「工房」であること、そのことに改めて矜持を覚え、そうであり続けるために、ここ大阪でも果敢にイヴェントを企画していくべきだと確信した次第である。 第75回(2008/2) 二〇〇六年四月、一人の哲学者が縊死した。『超越錯覚』(新評論1992)、『高学歴社会におくる弱腰矯正読本』(新評論2000年)、『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組み』(新評論 2005年)の著書がある、須原一秀氏である。それは、「…の責任を取って」でも、「世をはかなんで」の自死でもなかった。 自死決行に先立ち、須原氏は遺書、否遺稿を認め、『新葉隠』と題した。その遺稿が、『自死という生き方 覚悟して逝った哲学者』というタイトルで、年明け早々、双葉社より刊行された。 “「平常心で死を受け入れるということは本当に可能か?―それはどのようにして可能か?」ということを哲学研究者の一人として自分自身の心身を賭けて調査・研究し、後進に追試・研究の道を開く仕事が哲学研究者には残されていると考えたのである。”(P36)と須原氏は言う。「死の準備教育」は、ソクラテス以来の哲学の課題であり、まさにそのソクラテスの刑死こそ、「間接的自殺」という解答だと須原氏は見る。そして、三島由紀夫や伊丹十三の自死に、「老醜」への嫌悪/「楽しいうちに死にたい」という積極的な意志を見て取る。そして自らもまた、その意志に共感/共有するにいたるのである。 かれらが、「老醜」を嫌悪したのが正しい選択であり、みずからも同じ意志を共有するにいたった根拠として、須原氏は、三十年にわたって九千人の死を看取ったヌーランドの『人間らしい死にかた』(河出文庫)を引く。 “専門家としてヌーランドは、「はじめに」のところで「私自身、人が死に行く過程で尊厳を感じた例に出会ったことはほとんどない」と主張し、エピローグにおいても「臨終の瞬間は概して平穏で、その前に安楽な無意識状態が訪れることも多いが、この静けさはつねに、恐ろしい代償とひきかえでなければ得られない」と言っている。 つまり、「自然死」のほとんどが悲惨なものであり恐ろしいものであるにもかかわらず、世間にはなぜか、「穏やかな自然な死」とか、「眠るような老衰死」という神話のようなものがあるが、それは間違った思い込みであることを問題にしているのである。(P140) そして須原氏は、『葉隠』の「武士道」にその問題への答を見出す。 “葉隠武士は、「武士道とは死ぬこととみつけたり」で、「死に狂い」あるいは「死にたがり」になることによって、官僚的幕藩体制の中で自尊心と主体性を維持しつつ生きる道を見つけたのである。それならば、老人たちも「老人道とは死ぬこととみつけたり」で「死にたがり老人」になって、「病気・老化・死」という体制の中で、自尊心と主体性を維持し続けてはどうであろうか。”(P162)自らの遺稿を『新葉隠』と題した所以であろう。 “「老人道的自死」は共同体からの逃避ではなく、共同体内で共同体の構成員として立派に生き続けて行くために絶対に必要な「自尊心」と「主体性」を、最後まで維持し続けるための「共同体内での生活の一環」と見ることが出来る。したがって、共同体の側から見れば、共同体の成員が保持すべき価値かつ徳である「主体性と自尊心の保持」に準じて死んで行く形となる。”(P186) 「老人道的自死」は、「ニヒリズム」とは何の関係もない、自らの自死決行も自分の人生を肯定できるからこそ決断できたのだと須原氏は言う。 “「老化」と「自然死」を嫌って自殺する人は、まさに「老化」と「自然死」だけ否定したのであって、人生全体を否定しているわけでもないから、厭世主義者でも虚無主義者でもない、ということである。”(235)“ソクラテスが刑死の当日に、いつもの友人たちといつもどおりのディスカッションにいつもの気分で楽しんで、あっさりと死んで行った原因と理由も実感をもってわかった気がした。”(251) 須原氏の論理は一貫しており、予想される「常識的」な反論は、あらかじめ封じられている。「本人はともかく残された家族が可哀想」といったありがちな「義憤」も、「父にもう会えないのは寂しいが、悲しむことではない」というのが家族で出した結論であり、“父が遺した原稿を本にして出版したい、そして多くの方に読んでほしい、というのが私たち家族の一番の願いです。”(「最後に」P285)という息子さんの言葉が無力化する。 だから、須原氏の「自死」に対して情緒的に肯定はできないとはいえ、須原氏の思想へのありきたりな反論を、ぼくは棚上げしようと思う。須原氏は「老人道的自死」を万人に推奨しようとしているわけではなく、一方でほとんどの場合「悲惨」な「自然死」を、覚悟の上で受け容れようとする人々も、称揚しているからだ。ただ、一書店人の信念として、これだけは言っておきたい。書物とは、思想の完成態である以上に、人と人が出会いを媒介するもの、すなわち「終わり」ではなく「はじまり」のためのメディアであるのだ、と。 現に、ぼくは『超越錯覚』をとても面白く読み書評を書き、それを読んだ須原氏が喜んで下さり当時勤めていた京都店にまで会いに来て下さった、またその縁もあって『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組み』をめぐっての東京での勉強会に参加させていただき、10数年振りに再会できたのである。(その時の須原氏はとても闊達で、決して「厭世家」などではなかったことを、“一言で言うと父は毎日楽しそうな人でした。”(P283)と「最後に」を書き起こす息子さんとともに、ぼくも証言できる。) 自らの著書を盤石たらしめんとした須原氏の「自死」は、一方で自らの著書が「はじまり」となるべき議論への参加を不可能とさせた。著者の「自死」により、賛意も反論も、その宛先を失ってしまったのだ。サイン会やトークセッション、書評などを通じた書き手と読み手の交わりを見、自ら体験してきたぼくとしては、それは、厳しく言えば「著者の責任の放棄」とも言いたいのだ。 須原氏にとれば、実際に「自死」することが、「著者の責任」であったろう。この二つの「著者の責任」は、両立しない。ならば、「自死」をある部分で奨励しながら、自らは努めて健康体を保って生き続けるという「超越」の仕方もありだったのではないか、と思う。そうした「超越」を見事にぼやかす「私小説」という伝統も、須原氏がそれを以て全世界を指導すべしという「武士道」とは別に、日本にはあるのだから。 第76回(2008/3) 今回は、最近大阪本店で開催した二つのトークセッションについて。 一つ目は、2月27日(木)に行った、ご存じ、ぼくの論敵にして盟友でもある湯浅俊彦氏(夙川学院短期大学)の『日本の出版流通を考える―デジタル化とネットワーク化の情報社会の中で』である。湯浅氏の博士論文である『日本の出版流通における書誌情報・物流情報のデジタル化とその歴史的意義』(ポット出版)の刊行記念トークであるにもかかわらず、会場を設定し司会を仰せつかったぼくに気を使って下さったのか、湯浅さんは、1991年以来のぼくとの「SA化」論争の話題から語り始めてくれた。 当初から湯浅氏は、安易な「SA化」への警鐘を鳴らし、ぼくはといえば、その警鐘が強すぎて「SA化」が必至の状況下でよりよき「SA化」を探求する可能性の邪魔をしている、「SA化」をよくするも悪くするもそれは使う人間の問題だ、と反論したのである。そうした原理論争を、POSレジ導入後の書店業界は、津波のように覆いかぶせてしまった。ひとことで言えば、ぼくの「SA化」必至という予言も、湯浅氏が警鐘を鳴らした負の部分(多くの中小書店の淘汰)も、現実のものとなったのである。そのことを湯浅氏は、ぼくの『希望の書店論』のP68から、“ぼくと湯浅氏は、当初から同じ峠に立ちながら、正反対の方向を見ていただけかもしれない。いや、同じ上り下りの激しい前方の山道を眺めやりながら、ぼくは稜線を、湯浅氏は谷の部分を、より注視していたと言うべきかもしれない。”という部分を引用して、総括された。 その後、本来のテーマであるISBNコード、バーコード、更には昨今話題の電子タグへと話が進んでいった。面白いのは、今では当たり前になったISBNコードの導入そのものに反対した流通対策協議会などの存在があったという歴史であり、図書館界を含めた抵抗の歴史である。そもそもISBNコードの導入を強烈に訴えたのも図書館界であったことを、今では知る人も少ないであろう。 こうした技術的な変遷が、果たして返品率の抑制につながったか、ムダがなくなり、本と読者を結びつけることになっただろうか、そうした「?」を湯浅氏は投げかける。 何よりも印象深かったのが、「出版界の内紛・立場の違いを押さえて書く人がいない」という湯浅氏の研究・執筆動機だ。まさにそのとおりであって、「出版=書店業界」は、一枚岩だと思われすぎ、かつ思いすぎている。 二つ目は、3月14日(金)に開催された子安宣邦先生による「懐徳堂と学びの復権」である。子安先生に、是非懐徳堂についてお話しくださいとお願いしたのは、ぼくの方だった。大阪商人によって設立された「学びの場」にとても興味を持ち、書店現場、書店でのトークセッションをそうした場に重ね合わせたく思ったからだ。子安先生のトークは、まさにその思いにかなったものだった。 そもそも「教育」という言葉は、“education” の訳語であり、他の多くの近代漢語がそうであるように、明治時代に西洋語の翻訳のためにつくられた言葉である。確かに「論語」に「教育」という語はあるが、それは現在の概念内容とは違っている。孔子は、「学び」については語ったが、“education”の意味での「教育」については何も語っていない。 懐徳堂もまた、みずから必要とする学校を、学者たちと手を組んで大阪の町人が創建したのであり、そのことが重要なのだ。「階級社会」の悪弊がいわれる徳川社会は、「学ぶもの」「学ぼうとするもの」に対しては開かれた社会であった。誰でも「学者」になれたのであり、江戸時代ほど学問のための学問がなされた時代はなかったとも言えるのである。懐徳堂には、全国から多くの人々が訪れ、そうした知的ネットワークの中で、さまざまなユニークな思想形成がなされた。 