○第87回(2009/10)

 それまでキャーキャーと呼び声でコミュニケートしていた人類が、系統だった言葉を生み出し話すようになったのは「五万年」ほど前のことらしい。その人類が音声を文字化することで、情報伝達の時間的、空間的制約をのりこえる技術を見出したのは「五〇〇〇年」前のシュメール文明の時代である。さらにその文字を機械的に複製することで、情報の大量伝達を可能にしたのが「五〇〇年」前の活版印刷術発明であった。

『パピルスが伝えた文明 ギリシア・ローマの本屋たち』出版ニュース社2002)で、ことばによるコミュニケーションの変遷を、箕輪成男はこう概括する(81)。本という形態(メディア)の成立、そして本屋という生業の成立もまたその変遷と相似形をなし、ギリシア・ローマの時代に「本屋」が現れたのは、まず劇場であり朗読会場であったことを本書は教えている。

先ず新しい作品は、最初は友人仲間に、そして後には一般聴衆に向って、著者が朗読することによって発表される。既に述べた朗読会だ。そうした朗読は、著者と公衆を結ぶ、最も直接的な接触であり、著者にとって大変重要な刺激となる可能性をもっていた。作品の成功度をはかる一種の文学的バロメーターといってよい。151

 こうして作者のために働く写学生が、作者の後述原稿を筆記するだけでなく、筆者が配ったり、売るために何冊もの複本を制作したことはいうまでもない。次にはそうして、貰うなり買うなりして手にいれた人からそのコピーを借りて、第三者が自分の奴隷写学生あるいは商業的な写本屋に複製させることができた。ここまでくれば、販売目的でみずからコストを負担し、一定部数の見込み生産をする出版者の誕生までは一歩である。彼は朗読会での聴衆の反応を横目に売れる部数の見込を立てるのだ。153

無理を承知で今日と重ね合わせるならば、ブログやWebマガジン、メールマガジンの評判を聞きつけ、アクセス数等をバロメーターとして書物刊行を企図する出版者とパラレルな状況と言うべきだろうか。しかし、古代での上演や朗読はそのままでは文字通り「霧散」してしまい、本という形態(メディア)に文字を使って「固定」しなければ、保存も流通も叶わない一方、ネット上のコンテンツはそのままで「保存」され、いつでも誰でもアクセスできる。だとすれば、古代と今日が共有しているのは、「売れる部数の見込を立てる」そのこと、即ちコンテンツそのものの価値を見極めることである。本の製作と流通に、「目利き」が先行してあり、本という形態(メディア)そのものが、コンテンツの「格付け」となっていると言えるのではないだろうか。そうした「目利き」「格付け」に始まり、コンテンツを選び並べる、そして整備していく作業、「読者」(=本の購入者、享受者)に向けてなされるそうした一連の作業が「編集」と呼ばれるものであり、それこそ本という形態(メディア)の持つ付加価値であり、存在理由(レゾンデートル)なのではないか。

一方、粘土板や写本であれ、印刷本であれ、出版物とは複製品(コピー)であるから、「正確さ」が重要なファクターとなる。

古代において“著者への金銭的報酬は重要ではなかった。著者の多くは、有力者や金に困らぬ学者であったからだ。むしろ著者にとって願わしかったのは、自著が誤りない正確な形で流通することであった。”と、箕輪は言う。“しかし写本出版の現実は理想的には進まず、多くの紛らわしい写本が溢れることになった。だからアレクサンドリアのムセイオンに見るような校訂の作業によって、本文を確定することが大きな学問的作業になったのである。後に活版印刷が発明された背景を、我々は単純に大部数印刷による廉価性の追求と考え易いが、その大きな意味は本文の確立によって、学問上の議論が可能になったことである、とアイゼンシュタインが喝破している。”(P218

だが一方、出版後に著者が手を入れることもままあるように、何をもって「正確」とするか、これも難しい問題である。英文学研究者であり学術版全集の編集に携わるピーター・シリングスバーグ『グーテンベルクからグーグルへ』慶應義塾大学出版会 2009)を読むと、多くの異本を照合し、テキストを確定して「定本」をつくる作業がいかに大変で困難なものであるかを思い知らされる。

筆写時の間違いはさまざまな写本のコンテンツに多様性(バラエティ)を与えたであろうし、活版印刷が始まった後でも版による違いや異本の存在は珍しいことではない。「正確」に伝達すべき「オリジナル」がどの時点のものかを確定することは、容易なことではない。

テキスト伝達をめぐる作業の大部分においては、そこに関わる人々(秘書や編集者や植字職人)は、まずテキストを解釈し、何らかの形で理解しなければならない、そうすることによって初めて、製品化されるべき新しい形へ向けてテキストを再構成し、伝達することができるのだから。したがって、これは機械的なプロセスではなく、精神が関わっているのだ。だから製作にかかわる人々は、まず受容行為を行う読者として行動し、その後で新しい形を生成し創造する行為者となるわけだ。”(『グーテンベルクからグーグルへ』102

シリングスバークは、“現代では、テキストはさまざまな視点とさまざまな使用法に答えなければならないのだから、すべての目的について他のいかなるテキストよりも重要であると主張しうるテキストなど、本質的には存在しない。したがって、最終的な(ゴール)テキストとして全員が納得できるような、唯一の版としてのテキストもない。”(P109)と言い切る。自ら学術版全集の編集に情熱を以て取り組んできたにもかかわらず…、否だからこそと言うべきかもしれない。

それでも、いかに困難が伴おうと、或いは困難が大きければ大きいほど、「定本」というテキストの形態(メディア)は、固く揺るぎないテキストの乗り物(ヴィーグル)としての冊子体(=印刷本)に相応しいと考えられる。原理的に容易に変更可能なディスプレイ上の文字と違って印刷された文字の変更・改竄が困難な冊子体にこそ、コンテンツにカノン(典拠)性が宿ると思われるからだ。実際、「定本○○○○全集」という(願わくば函入りの)本たちが書棚に整然と並んでいる風景は、まさに冊子体の面目躍如、とも言える。

ところが、事はそのように単純ではない。

テキストは、さまざまなコンテキストに囲まれてある。一つのテキストは他の多くのテキストの影響を受けている。さらに、参考文献や註に挙げられる多くのエクリチュールだけでなく、時代背景をはじめ、書かれた時の状況もまた、すべてコンテキストなのだ。

読者がテキストに向いあって、それを「理解する」あるいは解釈するプロセスには、コンテキストを想定する作業が含まれている。そうしたコンテキストは、ふつうはテキストに含まれていないが、そこから推測可能なあるいはそれに帰属させることができるものである。歴史の知識が豊富な読者であれば、その読者が想定した「いわれていないこと」が、テキストの産出者によって巧みにいわれないですまされたことと同じ、あるいは非常に似ているという可能性が高い。97

そうした読書を援けるためには、「定本」は、さまざまなコンテキストにリンクが貼られた「ハイパーテキスト」でしかあり得ない。

シリングスバーグが“重要なのは、常に進歩し続ける電子的ツールを使うことによって、同じ基本的な材料から、異なる読者が異なるときに異なる要求を満たせるようになること”(133)と言う所以である。

その上で、冊子体(=印刷本)の存在理由(レゾンデートル)とは、何だろうか?

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年)『希望の書店論』(人文書院、2007年)