波照間島

 

1.壷を祀る村


 国分直一の著作のひとつに『壷を祀る村』(昭和19年刊行)がある。報告書のような詳細な記述はなく民俗誌的な読み物となっている。壷を祀る村は台湾南部にあり、国分が調査をした昭和17年当時、すでに廃れつつあった祭祀の一つであると語っている。


 壷が祀られているのは、コンカイと呼ばれる村中にある祭場で、広場には四本の竹を柱として茅の葉で葺いただけの粗末な小屋が建っている。写真ではこの中に20個ほどの壷、瓶などが、簡単な台の上に並べられている。このうちの幾つかには、壷の中に茅の葉が挿入されている。壷は祖神を祀る祭器であり、水を盛り祖神に供えて狩猟の福を祈り、農耕の幸を祈ったという。茅の葉は祖神の依代なのであろうか。


 波照間島の壷は、C.アウエハントがウチムリィの水甕として報告している。


 祭場は波照間島の西海岸に広がるミシク浜の一画にある。伝説では、ある時代に天の神はすべての物を焼き尽くすために、油の雨(アバーミ)を降らせたが、ミシク浜の洞窟に隠れていた兄妹だけが生き残った。そこで波照間の再生はここから始まったという。


 この祭場を構成するのは、兄妹が隠れた洞窟と聖なる井戸、家を囲っていたという石垣、火の神を祀る香炉と石で埋められた壷などである。石垣の存在は確かにある時代には住居が建っていたことを示唆する。


 壷は頸部の短い赤色の素焼きで、サンゴ石により肩部まで埋められていた。祭場には建物の覆いなどはなく,露天であるため水は口まで貯まっていた。C.アウエハントはこの水の水位により、作物の豊凶や大異変の有無を判断すると報告している。また、非常に水位が下がるときはひどい旱魃になり、異常に高くなるときは大きな台風が来るものとされるともいう。私に話してくれた新城永佑さんは雨量計であるといい、「世の定めのカメ」であるともいわれた。


 世界遺産である斎場御嶽には、三庫理(サングーイ)とよばれる祭場がある。自然の巨岩が広場にせり出して祭場の天井となり、そこから二本の鍾乳石が垂れ下がっている。鍾乳石の下には、先端から滴り落ちる水を受ける「こがねの壷」があったといわれ、現在はシキヨダルユ、アマダユルの二つの壷が置かれている。


 この壷については柳田國男が触れている。「カミグワー石というあり、道の右手の大石より鍾乳の四五尺のもの二本下れり。水滴る。その水をうくる所に白磁の小瓶二つあり。その水涸るときなれど、その多少を以って世を量り乾湿をトし、またこの瓶の軽重を以って占をなす。もとは黄金の瓶なりきといふ説あり。」という。波照間島で祀られている壷と、斎場御嶽で祀られていた壷は奇しくも共に「世を量る壷」であった。


 また、高谷重夫の『雨乞い習俗の研究』のなかに「雨壷考」という魅力的な論考をみつけた。高谷によると福岡から瀬戸内、奈良には、甕や壷などを山上や神地に埋めて、雨乞いには掘り出して水を入れ祀ったことが述べられている。


 波照間島などの事例も当初は雨乞い儀礼が行われたのであろうか。

 

(写真1 サンゴ石により埋められた壷。雨水により満たされている。今年も豊作なのであろうか。)

 

2.西表島と対峙する石獅子

 

 名石集落の北にはコート盛という、高さ4mほどの円形につくられた遠見台が港へ続く道の傍に立っている。この施設は琉球の王府が近海を航行する船を監視して、情報伝達を確かなものにする「烽火の制」を定めたことに起因する。しかし、地元では公用に供されたばかりではなく、波照間島から西表島へ耕作に出ていた家族への緊急連絡に、火を焚いて連絡したという。コート盛の頂上に立てば、北の方角に西表島が指呼の間のごとくに存在している。


 遠見台の道を隔てた西の畑に、サンゴ石灰岩特有のごつごつとした岩肌を残す獅子が1体おかれている。説明版もなく見落としそうになるが、そばによって見るとサンゴ石には人工的な細工はまったくなく、ただ顔と胴体を獅子に似たような自然の岩を据え付けているだけである。


 注目すべきは正面を西表島に向けていることにある。この獅子については伝承があり、「西表の鹿川(かのかわ)の西に波照間を向いている大きな獅子の石があって、それは波照間食石(はてるまくぇいて)といわれているんです。それに対抗するために、この島ではコート盛に返しの石をおいたんです。」という。(新城康佑談)