懐徳堂に限らず、近世社会の学習組織は、指導者を前提とした教育組織ではなく、あくまで学習者同士の学習組織であった。それに比べ、学問への意欲を失った教授たちによって、学習への意欲をもたない学生たちが、ただ教育指導される現代の大学という教育システムに、近代教育制度の成立が、何を失ったかを改めて思いみるべきである。 大学が、大学の都合で講座をつくってしまっている現状は、懐徳堂の精神の死を意味すると言える。逆に市民の自生的な学への要求によって成立する「学び」の場はすべて“懐徳堂”である。書店が知的交流のセンターでありたい、現代の“懐徳堂”でありたいというぼくの(恐らくは分不相応な)思いに、子安先生は心からのエールを送って下さった。 第77回(2008/4) 前回に引き続き、三月後半に大阪本店で開催したトークセッションについて。 まずは、三月二〇日に行った金益見さんの「ラブホテル進化論」。神戸学院大学大学院生である金さんが、修士論文を進化させて何と文春新書で上梓した『ラブホテル進化論』刊行記念である。 金さんとは、昨年、前回紹介した湯浅氏が発表を行った出版学会で出会い、文春新書でのデビューを聞いて、「よかったら、書店でのトークショーなどしませんか?」と口説き、快諾を得たのだった。古臭い言い方だが、とても「気だてのいい子」で、かつ真摯な研究者である。当日は、出演したラジオ番組で放送作家が作ったシナリオを持ってきてくれ、それをもとにぼくとトークをするという形式を取った。もちろん、ぼくオリジナルの質問もしたが、土台があったので、とても楽だった。そんな気配りも十分できる人で、また、文春新書デビューに浮かれることもない。マスコミからの依頼は多いが、たいていは断っているという。少し前に、金さんに多くの資料を提供した師といってもいい井上章一氏に、国際日本文化研究センターで久しぶりにお会いしたが、井上氏が「マスコミに変なイジラレ方をするのが心配」と言っていたのが紀優と思われるほど、慎重でしっかりしている。『夕刊フジ』で、「おかん」という表現をされていることに、「私は母のことを『おかん』などと言ったことは一度もない!」と涙ながらに糾弾していた姿が印象的だった。 「箱入り娘」どころか「重箱入り娘」だった金さんがラブホテルを研究対象に選んだのは、自らの偏見に気付いた時だと言う。ラブホテルとは、「ヤンキー」たちだけが使うと思っていた金さんは、友人が「彼氏と普通に使っている」という事実に衝撃を受けた。金さんは、「足を使った」調査を不可欠と説く師の教えを忠実に守り、体当たりでフィールドワークを行った。 若い女性が一人でラブホテルを訪れても、部屋にも入れてもらえない。風俗営業に違いないと思われるからである。それでも金さんは果敢にラブホテルの舞台裏に潜入し、(廊下を映し出す)モニターを見ることにも成功する。フィールドワークを続けるうちに、金さんはモニターに映るカップルがどのようなケースか大体分かるようになったという 二七日には上野千鶴子先生のトーク&サイン会、二八日には『実録・連合赤軍』の若松孝二監督のトーク。この二つの企画が続いたのは、たまたまだ。上野先生の企画は、法研の『おひとりさまの老後』ベストセラー記念だったのだが、翌日に若松監督のトークがあることを当日になってぼくに聞かされた上野先生は、当時「石を投げていた」話からトークを始め、「『実録・連合赤軍』は観にいったが、やはり正視できなかった。」をおっしゃった。もちろん、それは映画への否定的な評価ではない。上野先生の世代の人々が持つ、不可避な「遣る瀬無さ」と感じた。 翌日、若松監督は、一時間の「メイキング」を参加者に見せた後、おもむろに会場に入った。「メイキング」上映のために照明をふさいでいたバルサ板を取ろうとするぼくを制し、「いや、顔は見えにくい方がいいから。」と嘯きながら。『実録・連合赤軍』について語ったり、会場からの質問に答えながら、若松監督は終始ニコニコしていたが、「連合赤軍」の仕業、結果を、その政治への真摯な思いを勘案せずに断罪することへの憤りの気持ちは、随所に感じられた。その思いが『実録・連合赤軍』を完成させたのだ。 世代が一つ後になると、出来事から距離を取れる。ぼくと同じ一九五〇年代末の生まれである大澤真幸は、「連合赤軍」を「理想の時代」から「虚構の時代」へのターニングポイントと、ある程度客観的に言い当てられる。ただし、ぼくらは、ほぼ同世代のエリートが起こした「オウム真理教事件」をトラウマとして抱える。大澤によれば、それは「虚構の時代」から「不可能性の時代」へのターニングポイントであった。 『逆接の資本主義』(角川書店)、『不可能性の時代』(岩波書店)刊行記念トークセッションを、大澤先生を招いて五月一七日(土)午後三時から、大阪本店で予定しています。是非ご予約・ご来場ください。 第78回(2008/5) 前回書いた通り、『逆接の資本主義』(角川書店)、『不可能性の時代』(岩波書店)刊行記念トークセッションを、大阪本店に京都大学大学院教授大澤真幸先生を招いて五月一七日(土)午後三時から実現できた。大澤先生にはもちろん、ご来場下さった方々に、心からの感謝の意を示したい。会場はほぼ満席で、質問も活発だった。大澤先生からも、‟とてもここちよく話すことができました“とのメールをいただいた。 ジュンク堂書店PR誌『書標』の依頼で、大澤先生のトークの次のようなレポートを書いた。
