○第98回(2010/11)

90年代の半ば、既に「エキスパンドブック」など、さまざまなネーミングで、いわゆる書物のマルチメディア化は、取り沙汰されていた。当時ぼくは、マルチメディアの可能性を主張する若き後輩に、書物というメディアを擁護する反論を投げ返しながら、仕事あがりの居酒屋で連夜の議論を戦わせていた。(彼とは、2000年代にも再び職場を同じうしたが、昼休みにジジェクの新刊を離さない読書家だった。懐かしい論戦は、彼なりのぼくへの挑発だったのだと思う。)ぼくにとって、最後の切り札は、「では、俳句は?マルチメディアに軍配が上がるか?」だった。十七文字(十七音というべきか)に託された宇宙、その広がりと可能性は、たった十七文字であるからこそ得られるのではないか?

そんなことを思い出したのは、やれ「デジタル教科書」だ、「IT教育」だと、新しい技術に(更にはそれが拓く「市場」に)目が眩むあまり、文字というメディアが、ある種の柔軟性を伴って、人類の知的遺産と歴史的営為を遺し運んできたこと(そしてこれからもそうであろうこと)が、ともすれば忘れられがちだからである。90年代、PCやインターネットの普及によって明日にでも花開くと謳われた「エキスパンドブック」は、その可能性を探る努力が続けられているとはいえ、メディアの主流の一つにはなり得ていない。

前回のこのコラムでも触れたように、「教科書のデジタル化」「教育のIT化」が産学官界上げての大合唱となっている。確かに高額な器材を必要とする科学実験の様子が映像として見られる教材は魅力的かもしれないが、なんでもかんでも「マルチメディア」がよいわけではあるまい。たとえば、詩歌の鑑賞のための教材に音楽や映像が付随するのはいかがなものか?言語のもつ可能性・豊饒性を大幅に縮減してしまいはせぬか?紙媒体の上に刻印された文字のほどよいカノン(典拠)性と抽象性こそ、想像力の自由な展開の余地を残し、より創造的な精神(=脳の回路)を育むのではないだろうか?

また、昨年の「グーグル問題」以降、保存手段としてのデジタル化が脚光を浴びてきたが、そもそも電子媒体の保存力を絶対視してはならない。『書物と映像の未来 グーグル化する世界の知の課題とは』(岩波書店)の編者の一人遠藤薫は言う。

“電子媒体がもっている根本的な脆弱性―電子媒体の物理的脆弱性、形式依存性、直接不可読性にもっと留意すべきである。人類はロゼッタストーンに刻まれた二千年前からのメッセージを読み解くことができた。しかし、二千年後に人類滅亡後の地球にやって来た宇宙人たちは、ハードディスクの磁気信号に気づくことさえできるのだろうか。まさに電子化によって有効活用されるべき原データが原媒体の保存困難性によって消滅しようとしている現状、あるいは電子化された文化資源の可読性に関する不安などについて警鐘が鳴らされてもいる。”(P151)“確かに紙の本というのはそれ自体がレコーダーでありプレーヤーであるという、希有な特質を備えた優れた媒体だ。要は「本を読むのには本だけあればいい」ってことだ。紙は少々劣化するが、ちゃんと保存すれば数百年たっても読める。ましてやOSの変化なんていうものもありえない。”(中西秀彦『我、電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す』印刷学会出版部P158)
“奈良時代の百万塔陀羅尼は世界最古の印刷物として今日に伝わっている。一方、90年代に現役だった5インチフロッピーディスクは、いまやドライブ装置を探すのも困難になってきた。またワープロ専用機のデータをもらって、読み出せなくて困ったことも多い。ハード環境を継承するだけでも困難な上に、多種にわたるリーダーが必要になるファイル形式が混在しているのである。もしかして21世紀初頭は、後の時代に文字情報が伝承されない、文化史の空白期間となる不幸な事態になりかねない。”(植村八潮『電子出版の構図 実体のない書物の行方』 印刷学会出版部P139)

われわれは今こそ、「紙の本」のメディアとしての安定性、信頼性、そしてその勁(つよ)さをも、再確認し、アピールすべきではないだろうか。

“その上に問題なのは書物で、すべてのページに水や油や煤や糞便が無数に染みていて本好きの如安も嘆息するばかり、好次は自分の草稿や本の臭いを嗅いで顔をしかめ、怱兵衛は鼻をつまんで、「これは捨てるほかありませんな。」と言った。だが、右近は決心した―教会文書は貴重である。ぜひとも読める状態にして、マニラにて活用せねばならぬ。妻や娘に衣服の処理をまかせ、右近は、怱兵衛と孫たちとともに書物に当たることにした。
まず書物を水に漬け、押さえつけて汚水を抜いて行く。この力仕事に怱兵衛と十太郎が携わり、途中から好次や男たちが加わった。つぎに甲板に出てページの一枚一枚を日に曝して乾かした。この乾燥作業には、右近と如安、それに幼い孫たちも係わった。終日、強烈な陽光のもとで座していると、頭は熱し肌は焼けた。右近は水にぬらした手拭いで鉢巻をし布をかぶった姿で同じ姿勢を保った。如安は目眩を起こし、好次と怱兵衛は腰を痛めて脱落したので、結局、右近と孫たちだけで坐り続けた。……数日して、すべての書物の乾燥が終了した。“(加賀乙彦『高山右近』講談社文庫P303)

加賀乙彦の小説『高山右近』の終盤、マニラへと追放となった高山右近らの乗った船を嵐が襲った後、海水や糞便に浸った書物を右近らが蘇らせるシーンである。書物と、そして書物に託された言葉と共に、今日まで伝えられているのは、多くの人びとの苦労と信念と思いなのだということを、あらためて感じさせられた。



 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)