○第206回(2020/3) 前回述べたように、永江朗は『私は本屋が好きでした』(太郎次郎社エディタス、2019年)の中でぼくの「書店=言論のアリーナ」論を高く評価、「わたしも福嶋の意見に心から賛同する」と書いてくれている。『私は――』を批判する言説の中にも、彼がぼくの『書店と民主主義――言論のアリーナのために』(人文書院、2016年)を「ヘイト本と書店との関係について述べた文章でもっともすぐれたもの」とまで評価している点を問題視したものは、管見では無い。 だがよく考えてみると、永江と永江を批判する人たちは、「ヘイト本」は無くすべきだという前提を共有している。「ヘイト本を店頭から外さない」理由を探し求め縷々言表するぼくは、彼ら双方の対極にいる、もっと言えば「敵対」している筈なのだ。いわばぼくは、2014年末に宗右衛門町で「アンチ・ヘイト」のイベントの会場(注)にあって、書店員であるぼくが占めていた完全にアウェイの立ち位置に、今度は自身の業界の中でも同じように立っているのである。 「敵対」ではなく、「討議=闘技」へ だが、本を扱う仕事をするぼくたちは、すぐに「同志」を見出すことが出来る。 『世界』2020年1月号に掲載された「批判なき時代の民主主義」で、山本圭が“「ネット右翼」に「非合理」のレッテルを貼り、対話から排除するようなリベラルの態度は、ヘゲモニー戦略の上では得策ではない”と書いているのを読み、「そう、そういうことなのだ」と一人頷いた。山本がいう通り、“現代社会で困難になっているのは、相手を正統な対抗者とみなしたうえで批判を戦わせるアゴニズム(討議)”なのである。その討議=闘技を(血を見ることなく)成立させる場こそ、ぼくがいう「言論のアリーナ」としての書店なのだ。 アゴニズム(闘技)の代わりに現在優勢になっているのは、アンタゴニズム(敵対性)である。山本は、「アンタゴニズムをアゴニズムの形式へ昇華すること;アンタゴニズムを、民主的な課題と認識し、眼前の敵対的な諸要求を迂回することなく、むしろそれに正面から向き合い、民主主義を深化する好機にする政治戦略」を目指す。 その戦略的方向性に、「ヘイト本を排除せず、ヘイト本の存在を隠さず、批判的見解も明らかにすること」という自分の姿勢と同質なものを認めたぼくは、論文の最後に『アンタゴニズムス――ポピュリズム〈以後〉の民主主義』(共和国、2020年)という山本の単著が近刊予定であるという告知を見て、昨年6月29日のトークイベント「反緊縮と左派ポピュリズムから考える、これからの政治と経済」にゲストの一人として登壇してくれていた山本に、「批判なき時代の民主主義」への大きな賛意とともに『アンタゴニズムス』刊行記念トークの打診メールを送った。山本はすぐにOKしてくれ、斎藤幸平という絶好の「対抗者」を得て、国レベルのイベント自粛要請の中、2月28日にトーク「共和国『アンタゴニズムス』刊行記念 ポピュリズムか、社会運動か 民主主義と私達のこれから」の開催を実現できた。 山本は、「眼前の敵対的な諸要求に鼻をつまんでそれらを迂回するのではなく、むしろそれらに正面から向き合い、民主主義を深化するための一箇の好機とする政治戦略」を「合意と参加」がという支配的なディスコースに対して、エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフが描いた画期的なものと評する。(『アンタゴニズムス』P17) 彼らの民主主義とは、いかに敵対する政治姿勢、言説に対しても、それを拒否するのではなく、討議=闘技の場に持ち込んで対峙することなのだ。 ムフは、言う。 “重要なことは抗争が生じたとして、それが「敵対性アンタゴニズム」(敵同士の闘争)ではなく、「闘技アゴニズム」(対抗者同士の闘争)という形式をとることである”(『左派ポピュリズムの為に』P120)。
“じつのところ、根本的な問題は、いかにして排除なしにコンセンサスに到達できるかということではない。というのも、これは、「私たち」の構築を求めるにもかかわらず、それに付随して生じる「彼ら」の存在を視野に入れていないからだ。これが不可能であるのは、「私たち」の構成条件が「彼ら」との区別であるほかないからである”(同P120)。 「私たち」は、「彼ら」あっての「私たち」なのだ。 山本も、次のように書く。 “私たちのアイデンティティは敵対する相手によって阻害されているのだが、そのアイデンティティはそうした外部なしには成立しないということだ”(『アンタゴニズムス』P14)。 こうした見方は、ハンス=ケルゼンが挙げた、次のような原則に通底すると言える。 “多数決原理は、まさにこの階級支配を阻止するためにこそ適している。そのことは、この原理が経験上少数者保護と親和的であることにすでに示されている。なぜなら、多数派ということは概念上少数派の存在を前提としており、それゆえ多数派の権利は少数派の存在権を前提としているからである”(『民主主義の本質と価値』(岩波文庫)P73)。 ポリフォニックなアゴニズムにとどまる だが、『左派ポピュリズムのために』におけるムフの議論は、そのタイトルからも、多様な意見を戦わせる「アゴニズム」から、「左派ポピュリズム」即ち「左派」が政治的優位を獲得するためにいかに大衆動員を可能にするかにシフトしているようにも感じられる。 “多元主義的な民主社会は、多元主義を調和させるような反−政治的な形式によっては構想できず、絶え間ない敵対性の可能性を承認する。そして、そのような社会は、代表なしには存在しえないのだ”(『左派ポピュリズムの為に』P80)。 “現行の代表制度のおもな問題は、それが異なる社会的プロジェクトのあいだの闘技的な対立を認めないことである。この闘技的な対立こそ、活力あるデモクラシーの条件そのものなのだ。市民から声を奪っているのは、代表という事実ではなく、闘技的な対立の欠如にほかならない”(同P80)。 ここで、注目すべきは、ムフが「代表」が重要であり、「代表」が問題ではないことを重ねて主張していることである。 人々の意見が「代表」に収斂されると、抽象され、平準化される。下手をすると「代表」は、誰を代表しているのかわからなくなる危険を伴う。にもかかわらず、「アゴニズム」の重要性をあれだけ主張していたムフが、「代表」を擁護するのは、21世紀に入って、ネオコン、ネオリベ、排外主義者、民族主義者の勢いが増し、左派を追い込んでいった状況を反映しているのかもしれない。その状況に、ジェレミー・コービン、バーニー・サンダースらの固有名のポピュリズムを対抗させるためかもしれない。 山本も、その状況判断は共有している。 “本書のテーゼのひとつは、現代民主主義の差し迫った問題は熟議でも闘技でもなく、それよりはるか手前の敵対性(アンタゴニズム)である、というものだ。私たちの現実は、一般にアゴニズムの理論家が唱える楽観とは逆向きの方向に進んでいる”(『アンタゴニズムス』P12 )。 だが山本は、すぐに反転して、再び「アゴニズム」に向かう。 “本章ではアゴニズムを、ラディカルな敵対性への感度を担保すると同時に最小限の制度化を受け入れる、ポスト基礎付け主義の民主主義論として再定式化する。これにより、しばしば中途半端なものとしてみなされたアゴニズムの理論に適切な居場所を開いてやることができるかもしれない。これこそが私たちの最後の挑戦となる”(同P22)。 ムフの「アゴニズム」から「左派ポピュリズム」へのシフトは、それを促したと思われる状況(極右の台頭)から言って、再び「左/右」の二極分化を招来する傾向を否めない。二極分化は、両極間の断絶、対話=議論=闘技の不在を伴いがちになる。それに対して、山本はあくまで「アゴニズム」にとどまり、主張の多様性を尊重し、それらの間の闘技の場を確保することに、民主主義の可能性を見出しているのだと思う。そして、ぼくはその方向性に賛同する。なぜなら、書店現場は、1対1の決闘の場ではなく、ポリフォニックなバトルロイアルのアリーナであるからだ。 「保守」に翻意はあり得るか? 「アゴニズム」と対極にある「熟議民主主義」も、自らの「正義」を前提として、「熟議」できる集団と、そうでない集団を線引きして、二極分化に陥ってしまう傾向を防げない。 “ハーバーマスは、「右派ポピュリストの議論に打ち勝つには、彼らの介入を無視するしかない」と、およそ熟議的でない回答をしている”(同P221)。 ここに、「熟議民主主義」の限界がある。自らの主張と相容れない主張に対して、「熟議民主主義」は議論ではなく排除を選ぶのである。 それに対して、「アゴニズム」は、いかに自身の主張と相反する主張であっても、討議=闘技の対手として認める、むしろ積極的に討議=闘技の場に迎え入れるのであるのである。そのことのメリットは何か? それは、相手を討議=闘技のアゴーンに迎え入れることによって、相手に主張を翻意させる可能性である。相手の主張に耳を傾けようとはしない「アンタゴニズム(敵対性)」では、それは全く不可能なことだ。 おそらく、自身「アンタゴニズム」の中にいる「左派」には、「保守」が主張を翻意することなどが可能だとは、信じられないかもしれない。 だが、例えば、『女性たちの保守運動』(人文書院、2019年)で鈴木彩加が2000年代以降の「行動する保守」(街頭宣伝などでヘイトスピーチを繰り広げる。「在特会」なども、これに属する)に連なる女性たちの「保守運動」を調査・考察している鈴木彩加は、翻意の可能性を十分認めていると思われる。 鈴木は、「行動する保守」の“女性たちがフェミニズム運動に反対することの意味はより詳細に考察する必要がある”(P22)と、彼女たちの言説を読み、実際の活動現場に随伴し、その意味を探ろうとする。 「行動する保守」の女性たちが、特に批判のターゲットにするのは、「慰安婦」問題と「男女共同参画社会」である。むしろ女性の立場に立つと思われるこれらに、なぜ彼女たちは「街頭で声を荒げて」反対するのか? (次回に続く)
(注)トークライブハウス「ロフトプラスワンウエスト」で開催された「日本の出版業界どないやねん!? 物書きと出版社出て来いや! スペシャル」と題された「凡どどラジオ」の公開中継である。このイベントは、ぼんとどぅーどぅるという「在日」の二人がパーソナリティをつとめるインターネットラジオ「凡どどラジオ」の公開中継として催され、ゲストとして「在特会」に取材した『ネットと愛国』(講談社)の著者安田浩一氏と、『NOヘイト! 出版社の製造者責任を考える』を刊行した出版社ころからの木瀬貴吉氏が登壇した。ぼくは、観客として会場にいたが、中入り後に指名されて発言した。発言後に木瀬氏が「書店の人がこういうアウェイの場所に来て発言してくれて感謝します」と言われたのが、軽いショックとともに、印象に残った。(詳しくは、『書店と民主主義』(人文書院 2015年)P32〜)
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |