○第88回(2009/12)

溢れんばかりのインターネット空間のコンテンツを前に、その存在理由(レゾンデートルを脅かされる書物の最後のよりどころを、印刷された文字の変更・改竄の困難さゆえに書物の持つカノン性に求めながら、例えば「定本○○全集」といったものに活路を見出そうとしても、シリングスバーグによればむしろ「決定版」的な学術全集こそ、電子テキスト版が可能にするハイパーテキストを必要とするのであった(前回)

報道から創作に至るまで、あらゆる言説の産声をブログやメールマガジンをはじめとする電子メディアの場に吸い上げられ、一方でその完成態と言える「定本○○全集」においてもまた電子テキスト版へと収斂していくのだとすれば、「冊子体(=印刷本)の「存在理由(レゾンデートル)」は、一体どこにあるのか?両端を占拠された以上、突破口は中央に求めるしかないと考えるのは、余りに安易と取られるか、あるいは退路を断たれた感があるかもしれないが、白旗を振るにはまだ早い。

ピエール・レヴィの『ヴァーチャルとは何か』(昭和堂)とても刺激的な本ある。

ぼくたちは、インターネット書店を「ヴァーチャル書店」、自分たちの業態を「リアル書店」と呼んで対置することが習いとなっているが、レヴィによると、ヴァーチャルとリアルは対(=相補)概念ではない。「ポテンシャル/リアル」、「ヴァーチャル/アクチュアル」こそ二組の対なのである。

リアルなものは可能的なものに似ている。ところが、アクチュアルなものはヴァーチャルなものには全く似ていない。アクチュアルなものはヴァーチャルなものに応えるのだP5)アクチュアル化は問題から解決へと向かい、ヴァーチャル化は与えられた解決から(別の)問題へと移行することなのだ、とレヴィは言う。(P6

ならば、「電子テキスト/冊子体(印刷本)」∽「ヴァーチャル/アクチュアル」という相似式はどうか?あるいは、インターネットの大海に漂う膨大な言説に「応える」ものとして、書物=冊子体(印刷本)を見ることはできないか?様々な問題への「応え」として提出された書物がカノン=拠り所とされるならば、そこに書物の存在理由(レゾンデートル)は求めえないか?

テキストはそのメソポタミアの起源から、ヴァーチャル的で、抽象的で、ある特定の支持体から独立した客体である。このヴァーチャルな存在は様々なヴァージョンや翻訳、編集や冊子、コピーにおいてアクチュアル化されている。これを解釈し、今ここでテキストに意味を与えながら、読者はアクチュアル化を次々に実行する。P31

そして「アクチュアル化」によって成立した書物は、読者によって更に「アクチュアル化」される(=読まれる)ことで、新たな問いを次々に生み出す、即ちさまざまな方角への「ヴァーチャル化」を呼び起こす拠点(母港)となっていく。

だとすれば、先の相似式が、インターネットの大海に漂う、あるいは遡れば口承伝承された無限の言説と書物との、ダイナミックで相補的な関係のモデルとならないだろうか

ページ、すなわちラテン語のパグス〔pagus〕は、余白の枠によって囲まれ、行によって耕され、手紙や活字の著者によって種をまかれたあの領野、あの領土である。ページ、それはメソポタミアの粘土板以来以前として重く、新石器時代の土にずっとくっついている。53

そう、書物は「領土」化された言説なのだ。

確かに、「グローバリゼーション」が、そしてそれに対抗する存在として「マルチチュード」が謳われ、国境線が曖昧となった今日、「脱領土化」=「ヴァーチャル化」こそ時代が動いてく方向であり、言説の「ヴァーチャル化」=電子テキスト化もその地球規模の潮流に乗ったものと言えるかもしれない。

だが一方、「グローバリゼーション」は決して国境線を消し去ることはできず、むしろより強力な「国家」を必要としているのと同様、「ヴァーチャル化」は実は「アクチュアル化」と不即不離なのであり、「脱領土化」された言説(=電子テキスト)も「領土化」されたテキスト=書物を、不可欠としているのではないか。

脱領土化の他に、ヴァーチャル化には別の特徴がしばしば結びつけられる。それは内部から外部への、また外部から内部への移行である。この「メビウス効果」は、様々な領域で現れている。私と公の関係、主観と客観の関係、地図と領土の関係、著者と読者の関係などである。P15

そうした「メビウス効果」は、そもそも書物というものの誕生に伴っている。

前々回のこの欄で、ぼくは、“思えば、遠い昔、口承伝承されたさまざまなコンテンツが、集められ、選ばれ、ある判断の下で確定されたものが、「書物」ではなかったか?〈仏典結集〉もまた、コンテンツが広く、さまざまな形で、膨大な量で流布していった状況で、必要に迫られてなされた作業ではなかったか?ひょっとしたら、「聖書」もまた、似たような経緯をもって、成立したのではなかろうか?”と書いた。膨大なコンテンツをあるテクストへと確定して(=編みあげて)行く作業は、権威を要する。(史書編纂は、中国書く王朝の不可欠の、王朝を王朝ならしめるといってもよい作業だった。それは支配の証明であり、力の象徴だったといえる。)そしてまた、編みあげられたテクスト(=「書物」)は、それ自体がひとつの権威となる。「書物」の担うテクストが、他のコンテンツを編み上げる/排除する「尺度」となる。まるで、「書物」を生み出した「権威」が、自らが生み出した「書物」というモノを座所と決めてそこに住まうかのように。(「仏典」も「聖書」もまさにそうであった。)

レヴィのいう「メビウス効果」は、「書物」にとっては、「テクスト」との間のダイナミックな弁証法的運動なのだ。それゆえにこそ、そこには「ヴァーチャル」と「アクチュアル」の、「問い」と「応え」の弁証法的運動が成立する。

「書物」はそうした運動の結節点(=ノード)である。決して到達点(=ゴール)ではない。思えば、かつてこの欄(第75回)で須原一秀氏の縊死を取り上げ、自らの著書(『自死という生き方 覚悟して逝った哲学者』)を盤石たらしめんとしたその「自死」に、“一方で自らの著書が「はじまり」となるべき議論への参加を不可能とさせた”がゆえに「著者の責任の放棄」と、死者に対しては酷過ぎるともいえる感想を述べたぼくの思いは、まさにこの命題と通底している。

「書物」は、すぐれて「アクティヴ」な存在なのである。

 

 

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© Akira Fukushima
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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年)『希望の書店論』(人文書院、2007年)