○第203回(2019/11)

 ジュンク堂書店難波店では、9月28日土曜日、池田浩士さんのトークイベントを開催した。9月は1日に斎藤幸平さんのトークを開催しているので、月初月末に、マルクス研究の新進気鋭とナチズム研究の大御所をお迎えできたことになる。

 トークのテーマ本は、池田浩士著『ボランティアとファシズム』。自由意志によって他者を助けるボランティアと、絶対的な統治者の命令に国民全体が従うファシズムは一見対極にあるが、実は非常に親和性があるという、興味深い本である。日本とドイツの歴史的事実を単丹念に辿り、その事実を分析する池田さんの洞察が、一見不思議な親和性を炙り出す。

偶然性こそ、人間の主体性を生み出す

 日本で、「ボランティア」という言葉が認識されるようになったのは、激動の時代として記憶される1968年前後のことで、“「全共闘」や「反戦青年委員会」の登場、さまざまな「地域闘争」や「住民運動」の昂揚を生んだあの時代が、また、自発性と社会貢献の行為であるボランティア活動を顕在化させた時代でもあった“(『ボランティアとファシズム』p15)と池田さんは書く。その一方で、池田さんは、関東大震災直後の「東京帝大セツルメント」を、日本のボランティアの嚆矢と見る。それは、震災時は南洋視察旅行からの帰路、八丈島あたりを航行していて、たまたま難を逃れた東京帝大生が、隅田川東側の震災被害が特に甚大であることに、社会に存在する歴然とした格差を思い知って始めた支援活動であった。

“大正デモクラシーの空気のなかで自己を形成してきたその学生たちは、大震災に遭遇したとき、多かれ少なかれ、社会批判的な思想、なかでもマルクス主義的な理念に触れる機会を、すでに持っていた“(p48)。

 それゆえに、東大生たちは、すべてを等し並に破壊尽くしたかに見える震災の悲惨さの中にも、なお格差を見出したのだ。

“彼らの自発的な活動のテーマは、他者に何かを恵み与えることだったのではなく、自分自身に課題を与えることだったのだ“(p63)。

 だから、池田さんは、次のように書く。

“人間は偶然によって弄ばれる存在であるということを意味するのではない。偶然によって、人間の主体性が発揮されるのである“(p39)。

 同じ状況は、阪神淡路大震災でも、東日本大震災でも、繰り返されたことをぼくたちは知っている。

 「偶然こそ、人間の主体性を生み出す」。トークイベントでも何度も繰り返された池田さんのこの言葉を、ぼくたちは深く噛み締めなければならない。科学技術の万能を夢想・妄想し、ぼくたちがそこで生きている環境さえ危機に陥らせている、そして、IT技術やAIが、いずれぼくたちの能力を完全に抜き去り、それらに依存して生きることこそ望ましいあり方だという言説が蔓延る今日的状況において。なぜなら、それら科学技術が依拠する論理は、どこまでも「必然」だからだ。

 だが、「主体性が発揮された」ボランティアの精神は、権力によってミスディレクトされていく。

“自然災害に遭遇したとき発揮されるボランティア精神と、戦争という人為的災害のなかで発揮されるボランティア精神とのあいだに、はたしてどんな違いがあるのだろうか?“その同じ精神は、国家の戦争にさいしても、大きな働きをしたのである“(p135)。

 「満蒙開拓団」は、五族の指導民族としての役割を担うという大きな使命が与えられた、自発性にもとづく、私利私欲のためではない社会貢献に身を投じるというボランティア行為とされ、参加した32万人を超える人びとも、そう自覚した。

 「東京帝大セツルメント」がその14年にわたる事業を閉じたのと同じ1938年、「集団的勤労作業運動実施に関する件」という通牒を受けて、文部省は学生生徒の勤労奉仕の実施を指示したのである。

二つのファシズム国家の「正義」

 こうした手法を、戦前日本の権力者たちは、やがて同盟を結ぶナチス・ドイツに習った。第一次世界大戦の巨額な賠償金のために脱出できそうにもない経済危機に追い込まれ、失業の危機に直面したドイツの人々は、指導者としてヒトラーを選び、ヒトラーのミスディレクトに従っていった。ヒトラーは、ブルーカラーとホワイトカラーの差別をなくすことを重要政策の一つに掲げて労働者たちの支持を獲得し、領土拡大、戦争突入によって失業率の(見かけ上の)低下を実現し、その権力を盤石なものにしていった。その裏で、ユダヤ人絶滅政策を企図、遂行していく。