最近見た映画、「実録・連合赤軍」と「ノーカントリー」が「追う」というテーマにおいて示唆的です。前者は、追われるものが逮捕拘束されて終息し、後者は「追うこと」そのものが宙づりになる映画だからです。「実録・連合赤軍」では、絶対的な「正義」が「偽装」されるが、「ノーカントリー」では、無目的な殺人という「絶対悪」が捕捉されません。私の言う「理想の時代」と「不可能性の時代」という対照に、見事に充て嵌っています。 一見極めて「民主主義」的な「多文化主義」は、自ら否定せざるをえない「普遍性」の「空席」に「原理主義」に居座られる脆弱性を持ってしまうのです。 師見田宗介先生の議論を継承し、私は「交響圏」を結ぶ「公共圏」を構想しています。ワッツらのグラフ理論を援用したその構想を、私じしんは、結構有効なものだと思っています。
その最後の部分に、ぼくは特に共振したのだ。ぼくのこのコラムでも、「グラフ理論=六次の隔たり」について触れている(2005年第50回)。 「六次の隔たり」という言葉がある。1960年代、心理学者スタンレー・ミルグラムが、ランダムに手紙を送りつけながら、最終的に一人の友人に辿りつくように設定した実験で、ほとんどの手紙が六回前後の投函で目的の相手に届いた、世界は想像以上に「スモールワールド」だったというのが、「六次の隔たり」である。それを数学的に説明したのが、ワッツらのグラフ理論なのである。 他者とのつながりには、自ずから強いものと弱いものがある。強いつながりは「クラスター」を形成する。「友だちの友だちは、友だちである」場合が多いのだ。それは、文字通りひとつの「スモールワールド」を形成する。前回述べた「同窓会」などは、その典型かもしれない。 しかし、世界全体をスモールワールドにしているのは、それとは逆の「弱いつながり」だということを、「グラフ理論」は明らかにする。 “なぜこれが逆説的かというと、強い社会的絆はネットワークを一つにまとめるきわめて重要なリンクのように思えるからである。しかし、隔たり次数に関しては、強い絆は実際のところ、まったくといっていいくらい重要ではない。グラノヴェターがつづけて明らかにしたように、重要なリンクは人々の間の弱い絆のほうであり、特に彼が社会の「架け橋」と呼んだ絆なのである”(「複雑な世界、単純な法則」(マーク・ブキャナン著 草思社)P60)。 “「社会的世界の長距離の架け橋である弱い絆は、たとえごく小さな割合しか存在しなくても、隔たり次数に大きな影響をおよぼすのだ。さらに重要なことに、なぜ世界は狭いのかだけでなく、なぜわれわれがたえずそのことに驚きを覚えるのかについても、理由を明らかにしてくれる。結局のところ、長距離を結んでいる社会のショートカットは、世界を狭いものにしているにもかかわらず、ふだんの社会的暮らしのなかではほとんど気づくことがない。”(同P83) 「隔たり次数」を劇的に小さくするものが、「弱い絆」であるということ、そのことに、ぼくたちの仕事の意義を感じた。だからこそ第50回のコラムを“われわれはさまざまなネットワークを通じて、本を読者に届け、そのことで新たなネットワークの形成に寄与しているのだと思いたい。”と締めたのである。 今年10月、京阪電鉄の中之島線が開通する。われらが大阪本店からすぐの所に「渡辺橋駅」が出来る。徒歩数分である。考えてみれば、京都大学から直近の「出町柳駅」から、直通となる。例えば東京大学直近の「本郷三丁目」と「池袋」の距離と比べるとずいぶん遠いので、「弱い絆」かもしれないが、さまざまな意味でその「弱い絆」が、「隔たり次数」を劇的に減少させてくれることを、期待したい。大澤先生をようやく迎えられた今だからこそ、強くそう思う。 第79回(2008/7) 七月五日(土)、関西大学の竹内洋先生をお招きしてトークショーを開催することができた。ちくま新書の『社会学の名著30』をとても面白く読み、ちくま新書編集部の北村善洋氏に相談したところ、すぐに担当編集者が連絡してくれて快諾を得た企画だった。 竹内先生のトークの概略は、以下の通りである。 “『社会学の名著30』を書くに当たって私が意識したのは、私自身が面白く読んだ名著を、私がどう面白く読んだか、そしてそれを現代において読むことにどういう意味があるかを読者に伝えるということだ。そして、それぞれの名著の概略ではなく、私が面白いと思った箇所に絞って書いた。名著・古典というものは只者ではなく、その全体を簡略に概説することなど不可能だからだ。 かつて大学では、しきりに「解説書ではなく原典を読め。それも原語で。」と言われた。学部学生にそんなことをいきなり要求しても、無理に決まっている。だから、私は解説書を読むことは決して悪いことではないと思っている。そうしたものを通って、本当に興味を持てそうな「原典」を読めばよいのだ。 人間は、特に若い人たちは、さまざまな悩みを自分固有のものと決めつけがちである。だが、それは、それぞれの時代が抱える悩みのパターンの一例に過ぎない。そのことを明らかにする社会学を「癒し」と私が呼んだゆえんである。“ いつものように、二次会を設定した。“竹内先生の『教養主義の没落』はぼくの「座右の書」です。”と今回のトークを喜んでくれた入社二年目のスタッフが奔走してくれたその二次会には、同志社大学と京都大学で竹内先生が教えている院生を中心に15名ほどが集まった。 前回、“今年10月、京阪電鉄の中之島線が開通し、われらが大阪本店からすぐの所に「渡辺橋駅」が出来れば、京都大学から直近の「出町柳駅」から、直通となる。”といった「妄想」が、こうしたイヴェントを企画すればあながち「妄想」ではないな、と思った。 二次会で竹内先生はおっしゃった。「確かに今の大学生は、本を読まない。でも、今の大学院生をかつての大学生と思えば、それほど変わったわけではないし、ひょっとしたら、今が最悪であって、これから大学に入ってくる人たちはもっと本を読むかもしれない。『朝の読書』というのも定着しているみたいだし……。」 いみじくもその二日後、七月七日(月)に、ジュンク堂工藤社長の代理で芦屋市教育委員会の「第1回 子供読書の街づくり推進委員会」に出席した。教育現場で、「朝読」はかなり定着しているが、学校での「朝の読書」でしか本を読まない、学習塾通いに追われる子供も多く、家では勉強するか、テレビゲームにいそしむか、「朝の読書」が「本を読む」という習慣につながっていっていない例も多いと言う。「本なんか読んでいないで、勉強しなさい!」と言う親は、今でも多いらしい。 それに対して提唱されていたのが、「家読(うちどく)」である。家族で読書をする時間をつくるか、(父親の仕事などの関係で)それが難しければ、家族で同じ本を読んで、読書体験を共有しよう、というわけである。その一環として、「子ども読書本100選」の作成が計画される。(「読書本」というのも妙な言葉だが、「必読書」という表現には、やはり異論が唱えられた。) 「本なんか読んでいないで、勉強しなさい!」という「教育方針」には、異論がある。一方で、家族みんなで同じ本を読む、という「家読」にも違和感がある。子供のころぼくは、親父の書棚から本を抜き出して読み始めた経験を持つが、それは決して「家族で同じ本を読もう」という意識ではなく、むしろ「盗み読み」の快楽だったからだ。「そんな本はお前にはまだ早い。」と叱られるのを怖れながら、こっそりと読む、そこに最大の快楽があったからだ。 作家の今江祥智さんの次に発言を求められたぼくは、あとの方の違和感から話し始めた。 「水を差すようで申し訳ないのですが、『読ませたい本』というより『読ませたくない本』を選んだらいかがでしょうか?『これを読め』と言われるより、『これを読むな』と言われた方が読む気が起こります。子どもの頃のぼくもそうでした。」 そして、前々日の竹内先生のお話も引きながら、「本なんて読まずに勉強しなさい!」という「勉強」vs「読書」という二元論そのものがおかしい、一所懸命勉強して大学に行っても、「読書」という習慣がついていないと、大学では何もできない、一体何のために必死になって勉強したのか分からなくなる、という意味合いのことを語った。 委員会にとって建設的な意見ではなかったかもしれない。そこには、代理出席ゆえの気楽さがあったろう。「今日は工藤社長の代理ですから、あえて社長が言わないであろうことを言います。」実は「ですから」が成立しないこんな言葉で、ぼくは発言を始めたのだった。 第80回(2008/8) 『論座』(朝日新聞出版社)が、九月一日発売の「10月号」を最後に休刊されるという。ぼくにとっては、二重の意味で残念である。 一つには、もちろんぼくが『論座』の購読者・愛読者であったからである。それがいつだったか、何がきっかけだったかは覚えていないが、ぼくは、『世界』から『論座』に乗り換えた口だ。一時「〜を知るための十冊」というブックガイド欄があり、仙台店時代にミニフェアを組むのに重宝していたから、遅くとも98年には「乗り換え」ていた筈だ。 その頃、思想・心情が変わった訳ではない。情けないことに、(今では逆転したが)総ページ数が『論座』の方が少なかったことも理由の一つだったような気がする。だがもちろん、最大の理由は、コンテンツにあった。『論座』の方が若干バランス感覚に優れ、言い換えれば守備範囲が広いと感じたからだと思う。 『創』2008/9・ 10号に「『論座』休刊をめぐる朝日新聞社と言論界の実情」と題されて、編集長薬師寺克行氏へのインタビューが掲載されている。休刊の理由は、「部数の低迷」と「新しい媒体の模索」。よく聞く話だ。確かに薬師寺さんは「どうしても部数で『世界』に追いつけない」ことをボヤいていたし、凋落著しい雑誌>月刊誌>論壇誌という形態が、大きな赤字に目を瞑ってでもしがみつくべきメディアであるか否かは、畢竟発行者の判断に委ねられるしかなく、ぼくら小売が口をはさめる領分ではない。 それでもあえて「残念」と書くのは、『論座』がメディアとして決して閉塞したり沈滞していたわけではなかったからである。赤木智弘の「『丸山眞男』をひっぱたきたい」は、間違いなく広い範囲で議論を巻き起こした。赤木氏への多方面からの応答も誌上に載り、フリーターやワーキングプアの問題について考え、議論する重要な「座」となりえていたような気がする。 一方で歴代首相へのロングインタビュー、読売新聞社の渡辺恒雄氏との共闘宣言や、なぜ「正論」「諸君」が売れているのかに真っ向から立ち向かう特集など、朝日新聞社の雑誌としては異例な懐の深さを見せえたメディアであった、と言える。 「薬師寺:新聞とは違う言論機能を持った、しかも有識者とのネットワークもあるようなものが朝日新聞に必要だということに誰も異論はないです。でも、今の月刊誌という形がいいのかどうかについてはいろいろな意見があった。そして、会社として新しい形があるのではないかという考え方に達したということでしょう。」(『創』2008/9・10号 P108) 「会社として新しい形があるのではないか」、だったら、その「新しい形」とやらの展望を見せて欲しい。メディアって、そんなに簡単に新しく作り上げることができますか? 「幹部には『論座』の果たしてきた役割を説明しました。言論空間を作って、歴史問題にしても安全保障の問題にしてもいろいろやってきたというコンテンツの部分と、もう一つは、若い学者や文化人らを中心に人材を発掘しネットワークを作ってきたことです。」((『創』2008/9・10号 P110) 巻頭コラムの三本のうち二本が1975年生れの書き手に任されたり、中島岳志氏はじめ、所謂「ロストジェネレーション」の書き手が、先に挙げた赤木氏以外にも活躍できた場であったと思う。インターネット時代であればこそ、出版―書店業界はこぞって新しい書き手を育てなければいけない状況にある。そこにこそ、我らが業界のレゾン・デートルがあると言える。だからこそ、『論座』という「座」の撤退は、口惜しいのだ。 ぼく自身が、ささやかながら『論座』に寄稿・参画していたのが、『論座』休刊を残念に思うもう一つの理由である。 すでに愛読者であった『論座』との、書き手としての最初の出会いは、2003 年11月号、『ひとり出版社「岩田書院」の舞台裏』(無明舎出版)の書評を頼まれたことである。民俗学を中心にコツコツと学術書の出版を続けている岩田さんを、かねてより尊敬していたし、その思いを、「全国区」である愛読誌に寄せることができるのは、願ってもないことであり、身に余る光栄であった。 そんな縁もあって、2005年5月号「日本の言論」特集には、トークセッションに関する文章を寄稿する機会をいただけた。 編集部は、書店にも大きな関心を持って下さり、「やっぱり本屋が好き」(2005 年8月号)、「それでも本屋が好き!」(2007年4月号)という二度の特集では、裏方的な参画もさせていただいた。特に後者では、大型店、チェーン店ではなく、地方で頑張っているお店を是非広く紹介して下さい、と主張した。それは昔ながらの駅前、商店街の書店の衰亡が、見事に『文藝春秋』の売り上げ減と比例しているという話を、当の文藝春秋の役員から聞いたからでもあった。雑誌の範疇としては『論座』も他人事ではないでしょう、と。 出来た誌面は、満足のいくものだった。青田恵一さんと永江朗さんが対談で絶賛し、ご自身寄稿もされた和歌山県の山奥の小さな本屋さん「イハラ・ハートショップ」を一人で切り盛りされている井原万見子さんは、ぼくが大阪本店に赴任して早々ご来店下さり、大いに意気投合した。 その一つ前の号、「『人文書』の復興を!」特集に寄稿させていただけたのも、光栄だった。長らく人文書を扱い、愛読してきた経緯を振り返った上で、「人文書のレゾン・デートルは、〈オルタナティブ〉の提示だ!」と言い切れたことにも、満足している。
書籍編集に移られた元副編集長の高橋伸児さんが大阪本店に持ち込んで下さったのが、映画『実録・連合赤軍』をテーマとした若松孝二監督のトークイベントだった。今は他社に移られた岩ア清さんが担当されていた「勝見陽一が食べる…」の取材に、ご相伴させていただいたこともあった。 書き手、読み手、売り手を問わず、多くの人々が、『論座』という「座」で行き交ったことは間違いない。今はその休刊を惜しみながら、そしてその復活を望みながら、そのレゾン・デートルを訴えることしかぼくにはできない。『論座』を通じて交わりを持てた人たちが、とりわけ『論座』編集部の人たちが、『論座』での経験に誇りを持ち、新たなる出版活動に邁進されることを何よりも望みながら。 第81回(2008/10) 9月18、19日に神戸市の神戸学院大学ポートアイランドキャンパスで全国図書館大会が開かれ、ぼくは19日の分科会のパネリストとして招かれた。 ぼくの出番は午後のパネルディスカッションだったが、盟友にして「論敵」である湯浅俊彦氏(夙川学院短期大学)が基調講演をする朝一番から参加した。分科会のテーマが「図書館と出版流通のシステム化・デジタル化の現状と課題」であり、湯浅氏は博士論文でもある『日本の出版流通における書誌情報・物流情報のデジタル化とその歴史的意義』(ポット出版)に沿って話をされた。著書を拝読し、大阪本店でトークセッションもやったぼくとしては「復習」的な内容だったが、分科会のテーマには相応しい内容で、参加者も熱心に聞き入っていた。(また、お世辞ではなく、短大での講義のせいか、湯浅氏の語りは、更に磨きがかかっている。) 話はそれるが、図書館に勤める人たちの熱心さには、いつも驚き、敬意を覚える。今回の図書館大会にも、全国から多くの図書館員が集まっていた。三宮からポートライナーに乗り換えた瞬間に、同乗している多くの人が昨日から図書館大会のために神戸に来られている方だと確信できた。これまで、何度も図書館関連で講演に呼んでいただき、二次会などがあったりもして、意識が高く熱心な図書館員の方々に多く会ってきたからかもしれない。ぼくの確信に間違いはなく、多くが同じ駅で降りて、同じ方向に向かった。 湯浅氏の基調講演のあと、滋賀県高月町立図書館の明定(みょうじょう)義人氏、元川崎市立中原図書館の西野一夫氏が、図書館の現状を踏まえた発表を行った。 そして昼食を挟んだ午後、ぼくがパネリストの一人として参加するシンポジウム「出版流通のシステム化・デジタル化の中で図書館員の役割を再考する」が、みすず書房の持谷寿夫氏、文化女子大の瀬島健二郎氏の司会で行われた。パネリストは、創元社常務取締役営業部長加藤康雄氏、大阪屋営業部部長池田俊治氏、そしてぼくである。関西の出版社、取次、書店からそれぞれ一名ずつの出席であった。 最初のスピーチの持ち時間が20分だったので、特にレジュメ等も作成せず出たとこ勝負で参加した怠惰なぼくと違い、あとのお二人はきちんの年表資料を作成して、それぞれの立場から仕事の中でのシステム化・デジタル化について話された。お二人のお話を聞きながら、それぞれ紆余曲折はあれど、システム化・デジタル化については、やはり書店業界は最後であったことを再認識した(もちろん、それぞれの業態の特性があるから、そのことをもって即座に書店業界の怠慢であると思う訳ではない)。 ぼくは、書籍を販売するためのシステム化・デジタル化と、コンテンツそのもののシステム化・デジタル化を分けて考えるべきこと、その二つを混同しないことを改めて主張した。その上で、『広辞苑 第六版』の売れ行きにも触れながら、「カノン(典拠)」としての紙の書籍の存在意義を訴えたのである。 例えば、来年裁判員制度が始まったとき、参加した裁判員が紙の六法ではなくノートパソコンで法律を参照しようとする光景を想像してみて欲しい。さまざまな措置が取られ得、また現に取られていることは知っていても、原理的にコンテンツの書き換えが容易な媒体は、「カノン(典拠)」とするには余りに危うい。その点、紙に印刷されたコンテンツは、書き換えが困難であるというその不自由さにこそ、「カノン(典拠)」としての優位性がある。 あとは、「実験場」としての書店、「書庫」としての図書館という役割分担についての自論を語って制限時間を迎えた。 その会場にお見えになり、「時間を無視してもう少し喋ればよかったのに。」と言って下さった筑摩書房の菊池明郎社長、東京大学出版会営業部の橋元博樹氏とぼくがパネリストとなり、今回同様持谷氏が司会をつとめるパネルディスカッションが、10月23日(木)に、人文会主催で行われる。「人文会40周年記念東京合同研修会 人文書の可能性を探る」の一貫なのだが、このプロジェクトには、全国の人文書担当者100名以上が招待される予定だ。人文会の意気軒昂を寿ぎたい。 10月2日にそのパネルディスカッションの打ち合わせをしたが、ぼくが言ったのは、本という商品の大事さ、人文書を売る楽しさを、何とか若い人たちに伝えたい、ということだけだった。 それと、たまたま(というよりも白状すれば人文会のことも意識して)読んでいた『現代思想』2008年9月号(特集―大学の困難)を引き合いにしながら、大学と人文書の困難が通底していること、そこを打開していかなければならないことも話したいとも語った。 話は全国図書館大会に戻るが、ぼくにとって印象的だったのは、創元社の加藤さんが、最近の営業部員は、書店を説得するために、販売データの作成にばかり時間を取られて、商品そのものを読まないと嘆いていらっしゃったことだ。そうでないための、つまりはデータ作成の省力化のためのデジタル化だった筈が、逆に出ている。それは書店現場が要求していることでもあるという。となると、書店現場も同じ病弊を持っていることになる。 ぼくらの商材、つまり飯のタネは、あくまで書籍が運ぶコンテンツである。そのことを忘れぬこと、そして書籍を実際に読み勉強することによって、一人ひとりのスタッフが育つ場、書店がそんな場であることをぼくは望み、目指す。 第82回(2008/12) 2か月前のことで恐縮ですが、人文会全国研修のこと 10月23、24日と、「人文会40周年記念 東京合同研修会 人文書の未来を語る」が開催された。全国の人文書担当者100名強が招かれた。ジュンク堂書店からも20名参加させていただいた。心よりの謝意を表明したい。 何よりもよかったのが、現場で人文書を実際に触っている担当者ばかりが、書店の垣根を越えて、全国から集まってきたことだ。ライバルの存在を実感し、ライバルの頑張りを具体的に知り、「負けるものか」と互いに切磋琢磨することほど、書店人の意識・力量の向上につながるものはない、と信じるからだ。 