○第84回(2009/6)

村上春樹久々の書き下ろし作品「1Q84:BOOK1」が、発売二日目の昼下がりにジュンク堂大阪本店で完売となった時、アマゾンのマーケットプレイスを見ると、2889円から2900円前後で、「出品」されていた。恐らくは発売と同時に書店で購入したものだから、読んでいようがいまいが、転売する時には(発売二日目の新刊でも)「古書」になる。「古書」の市場では、売値は出品者が設定できる。「1Q84:BOOK1」は税込1890円だから、売れれば1000円ばかりの小遣い稼ぎになる。もちろん重版予定はあるのだが、すでに全国の書店で品薄である。すぐに欲しい人は、1000円上乗せしても買うかもしれない。

「熱狂的な村上ファンが、発売と同時に購入、すぐに読み切って一人でも多くの人と感動を分かち合いたい」から「出品」したわけでは、もちろん無い。「出品」された「古書」は、すべて「未読」を売りにしている。このコラムで前回(といっても半年も前になってしまいました。申し訳ありません。)取り上げた「せどらー」たちが、暗躍しているのである。

「せどらー」のもう一つの商売の場、ヤフーオークションでは、同時発売の「BOOK2」とセットで3300円の値がついていた。こちらは、まだ「定価超え」はしていない。開始時(5月28日21時44分)も1000円である。だが、オークションだから、時がたつにつれて値がつりあがる可能性はある(現に夜見たら、3500円になっていた)。終了は6月5日0時40分である。全国書店で在庫が底をつけば、かなりの値段がつく可能性もある。

村上作品としても異例の初動を見せたこの商品は、発売してすぐに、本年上期のベスト5に入ったと報道された。新潮社も、今回は初版部数をかなり奮発し、重版もすぐにかかり、追加補充も届くには届いたが、追いつかない。店頭に並べたら、またたく間に売り切れて行く。

発売1週間目(6/3)夜のマーケットプレイスでは、高騰はしてないまでも、やはり2800円前後の「古書」が並び、「BOOK2」と併せて2冊セットだと、5000円以上の値がついていた。

ヤフーオークションの方も入札価格はそれほど伸びていない。後から出てきたものは、2冊3000円と、「原価割れ」している(既読の「古書」であるなら、それが通常である)。

「せどらー」たちにとっては、当てが外れた、というところか。否。彼らには、そのことは想定内であったろう。一時品切れ期間があったとしても、次々に重版があがり店頭に並べば、定価以上で「古書」を買う必要はない。
それでも、発売から日が経ち、出版社が重版を抑えるようになったとき、商品が市場の中で一部書店に偏在していれば、再び「せどらー」たちの「古書」が注目されるかもしれない。新刊本を買い、「定価超え」で売ることができれば、「せどらー」たちはその差額を利益として得ることになるだろう。

特に村上作品が好きでもないのに品薄を見込んで利鞘を狙う「せどらー」たちを、批判的に見る向きも多いようだ。「再販制度」に守られ、全国どこでも同一定価で販売されるべき本を、儲けを上乗せして転売するなど、「けしからん!」ということであろうか。

だが、ちょっと待って欲しい。商品を仕入れ、転売することによって利益を得るのは、普通の商行為である。その価格で需要があると踏めばこそ、「せどらー」たちは、「定価(=再販価格)」に自らの利益を上乗せした価格設定で出品する。実際にライバルはいるし、もしそうでなくても、余りに高く価格設定しては、買い手はつくまい。彼らの商行為は、あくまで「市場原理」に従っていると言っていいだろう。

このことは、通常、本という商材では起こりにくい。複製が容易で、需要があれば「重版」という形で供給が行われるような商材は、「稀少材」ではなく、「市場原理」が働かないからである。それでも、今回の村上作品のように、瞬間的にでも「稀少」となった場合に、珍しく普通の商行為のように「市場原理」が働くこともある、と理解するべきなのかもしれない。そのような「市場原理」がめったに働かない本の業界こそ、商行為としては例外、と知るべきであるのかも。

通常の商行為では当たり前であるが本を扱う業界ではむしろ例外的なことで、「せどらー」たちが行っているもうひとつのことは、リスクを取ることである。書店業界では、委託販売が中心で、売れ残りのリスクを取ることは少ない。一方、「せどらー」たちは、あきらかにリスクを取っている。複製が容易で、需要があれば「重版」という形で供給が行われる本が、新刊市場に潤沢にあれば、利鞘や送料を上乗せして売られる「古書」を買う人は、まずいない。何らかの原因で、出品した本が、入手しづらい状況となることが商売の前提とも思える。その状況を、もちろん「せどらー」自身が左右できるわけではない。そして、そのような状況が生じることなく、出品した「古書」が売れ残ったとしても、買った書店に返品するわけにもいくまい。彼らは、確約されていない1000円の利益のために、1890円のリスクを取っていると言える。

「リスクを取る」、本の業界ではこれまで例外的であったそのことこそ、今必要なことなのではないか?少なくともその覚悟抜きに、今や喫緊の課題として議論されている「責任販売制」や「時限再販」「部分再販」などの新しい流通形態が、軌道に乗る筈はない。

今や閉塞感が蔓延する出版・書店業界が、彼らに学ぶ、少なくとも彼らの商行為からみずからのあり方を見つめ直す必要はあると思う。(そして、彼らに学び、「責任販売制」などの流通形態の柔軟化が商品の偏在を解消することになれば、結果的に「せどらー」たちの生息地を奪うことになるだろう。)

「せどらー」たちの「逸脱」が、特に出版・書店業界を潤し支える村上春樹の新作で起こっていること、そして業界では当然のこととして行われている委託制が、その「逸脱」の余地(ニッチ)を生む原因となっていること、それを単に「皮肉なことに」ですますのではなく、出版・書店業界そのものの、そしてそれが抱える問題の本質を浮かび上がらせていることを見てとるべきなのだ。一般的な商行為が一見「逸脱した行為」と思われるほど、逆にこの業界自身が逸脱しているといえるのだということを、「せどらー」たちは、教えてくれているのである。(但し、ぼくは本の業界の「逸脱」を経済原理の観点から改めるべきと思っているわけではない。『希望の書店論』ほか、これまで上梓した著書を読んでいただければ分かるように、ぼくは基本的には委託制、再販制の擁護派である。その立場は、今でも変わらない。)


さて、この欄で2回に亘って「せどらー」について書いた。いわば本を商う業界にとって「鬼子」のような存在が、結果的にわれわれの業界の本質と課題を逆照射する結果となっていて、そのことから学ぶことが、今最も大事だということ、それが結論である。

その間、「グーグル全文検索」など、本の存在理由、出版、書店という生業そのものを揺るがす状況が、特にインターネット環境の変化・進展と共に我々を取り囲んでいる。そこでも大事なことは、「外敵」に学ぶことである。そのことによって、われわれの業界の本質と課題を見極め、生き延びる道を見い出すことである。

その為に必要なのは、まず問題を腑分け、整理することだろう。ことの本質を、冷静に、正確にとらえることだろう(たとえば、「グーグル全文検索」に反対するのに「著作権」を盾にする向きが多いが、そもそも「著作権」とは何か―少なくともフランス革命期に基本的人権には含まれていない―、それによって守られているのは誰なのか、歴史的経緯を含めて、今一度整理する必要がある)。

ぼく自身、これからも本を巡る今の状況を整理し発言していきたいと思っている。と同時に、そのためにはいささか準備が必要かとも、感じている。
 

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)