○第99回(2010/12)

11月26日(金曜日)13:00〜14:30、みなとみらいのパシフィコ横浜で行われていた図書館総合展において、CHIグループ(TRC/丸善)/ジュンク堂/DNP主催のフォーラムにパネラーとして呼ばれた。もう一人のパネラーは、丸善日本橋店の伊藤健氏、コーディネータとして永江朗氏が登壇した。

ぼくがまず、トークセッションを中心に「ジュンク堂書店の取り組み」を、続いて丸善丸の内店で「松丸本舗」を担当していた伊藤氏が映像つきで「松丸本舗」について話し、その後永江氏を司会にパネルディスカッション形式で進行した。

目的は、「CHIグループが持つ書店側からの話により、受講者である図書館関係者の方々にこれからの図書館のあり方をご検討いただくきっかけづくり」であり、「書店も図書館も明るい未来へ動き出せるフォーラム」を目指すとのことである。フォーラムの題目は、「書店と図書館〜書店も図書館も元気です!〜」

三人の口火を切って話し始めたぼくは、図書館関係者が大半を占める会場に、問いかけた。「書店も図書館も元気です、か?」

主催者には悪いが、ぼくにはどうしても「書店も図書館も元気です!」とは、思えなかったのだ。おそらくは共感を含んだ笑いが、会場からも上がった。

この問いかけは、決して反語ではない。「書店も図書館も元気」でありたいと、ぼくは心から思う。「書店も図書館も元気」であるための道を、何とかして見出したい。

そのためには、書店と図書館が今置かれている状況を正確に把握し、さらには書店と図書館の役割・存在意義を改めて見つめ直す作業がもっともっと行われていかなければならないと強く思い、そうした作業を抜きに、「書店も図書館も元気」にはなれないと考える、そしてそうした作業の必要性の認識はまだまだ不足しており、そうした作業への意欲はまだ十分とは言えないと感じる。

改めて、書店と図書館の〈共通点/相違点〉を一言で纏めてみると、〈どちらも本(紙の本)を読者に提供する/書店は対価を取るが図書館は無料である〉、となる。そんな当たり前のことを今さら、と言われるかもしれないが、この「当たり前のこと」の地盤が揺るがされていることこそ、改めて「書店も図書館も元気です、か?」と問わねばならない最大の理由なのだ。

共通点は、「本(紙の本)」である。あえて(紙の本)と括弧つきで添えなければならないのは、言うまでもなく「電子書籍」が存在感を高めてきたからだ。一方で「電子図書館」構想があり、一方でコンテンツを書店で販売する構想もかつてはあったが、「電子図書館」は「図書館」としての概念は継承しても、今ある「図書館」がそのままの形で残ることにはなるまい。また、今となっては、コンテンツの補給のために読者が電子端末を持って書店まで足を運ぶ(ガソリンスタンドのような)ビジネスモデルは、ありえない。図書館、書店ともに、「本(紙の本)」の生き残りと、その帰趨を同じうするに、違いない。

相違点の方は、対価を取る/取らないである。

どちらも、「近代」の所産だな、とふと思った。ベネディクト・アンダーソンやハバーマスが指摘するように、出版(=publish;公共化)は近代の所産であり、かつ近代の理念を下支えしたことは間違いない。近代世界の構造は市民社会であり、その理念は民主主義であり、そしてそれを支える活力は市場経済であった。図書館は、書物の貸出しを通じて、知識と情報をすべての市民に開放することを目指してきた。無償であることはその開放が、分け隔てなくであることを示している。一方で、書物を販売=対価を取って交換することは、書物を市場経済の中に組み込むことであり、対価は著作者の活動の原資となってきた、即ち書物の生産の活力となってきた。

「ポストモダン」という言葉が流行り、「近代」の理念に疑問が差し挟まれてからもうかなりの年月が経つが、「近代」の制度が乗り越えられたわけではない。同様に、書物も、それを貸し出す図書館も、それを販売する書店も、存続してきた。今、電子書籍によって、「本(紙の本)」が駆逐されることは、同時に図書館・書店とともに「近代」が乗り越えられることになるのかもしれない。それは、そんなに簡単なことではない、と思う。

ひょっとしたら、「ポストモダン」と「Web2.0」は、親和性を持つのかもしれない。それは、2010年上半期に話題になった『フリー』の見出す世界なのかもしれない。その世界が到来したとき、「近代」は、市民社会や市場経済もろとも、崩壊してしまうのかもしれない。人間の営みである以上宿命的に有限の時間しか持てなかった過去の諸文明同様……。

その可能性を頭の中で受け入れっつつも、「近代」の枠組の中に産み落とされ、育てられたぼくたちは、「近代」の枠組の崩壊、更にはその後というものを、容易には想像できない。

だから、ぼくは、よし「守旧派」の烙印を押されようとも、「本(紙の本)」に拘る。其の拘りが、「近代」への、そして「民主主義」への拘りなのだと信じつつ。

そんな拘りを自覚しつつあったとき、事件は起きる。第三書館『流出「公安テロ情報」全データ』の出版差し止め命令だ。直接の理由は、掲載されている人が自らの個人情報を侵害されたとの申し立てによるものだが、司法にとっても、こんなに厄介な存在はあるまい。既にネット上に流れた情報を書籍として発行した第三書館は、警察当局の情報管理の甘さを告発、知らず知らずのうちに掲載された人々へのアテンションを発行動機としている。

ジュンク堂では、初版は大阪屋帖合の店舗のみに配本され、トーハンは扱いを拒否した。裁判所の命令を受けて一部を削除した改訂第二版は、多くが発注していた書店に直送された。後に、大阪屋も販売自粛を決め、書店サイドにも返品を呼びかけた。

ぼくの率直な感想は、大阪屋は何の権限を以って、いかなる見識を持って、「販売自粛、返品依頼」をしたのか、ということだ。出版社が、裁判所等の命令に従い、市場の在庫を回収することを取次に依頼するということは、これまでも何度かあった。しかし、出版社からの依頼も無いのに、取次が書店に返品を求めたことなど、寡聞にして知らない。

また、ぼくの認識が違っていなければ、1刷の出版差し止め命令を出版社に出した裁判所も、少なくとも我々書店に対して、販売禁止を通達してはいない。恐らく、取次に対しても。(ましてや2刷については、出版社にも出版差し止め命令を出したとは聞いていない。)

実はそれは極めて当然のことなのだ。わが日本は、憲法21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」を持つからだ。憲法とは、国が国民を不当に支配することを、不当な命令を出すことを防ぐために存在するものだから、国がその権力をふるう場合に、常に気に掛けなければならない典拠である。その典拠が「出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と言っているのだから、おいそれと出版・販売活動に介入する事はできないのだ。もしも介入するとすれば、憲法に抵触することもやむなしとするだけの強い理由、論拠が必要なのである。(そもそも既にネット上に流出してしまっている情報を紙に定着させたにすぎない商品を出版、さらには販売禁止にする強い論拠があるのか、甚だ疑問。一方で、尖閣諸島での「中国漁船追突事件」の映像を意図的に流出させた海上保安庁の人は、釈放された。このダブルスタンダードは、政府にとって都合がよいか悪いかの判断とも思える。)

憲法とは、国の最高規範である。出版を禁止する、その流通を妨げるという行為は、国でさえ、否、国だからこそ、容易に認められない行為なのだ。だから、我々の商業活動も、その意味で憲法に守られていると言って過言ではない。それが、「大阪屋は何の権限を以って、いかなる見識を持って、『販売自粛、返品以来』をしたのか」と言った理由である。

ネット上に流出した情報そのものはよくても(あるいは映像が流出したのはやむを得なくても)、紙の本にすることはまかりならん、というのであれば、それだけまだまだ紙の本にも存在感がある証拠かもしれない。

或いは、書店、図書館ともども、市民社会や市場経済を生み出した近代とともに、その基盤を足元から崩され始めている、というべきだろうか。

 

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)
1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。
1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会終期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。
著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)