“結束を固めるためには、誰もが犠牲を払わなければならないのだ。このことを繰り返し強調することで、国民たちの自発性を誘発する努力が重ねられた。だが、それは、自発性が強制に転じる道すじでもあったのである“(p229)。

“ドイツ国民は、その束縛を、喜々として受け入れたのである“(p238)。

 こうして戦前の日本とドイツという二つのファシズム国家は、国民の主体的なボランティアの精神を、短期間のうちに国家従属的な奉仕へと転換させた。

“むしろ、社会の下層やそれに近いところで生きる庶民たちが、自分たちの生命と生活を守るためと信じて、「兵隊さんは命がけ、私たちは襷がけ」を合言葉に、必死で、たすきどころかみずからの生命を投げ打って、戦争に挺身し、天皇に帰一したのである。左翼からの転向者たちの多くは、この民衆たちとー正確に言えば彼らの錯誤とー生死を共にしようとしたのだった“(p91)。

 こうしたプロセスが成立する理由を、池田さんは次のように書いている。

“とりわけ、無我夢中で一生懸命何かに打ち込んでいるときには、周囲の現実は目に入りません。しかも、自分は間違ったことをしていない、自分は正しい有意義な仕事をしているのだ、と無意識にであれ意識的にであれ確信しながら何かに没頭するとき、私たちは現実が見えなくなります“(p368)。

 トークイベントでも、池田さんは、くり返し、「自分が正しいと思って必死で行動している時には、周囲の状況が見えなくなる」と強調されていた。

 そうした池田さんの見立てに、ぼくは全面的に同意する。さまざまな状況下、ぼくもまた、反論や疑問に聞く耳を持たずに、自らの「正義」が主張される場面に直面してきたからだ。「『正義』ほど始末に悪いものは無い」と常々思い、時に口にしてきた。

誰のためにではなく、誰と共に生きたいか

 トークで、池田さんは、「誰のためにではなく、誰と共に自分は生きたいか?」が大切と言われた。東京帝大セツルメントでも、二度の大震災ほかの災害現場でも、もちろん初動の動力は「偶然が生み出した主体性」であったとしても、やがて主人公はボランティアではなく、被害者であることに気づかされる。

 そのことに気づかない国や大手メディアは、東京オリンピックでのボランティアの募集に精を出し、被災地でのボランティア不足をかこつ。そうしてボランティアに依存せねばならない国家、行政について、恥じることもない。国が必要としているから応募するボランテイアとは、ボランティアではなく、敢えて言えば徴兵と同質性を持つ。ここにも、今日の日本という国家の危うさ・キナ臭さが、感じられる。

 そもそも、平成5年から高校・専修学校で、平成10年から大学・高専・専門学校でもボランティアに単位を認定することが可能になった時にも、ぼくは大いに違和感を持った。単位という見返りを期待してのボランティアとは、言語矛盾ではないか、と。

 誤解してほしくはないが、ぼくはボランティアの意義を貶めるつもりは毛頭ない。池田さんも本書冒頭で、“私個人は、ボランティア活動やボランティア精神は人間にとってとても大切なものだと思っています“(p7)とはっきりと述べておられる。

 ただ、歴史が教えるところによれば、ボランティアに向かう心性は、純粋なものであればあるほど全体主義へ向かう心性と同調してしまう。ボランティアが大切なものであればこそ、権力がいかにその心性を利用しようとするかを、しかと見定めることが重要だと言いたいのだ。

 池田さんは、日本の近現代史において、災害という偶然がいかに貴重なボランティア精神を人々にもたらしたかを、見た。新自由主義によって民主主義そのものが脅かされている今日的状況は、まさに人災であると言える。その状況を救い得るボランティア精神が権力に取り込まれないようにすることが、今とても重要なイシューだと思うのである。


 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)『紙の本は、滅びない』(ポプラ社、2014年) 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)