○第207回(2020/4) 「行動する保守」の女性たちの論理 鈴木彩香の『女性たちの保守運動』(人文書院、2019年)が考察する「行動する保守」の女性たちが「慰安婦」問題と「男女共同参画社会」を批判のターゲットにするのには、外的要因がある。それは、その2つの案件が、「いずれも男性活動家にとっては正面から批判しにくい」(『女性たちの保守運動』P302)ものであることだ。女性の社会進出を阻んだのは主に男性本位の価値観であり、「慰安婦」への「加害者」も男性だからだ。そうした「行動する保守」の男性活動家の事情によって、女性たちは、この2つの問題において前面に押し出されたと言える。 もちろん、女性の側にも「慰安婦」に対して批判を浴びせる主体的動機はある。そこから生まれる言論は、元「慰安婦」女性が経済的に恵まれていると考え、それを妬むというものである。 「なぜ売春婦だった慰安婦女性だけが政府や組織からサポートされるのか」(同P262)。その種の言論は、「売春婦」差別に基づいたものが多く、「恥」という言葉が多用される(同P251-2)。 一方、「慰安婦」本人を直接の攻撃目標にしない言論も、ある。 “慰安婦を連れてきて恥を撒き散らさせるのも、それこそ慰安婦の人権を無視して踏みにじっていることになると思います。私たちは女性として、そういう慰安婦の人権を無視する日本人、そして韓国の人たちを許しません。女性として許せないんです”(同P254)。 ここでは、「慰安婦」問題を言挙げする日本人、韓国人たちが批判のターゲットになり、「人権」という言葉も使って「慰安婦」の人たちには、むしろ同情・共感していると言える。 一方、”「汚らわしい売春ババア」「ふしだらで、けしからん集会」と男性参加者によるこれらの言論は攻撃的であり、在日コリアンに向けられるヘイト・スピーチと酷似している”(同P251)。同じ「行動する保守」の活動家でも、批判の仕方に明らかな男女差があるのだ。 鈴木は、「行動する保守」系の団体「B会」でのフィールドワークで遭遇した、ある場面を報告している。 ”Hさんが元慰安婦のハルモニの証言集会に行ったと発言した。すると、会長はすぐさま「ハルモニ? 慰安婦の? うそばっかだったでしょう?」と質問した。ところがHさんは「全部が嘘というよりかは基本は本当で、それを少し脚色した感じでした」と答えた。Hさんは当初、「慰安婦」に否定的な感情を持って集会に参加したようだが、証言を聞くうちに一部共感したような印象を受けた。他の参加者はHさんの話を黙って聞き、しばらく誰もしゃべらなかった。”(同P287) また、男性活動家は「慰安婦」を盛んにジョークのネタ、からかう対象にするが、女性はそれに乗っていかない、という。それは、”自分たち自身も性の客体になりうる存在であり、「高齢の女性」になるという事実を、彼女たちが認識しているため”(同P299)だと分析する。 さらに、もう一方の「妬みによる攻撃的な言論」にも、男女間の温度差はある。女性たちの妬みの根底にある論理は、”性産業に従事しているか否かにかかわらず、女性は性暴力被害に遭えば、社会からスティグマを押され、救済されることはほとんどないにもかかわらず、「なぜ売春婦だった慰安婦女性だけが政府や組織からサポートされるのか」”というものだからである(同P262)。 そうした観点に立つとき、女性が「男女共同参画社会」に反対する論拠も男性優位の思想ではなく、「私的領域で女性が担うケア労働に対する評価の低さに対する異議申し立てとして読み替えられないだろうか」と鈴木は仮説を立てる。そして、もしそうであるならば、「対立関係にあると考えられてきたフェミニズムの議論にも実は接続可能なものではないだろうか」と(同P169)。 だとすれば、反「男女共同参画社会」、反「慰安婦問題」についての「行動する保守」の議論が加熱すれば加熱するほど、男性活動家と女性活動家の問題意識の差が浮かび上がってきて、そこに亀裂をもたらす杭を打ち込むことも出来るのではないだろうか? 嫉妬の感情――アゴニズムと保守フェミニズムの接点 そうなればそれこそ、前回のコラムの最後の部分で「アゴニズム」のメリットとして想定した、「相手を討議=闘技のアゴーンに迎え入れる事によって、相手に主張を翻意させる可能性」なのである。 ここで、再び『アンタゴニズムス――ポピュリズム〈以後〉の民主主義』(山本圭著、共和国、2020年)に戻る。この帰還を橋渡ししてくれるのは、「行動する保守」の女性たちの強い動機の一つである「妬み」である。 山本圭は、「これまでざっくりと「情念」や「情動」一般として語られることの多かった「感情の政治学」を、より具体的な次元で検討する」ために、「嫉妬」の問題系を取り上げる(『アンタゴニズムス』P98)。それは、「嫉妬」がさまざまな感情の中でも特別な感情であり、一方、政治を考えるときに注視すべき感情だからだ。 ジョン・スチュアート・ミルは、嫉妬を「すべての激情の中で最も反社会的なまた最も忌まわしい感情」とし、その影響を受けた福澤諭吉も「凡そ人間に不徳の箇条多しと雖も、その交際に害あるものは怨望より大なるものはない」と厳しく非難している(『学問のすすめ』第十三編)。 “福澤はここで、いっけん不徳とされるものもまた、その強度とその動きが向かう方向によっては徳になりうる(貪吝/節倹、誹謗/弁駁)ことを説いているが、「怨望」だけは(福澤のいう)両義性の法則にしたがわないという。それは正真正銘の悪徳、「衆愚ノ母」、「人間最大の禍」であるほかない”(『アンタゴニズムス』P102)。 福澤によれば有害無益な「嫉妬(=怨望)」を、ロールズも当初、その正義構想から排除していた。彼の正義構想において、「原初状態にある人々は一貫して合理的であり、特定の心理的成功に惑わされることはない」からだ。だが、そんなロールズも、「嫉み」の存在感、そして「非合理」でない「嫉み」があることを認めざるを得ず、『正義論』の2節を割いて、この感情を無害にしようと躍起になる(同P106-7)。 一方、フロイトは、「社会的公正及び平等の観念が嫉妬に基づいている」と洞察している。この洞察は、「正義を中心に構成された現代の政治哲学を不安にさせるものだろう」(同P106)と山本は言う。 山本のこの整理は、極めて重要なことを示唆しているように思われる。それは、人間の感情を無視して政治を論じ構想することは出来ないということ、とりわけ「嫉妬」という感情が政治を動かす働きを、決して無視できないということである。 “アリストテレスが指摘していたように、嫉妬が比較可能なもののあいだに生じるとすると、格差が狭まれば狭まるほど、相手の存在が手の届くほどに近づけば近づくほど、彼/彼女との埋まりきらない差異がますます耐え難いものとして現れるのではないだろうか”(同P114)。 ”嫉妬は等しい者同士のあいだに生じるものだが、同時にそこには最小限のちがいが求められることに注意しよう。嫉妬は平等と差異の絶妙なヴァランスのうえに成立する感情なのである。そしてほかならぬ平等と差異こそ、私たちの民主主義に不可欠な構成要素であるとすれば、嫉妬が民主的な社会において不可避であることが理解できる。ひっくり返していえば、嫉妬のない社会とは、人々のあいだに差異のない完全に同質的な社会であるか、絶対的な差異のもとでいっさいの比較を許さない全近代的な社会であるかのいずれかであろう”(同P118)。 「嫉妬」は、とても厄介な御しがたい感情であるが、同時に「民主的な社会において不可避」な感情なのである。そしてそれは、「最小限のちがい」がある「等しい者同士のあいだ生じる」感情なのである。 思えば、日本で「嫌韓」感情が吹き出していったのは、1980年代後半の民主化獲得の後、韓国経済が急速に伸びていった時代である。それは、日本人にとって自らの高度経済成長の時代を彷彿させる時代だったかもしれない。「韓流」という言葉が生まれ、韓国の芸能・音楽が受け入れられ、そのスターに多くの日本人が歓声を上げるようになった。 並行して、中国もまた、1989年「天安門事件」の危機を乗り越え、経済大国へと発展していった。 二国が日本に追いつき追い越した時代に生まれたの「嫌韓」「嫌中」感情を、「嫉妬」という範疇に含めても、見当違いではないだろう。 だとしたら、逆に、その感情は、「討議」「対話」が成り立つ可能性の源ではないだろうか。そうした感情に蓋をし、目を閉ざすのではなく、近隣国の人びとと、胸襟を開き、言葉を交わし理解し合う出発点となりうるのではないだろうか。 そして、日本の「ヘイト派」と「アンチ・ヘイト派」もまた、「嫉妬」という感情に向き合いながら、「この感情を無害に」すべく同じ「アゴーン」の舞台に上がるべきではないだろうか。 (次回に続く)
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福嶋 聡 (ふくしま
・あきら) |