というわけで、大阪本店店長であるぼくは、本来出る幕はなかった。当初、大阪本店からは、これまた人文書界(とりわけ歴史書懇話会)では顔の知れた岡村正純が代表して出席することになっていた。ところが、人文会代表幹事の春秋社鎌内宣行氏から、福嶋も来いという電話があった。「人文会の40年と人文書の可能性」というパネルディスカッションに参加せよというのである。 人文書の棚担当を外れてから10年以上経つ身としては「本当にいいの?」と思いながら、長年の人文会の皆さんとの繋がり、人文会発行『人文書のすすめ』への参画、更には『論座』はじめいろいろな媒体で人文書に拘り発言を続けてきたことを思い、参加させていただくことにした。 ぼくが参加したパネルディスカッションは第1部と銘打たれていたが、企画としてはその前に特別講演があった。縁とは不思議なものである。その講演の講師は、ジュンク堂大阪本店で7月にトークイベントをしていただいた竹内洋先生であったのだ。 竹内先生にトークイベントをお願いしたのは、4月に東京で会った筑摩書房の新書編集部にいる北村嘉洋氏にたまたま竹内先生著『社会学の名著30』を献本され、読んでとても面白かったからだ。筑摩書房は人文会会員社である(というより筑摩書房菊池社長は人文会会長である)。ジュンク堂大阪本店でのトークイベントでも、竹内先生のお話はとても面白いものであり、この人選はベストと思いながら、因果の不思議とは、やはりあるものなのだな、と思った。 竹内先生の講演は、『教養主義の没落と人文・社会科学』と題されて、相変わらずの軽妙な語り口で、会場の笑いも誘いながら、教養と教養主義の変遷と書物の関わりについてのものだった。「公論のための科学」の重要さと、そのための人文・社会書の重要さが印象に残った。 続いて、みすず書房持谷寿夫専務の司会で、ぼくたちのパネルディスカッションが始まった。皮切りで話された筑摩書房菊池明郎社長が、人文会の歩みについて語って下さったことをいいことに、「ぼくも、昔語りで」と、浅田彰氏の『構造と力』をはじめとした、80年代からの人文書の販売努力について話した。21世紀の人文書販売については、ぼくの後を受けた東京大学出版会の橋元博樹氏に委ねながら、「人文書のレゾン・デートルは、オルタナティヴ(世界の別のあり様)の提起にあります」ということは、しっかり主張させていただいた。 第2部「ケーススタディ 人文書の現在と未来」では、紀伊國屋書店新宿本店の吉田敏恵氏、大垣書店烏丸三条店の池田忠夫氏、喜久屋書店倉敷店の市岡陽子氏、あゆみブックス早稲田店の鈴木孝信氏が登壇し、人文会代表幹事鎌内氏の司会でそれぞれの現場での取り組みについて話された。 あとで、参加したジュンク堂のスタッフに聞くと、あゆみブックスの鈴木氏の辛口の内容に(すなわち仕事に対する真摯な態度に)、何よりの刺激を受けたようだった。 出版クラブでのレセプション後、宿泊するアルカディア市ヶ谷に場所を移した。 翌日9時30分から第3部「パネルディスカッション『人文書の最前線』」が始まり、小林浩(月曜社)、飯野勝己(平凡社)、磯千七美(筑摩書房)、山田秀樹(東京大学出版会)の各氏が登壇した。それぞれのお話は興味深いものだったが、飯野、磯両氏が新書編集部の方だったため、議論が「人文書」から少し離れ、ぼやけた感もあった。 そこで、休憩後の第4部「フリーディスカッション『人文書販売の未来をデザインする』の冒頭、第1部のパネルディスカッション以降はおとなしくしておこうと思っていたぼくが、やおら手を上げ、「折角来ていただいたのだから、月曜社の小林さんの現代思想についてのお話をもう少し聞きたい。」と言った。月曜社は人文会所属ではなく、小林氏は人文書についての、特に現代思想についての見識を買われてゲストで呼ばれていたので、約20分のパネリストとしての発言だけでは、もったいないと思ったのである。思いもよらず会場から、賛同の拍手をいただいた。おそらく氏の「ウラゲツブログ」を読んでいる人も少なからずいた会場の現場担当者の多くも、同じ思いだったのだろう。 小林氏は、改めて、「00年代」がこれからの人文書の可能性を支えるキーワードとなるという話をされた。「00年代」とは、21世紀になってから発言・著作を始めた世代の論者であり、所謂「就職氷河期」の世代とも重なる。 小林氏のこの示唆も、会場の人文書担当者の琴線に触れたらしく、そのテーマでフェアをやりたいという声が、色々な書店から上がってきたと聞く。小林氏の視座は、「オルタナティヴ」こそ人文書の生命線と主張するぼくのそれとも共振するから、とても嬉しいことだと思った。 全国の人文書の現場担当者を一同に会し、意見を述べ刺激し合う場を提供して下さった人文会に、改めてお礼を申し上げたい。本当にありがとうございました。全国から集まった彼ら、彼女らがつながり合いかつライバルとして切磋琢磨し合うことによって、書店現場がより魅力的な場となり、活性化されると思います。
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |