○第89回(2010/2)

前回のコラムを「書物」は、それ自身、「アクティヴ」なのである。と締めた。もちろん、「書物」そのものが意志や活力を持って動き回るわけではなく、「書物」は、あるコンテンツが人々にとって「アクティヴ」な時(=話題となり、議論の主題となり、人々の行動をも左右する時)に、その媒体として優位性を持つ、ということである。そうした優位性にとって実は重要なのは、コンテンツの媒体であることを超えた「書物」のモノ性であるかもしれない。

今では旧聞に属するが、『朝日ジャーナル』や『構造と力』を持ち歩くことが「ファッション」であった時代があった。当時それは、衣服と同じく自己表現の一つだった。

ヨーロッパ中世において、書物の生産=写本作業の中心は、修道院であった。そこで生産された聖書、典礼書、ミサ書の写本は、キリスト教の宣教へと旅立っていったのだ。その役割は、ウィクリフやルターの時代にも変わりはない。書物は、実に人間の活動(アクト)とともにあるアイテムだったのだ。そのために、携帯性はもちろんが、おそらくは、モノ性もまた欠かせなかったのではないか。宣教師たちが手にした書物は、それ自身カノンとしての役割を果たしながら、同時にそれを携帯する宣教師たちにもカノン性を与えたに違いない。『朝日ジャーナル』や『構造と力』の持つ「ファッション」性、その末裔と言えるかもしれない。

自宅の書棚に並んだ本もまたインテリアと溶け合った自己表現であった。柴野京子は次のように言う。

本棚の普及は、個人が選択創造した関心領域が、その生活空間において可視化されることを意味する。箱にしまわれてしまう本の秩序は個人の記憶にとどまるが、常に公開される関心領域はまとまりをもったものとして読者自身に反復され、一緒に暮らす家族や来客にも認知される。(『書棚と平台』弘文堂P121

精神、思想信条という面では、書物の方が衣服や家具よりより直截な「記号」だと言える。手に携え身近に置く書物によって、人は図らずも(図って、の場合ももちろんある)自らの時代の中での立ち位置や、時代との距離感を表現してしまうのだ。そうした「記号」性、表現力は、個性的な装丁の力も相俟って、単なるコンテンツにではない、モノとしての書物の持つ力だと言うことができよう。

モノ性とともに、材質が紙であることもまた、書物が「アクティヴ」であることと関係がある。一見すると、コンテンツの書き換え、リンク、検索などに柔軟に対応する電子媒体こそ、紙媒体以上に「アクティヴ」という形容にふさわしいように思われるが、実はそうとも言い切れない作業現場(オフィス)では、ネットワーク化され最新のソフトウェアを備えるさまざまなコンピュータにアクセスし得、さまざまな周辺機器も配備された環境にあってなお、紙媒体は大活躍している。

『ペーパーレスオフィスの神話』(創成社)の著者たちは、ITが紙の役割を大幅に減らし、紙を駆逐するという「神話」が崩れた理由として、紙のアフォーダンス(それが人にどのような行為を可能にするかに着目して抽出された、物の物理的な特徴)に着目する。

1.紙は、ドキュメントのナビゲーションを柔軟に支援する。

2.紙は、複数のドキュメントの相互参照を容易にする。

3.紙は、ドキュメントへの注釈付けを容易にする。

4.紙は、読む行為と書く行為を同時にうまく結合させて行えるようにする。(P87

軽くて柔軟で、書き込みができ、その書き込みが固定され、触ることができる紙の「アフォーダンス」は、特に進行中のプロジェクトにおいて不可欠であり、IT機器でそれをカバーするのは実は容易ではないことが明らかにされる。

このようなこと(ドキュメントを迅速に、そして巧妙に飛ばし読みする;ドキュメントを読み終わる前に、ページを上手にめくり始めること)が可能な理由は、紙の物理的な感触により、ページをめくるのに、ほとんど注意(とくに視覚的注意)を払う必要がないためだと私たちは考え始めた。ナビゲーションするのに必要な情報の多くは、暗黙的であり、触覚に基づくものである。同様に、ドキュメントの厚みのような物理的手がかりは、読み手がドキュメントのどこにいるのかについての重要な情報を暗黙的に提供する。手を介してなされるこれらすべては、読み手の読むという主要な視覚的課題を妨害しない。P105

たとえば、電子的なウインドウを動かすためには、読み手はまず、他のウインドウによってしばしば見えなくなっているタイトルバーにアクセスしなくてはならなかった。同様の問題は、読み手がウインドウのサイズを変更しようとしたり、スクロールする際にも生じた。これらの行為は、制御可能なアクティブなエリアに厳しい制約があるからである。この種のすべての操作は、高度な視覚的注意を必要とする。現在行っている主課題(すなわち、読むこと)にとってはまったく付随的なこれら些細な作業が、読む作業から目をそらすことを読み手に強いているのである。P106

紙の束から成るモノである書物は、ぼくたちが想像している以上に「ユーザー(読者)・フレンドリー」なのかもしれない。

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)