 少し小形の石獅子が一体、沖縄電力風力塔の傍にもおかれている。頭ばかりが大きく、正面から見れば獅子の形を想像するのはむずかしい。しかし、この
2体の獅子によって食われまいと島を防衛しているのである。



 牧野清は仲本信幸の聞き取りから、石獅子はムラポーギィイシ(村を護る石−筆者注)とよばれる風水石で、300年前に稲福里之子という沖縄本島から来た流刑人が建てたという。波照間にはもう一つあり与那国島に向けられたていたが、この石獅子は失われたようである。


 長嶺 操さんは、石獅子は沖縄本島南部の八重瀬岳周辺の集落に集中するという。この山は火山(ひやま)として周辺の村々から恐れられ、この山に対抗するべく多くの石獅子が立てられ、早いものは17世紀後半ごろ、19世紀中ごろがそのピークであったという。
東風平町(こちんだちょう)(現八重瀬町)()(もり)の石獅子は、由緒正しく1689年に「始めて獅子形を建てて八重瀬嶽に向けて以って火災を防ぐ」と建立の経緯が述べられている。


 本島南部の集落では隣接する村同士が、互いにシマの入口に石獅子を置くことによって防災と悪霊の侵入を阻止しようとしたのである。


 宮古・八重山地域では見られないようであるが、波照間島では本島から来た人が建てたと伝承されている。また波照間と敵対する相手−石獅子は、西表島と与那国島にも置かれているわけで、この
2島についても実際に石獅子が存在するのか、またどのように語られているのか興味深い。


 しかし、波照間島の石獅子伝承は、敵対する相手に喰われてしまうことに対抗するために置かれたのであり、本来の目的であった防火という一義的な意味は失われた。

 

(写真2 斜め後から見る獅子像。村の境界に置かれ頭が向く先は西表島である。)

 

3.油雨のふる島―波照間島の始祖伝承


 C.アウエハントは波照間島の始祖神話を採取している。「はるか昔、人口過剰と飢饉に苦しんだ時期、波照間の人々は老人を遺棄し、子供や幼児を殺すことを迫られた。天の神は彼らを罰するため、生きとし生けるものを焼き殺す熱い油の豪雨(アバーミ)を降らした。島の北西海岸のバショーチィという洞窟に隠れていた兄妹二人の人間だけが生き残った。そこで、妹は最初の子供を産んだが、海水で洗ったところ、ボージィという毒のある魚になった。洞窟の東で生まれた二番目の子供もまた、海水で洗うと海ムカデになった。それから、二人は洞窟から高台にうつり、砂丘を上ってミシクと呼ばれる場所にきた。そこで、かれらは片屋根の小屋を作り、シライシ(出産の石)の近くで三番目の子供を産んだ。この子は清水で洗うと最初の人間の子になった。それはアラマリィとよばれ、そして、アラマリィヌパ、すなわち新生の女として波照間の人類の祖先となった。」


 アウエハントは異伝としてほかに4話を掲載しているが、遠藤庄治らも話の長短はあるものの16話を採取している。波照間島ではよく知られた始祖神話であったのだ。しかし、油雨の正体が何であったかは伝えられていない。海底火山の噴火があって火砕流のようなものが降り注いだのだろうか。


 冒頭の話では、兄妹二人の住居は海岸にある洞窟から高台に移り、そこでの片屋根の家のことが語られる。


 ところが、異伝にはこの続きがあり「片屋根の家を作って生活していて生まれた子供が、百足の子が生まれた。神様どうか、自分らの人間の子が生まれるようにと、二人シクシク泣いていた。その時、秋の夜の晴れ空に四つ星という星が四角になっている星を眺めて、ああ、なるほど、こんな四つ角の家を作らなけりゃ、人間というのが生まれん。といって、今度は茅を刈ってきて、屋根を四つの形にして、午ぬ方という南に真直ぐ向いた四つ角の家を作って暮らして住んだら、そこで初めて長男が生まれた。」のである。


 このように、家が片屋根から、現在の住居である四隅に柱を立てた形態に変化したことが、すなわち人間の生まれる条件であったように語られた。


 伊波普猷
(いはふゆう)は与那国島まで漂流した済州島民の見聞記を訳している。与那国島の家屋は「部屋はぶっ通しで、奥座敷や戸牖(こゆう)(出入り口、または窓のこと−筆者注)などが無い。前のほうは軒がやや上がっていて、後の方は(ひさし)が地に垂れている。」という。


 1477年の与那国島の民家の状況であり、屋根の形は前に高く、背後は地面について波照間島で伝承されている片屋根を彷彿とさせる。


 始祖神話で語られる片屋根の建物が、15世紀の先島では一般的な住居であったことを推測させる。そしてその後、四隅に柱を立てた住居へと変遷したとすることもあながち誤りではないのである。


 笹森儀助は、明治26年に先島方面まで旅行し、そのなかで与那国島の民家の図を載せている。この時期にはさすがに片屋根ということはない。しかし、母屋の背後にある鳥小屋が片屋根として描かれていてかつての遺風を見る思いがする。

 

(写真3 沖縄記念公園内に復元された与那国島の形屋根の建物。壁がなく小屋として使用された。)

 

4.港の岬のビジュル

 
 高速船は石垣港から1時間で波照間港に着岸する。現在は近代的な港に整備され、民俗学者がさかんに渡島していた
60年代の面影はどこにも見当たらない。波照間島が開発される前の地図では、港の東に突き出したイナマ崎もほとんど確認することができない。

 
 しかし、ここはいくつもの拝所がある重要な岬であり、古くからイナ道をとおり集落に入る重要な地点でもあった。

 
 このイナマ崎の一角にビジュルが立っている。伝承では「その昔、島の女傑ヤマダブパメーが、愛人稲福里主の航海安全を祈るため、いずこから珍しい男根型の石を運んできて、拝み始めた。」という。

 
 平敷令治さんは、ビジュルは霊石信仰のひとつで、海に浮いていたという霊石や啓示を受けて土中から掘り出され、子安、子授けと旅の安全を祈願するという。ほとんどが自然石で丸石が多いが、陽石は極めてまれであるという。

 
 波照間島のビジュルは写真で示すように類例の少ない陽石形をしている。砂岩で少し青みがかる。表面には加工した痕跡はなく、自然石をただ立て掛けたものである。高さは約
95cm,基部の幅は約25cmである。右に少し傾いている。波照間島は珊瑚の隆起した島で、この石は伝承で語られているように、島外から持ち込まれたのである。

 
 この拝所は港の見える岬にあるところから、航海と旅での安全、健康祈願が祈られた。この限りでは、形状は稀ながらも平敷さんが定義したビジュル信仰に適う一例である。

 
 しかし、港の入口に立てられていることと、陽石であるところから別の側面からの考察も可能ではないか。


 下野敏見さんは「南西諸島には塞の神、道祖神の呼称はないけれども同じような習俗はある。」として、村の入口に立てられた陽石の写真を示している。そして、陰陽石や道祖神は、村境で浜(海)と里(山)の精霊が交感して、村の一層の活性化と豊穣をもたらす民俗を生み、他方、悪魔や疾病の入り込む地点をさえぎる二つから構成されるとする。

 
 久高島では西の浜の入口にアカラムイ(御嶽)が祀られている。島の門番で悪魔を除く霊威が強い神とされている。ハンザァナシー祭では、ニラーハラーの神々が久高島を来訪して島を祓い清めて廻り、神々は必ずこの浜まで足を伸ばす。この浜には道祖神や陰陽石は立てられていないが、久高島の入口を守護する神が祀られているのである。

 
 ビジュルは主として集落の中などにおかれる。ところが、集落の入口に立てられている波照間島のビジュルは、かつて島の入口を守護する神であった可能性も推定できよう。


 また、東恩納寛惇は沖縄本島那覇のこととして「久茂地南辺一帯の小字でセーヌカンと称し才ノ神につくるが、実は塞の神−道祖神の転である。」と記述している。

 
 島の入口である港は、世果報をもたらすと同時に悪疫もはいる危険な場所である。入口はことのほか厳正に対処しなければならない地点である所からすると、時には荒ぶる神が守護したのである。

 

(写真4 福木とサンゴ石に囲まれた拝所に立つビジュル。写真からでも石質の違いがわかる。)

 

 5.南に見果てぬ島を夢見る


 「この島の南には南波照間島というところがあって、青豆、赤豆なんか出来る時にはね、その島から夜中に来てみんな持っていったらしいよ。牛屋敷の本比田の家の人はね、「夜中に舟に乗って南波照間島に行ってきたよ。」と言ったらね、みんなにその南波照間島といわれるマルバン島とバカン島に島の周りにきれいな花が咲くマルブサが生えていたから、そのマルブサをこの島に持ってきたそうですよ。仲本の爺さんの話ではこの南波照間島という島からは、遠くからも草やなんかを焼く煙が立っておったのが見えたというがね、今は見えないから地震とか何とかで沈んだってことよ。」(保多盛ヨシ 大正9年生談話)

 
 波照間島へは航空路もあるが、一般的には石垣港の離島桟橋からの船便となる。石垣からわずか
50kmほどの距離に過ぎない。

 
 波照間島は、南の端にある珊瑚が砕けた砂礫からなる島の意味であるというが、この島に渡るには、波照間渡と昔から恐れられた流れが速く波浪の立つ海峡を越えていかなければならない絶海の孤島である。

 
 この島の人たちはいつごろからか、さらに南にある豊穣の地を夢見ていた。そしてついにそこへ渡ることを決心した島人がいた。


 『八重山島年来記』には
1648年のこととして、「波照間村の内、平田村の百姓男女40~50人ほどが大波照間という南の島へ欠落(逃げた)した。(下略)」という。伝承で語られた大波照間島の存在が信じられていたのである。

 
 この資料は八重山各地の出来事を逐一記録して、琉球王府に提出された公式文書のひとつである。波照間島を監督下においていた役人は、このことにより不始末ということで役を解かれた。南の島を目指して島を出たことは歴史的事実であった。


 この事件は後世においても島の人々に正確に伝えられていたようで、以下のような悲しい話も伝えられている。

 鍋掻き浜のこと「この話しは1648年だというから、今から320年ほど前にあった鍋掻(なびす)き浜という話しです。波照間島には、はるか南に南波照間(はいはてるま)という島があるという伝説がある。波照間島は島が小さくて人口は多く、税金は高いもんだから、10家族とかが、「なんとか税金のない南波照間という島に行って生活したい。」と思って筏を作ったり船を作ったりして、波照間島から脱島したそうです。そのとき波照間には鍋掻き浜というだけしか浜は無かったそうですから、その浜から出発したんです。このとき、ある女の人が家に鍋を忘れたので、それを取りに行っている間に船が出てしまったので、その女の人は、そこの浜で鍋を掻きながら悔しがったという話しがあって、そこの浜を鍋掻き浜というようになったそうです。(下略)」(米盛太郎 明治38年生談話)

 
 この話には多くの異伝があり、掻き泣いたところが田圃であったところから、鍋掻田(なべかきます)の話しとしても伝承されている。


 さて、後日譚としてこの南波照間はどこだろうかということで、台湾の蘭嶼島だという人も現れた。

 

 6.7つの門がある屋敷

 
 沖縄の伝統的な家屋は、南を正面とするのが原則である。屋敷地は石垣が周囲をかこんで、福木が石垣に沿って植えられている。屋敷地内の家屋の配置は、主屋(フーヤ)が中央からやや東よりに建てられ、西に隣接して炊事屋(トーラ)が建てられた。作業小屋や豚小屋、厠などは母屋の西側から北側に配置される。南側は正面となり門(ジョー、波照間ではブーヒ)があいている。門を入るとすぐヒンプン(波照間ではナーフク)と称される障壁があって沖縄らしい屋敷構えとなる。

 
 屋敷内は神高い場所として東・南の空間が観念され、劣位の場所として西から北にかけての空間が観念される。ヒンプンのある家では、日常の出入りには西を通路として使い、また葬式が出ていくのも、墓参りも西側を通ることになる。東は家の神が通る入り口であって、拝所への参拝や祭りのときに使用される。屋敷内の部屋も神事と仏事での使い分けの観念があるがここでは触れない。

 
 ところで、波照間島のある特定の家などには、複数の門が開いていることを赤嶺政信さんなどが報告している。

 名石集落の石野家は、波照間島のなかでも重要な古い家の一つである。冨嘉集落と前集落を結ぶ東西の幹線道沿いに屋敷を構え南に門が開口している。


 この南門とは別に東側の道路に沿った石塀に開口する門がある。祭りには注連縄が張られ、日常でも使用することはないとのことである。また、石野家とほか3軒が東西に塀を隔てて屋敷を構えているが、隔壁たる石塀の一部がそれぞれに幅1mほど開けられている。


 この通路は神が通る専用の道であるといわれ、C.アウエハントの調査によると、この先はブイシワー(御嶽)を通って、名石集落の村はずれにある聖なる井戸に繋がっているという。これで石野家の屋敷には3ヶ所の門が開口していることになる。

 
 さらに今回の調査において、冨嘉集落の西島本家には7つの門が開口していることを確認した。ただ、すべてが門として完全に開口しているのではなく、石塀の一部が開いているところもある。このため人が通ることは物理的にもできない門も存在する。

 
 西島本家は、石野家と同様に波照間でも古い家系で、宗教的にも重要な役目を持つといわれている。現在、隣家の島本家とは塀を隔てて別々の敷地になっているが、当主によるともとは一つの屋敷であったという。

 
 屋敷内を案内してもらったら、まず南正面に二つの門がある。屋敷に向かって左(西)は日常出入りする門、右(東)は神が使用する門で、祭りが行われるとき神司(ツカサ)が使用するという。そして、主として東側の石塀−東南隅、東北隅近くと北側に塀の一部が開口している。このほかに、東の石塀に沿って幅1mほどの神道が設けられ、ここに入る入口が象徴的に開けられている。実際は地面に縁石で神道が表されて、南端の一部が開けられている。


 東の塀に開口するこれらの門は、この延長線上にウタキがあると観念されていて、神司はこの地点から各方向にあるウタキへの遥拝がおこなわれるという。そして、残りが西に隣接する島本家との間の塀に開かれた門である。

 
 神が使用する道に塀があっても、わざわざそこを開けて道としたことは多良間島でもみられたが7つの門は新記録である。まさに神とともに生活がある日常に思い至った。

 

写真5 西島本家正面の門。左が日常に出入りし、右側は神が使用するとされる。奥にヒンプンが見えている。

 

 7.スサレロ(死者への唱えごと)


 スサレロは波照間島での葬送儀礼のなかで死者に対して直接に語られる形式をとる。これには、@墓に柩を入れたのち、墓の扉を仮閉鎖したときの唱えごと。A葬儀を終了して墓をあとにするときの唱えごと。B洗骨での唱えごと。C
33回忌での唱えごとなどが報告されている。


 スサレロを唱えるのはニンブチャー(念仏者)である。これは職業として僧職にあるわけではなく、簡単な念仏を伝承しているだけであるという。今日ではニンブチャーを継承している人がいないため、かろうじて年長者でスサレロを知る人が唱えているという。


 C.アウエハントが聴取したスサレロは、波照間島の人々が観念した死後の世界観をよく表現していると思われる。


 @の段階のスサレロ「今、あなたはウヤピィトウ(死者・祖先)になられたので、精一杯りっぱな葬式をおこないます。私たちはあなたをグショー(後生)への大いなる道、広い道、よき楽な道を通り、あなたのお墓、ウヤピィトウがいらっしゃる場所に送ろうとしています。どうか、安じてよき葬式をしてもらい、何一つ迷うことなく送られてください。」

 
 ここでは、後生での生活はかつて共に生活していたウヤピィトウが、生前と同じ暮らしをしていることを説くことによって、死の現実の受け入れるよう語りかけるのである。


 Aの段階のスサレロ「グショーへは楽に入れるよき道があるとあなたにいったが、グショーには何千、何万の道もなく、よき楽な道などありません。グショーに関する限り墓こそがグショーなのです。あなたはそこから現れてはなりません。起き上がってあなたの家に行き、子孫たちに会ったり、村に来てはなりません。さまよい歩いてはなりません。あなたはもうプトゥギ(祖先)なのです。あなたは今ウヤピィトウの腕の中で眠っています。今からはずっとどんなことがあっても、自分の家族の暮らしぶりを見に来てはいけません。起きてはいけません。今からは、供養の時が来たらあなたを迎えに参ります。それまではプトゥギの腕の中にいて極楽の生活を模範的に送ってください。」


 まさに、舌の根の乾かないうちに、@で語りかけた言葉とは裏腹に、死者に命令するような強い口調で語りかけるのである。ここには、さまよい出ようとする死者の魂への生者の恐れが表現されている。死霊には強い穢れがあるとの考えは、波照間島固有の意識ではなく沖縄各地にみとめられる。死者は生前に耕していた畑をみて廻ると観念された。そして、これで農作物はすべて枯れ、収穫できないと恐れられた。また、この段階では墓が死者の生活の場であり、ここで生き続けるとも観念された。波照間では墓のことをシーンヤー(後の家)というが、この言葉によく現れている。

 

 Cの段階のスサレロ「さあ、どうか天まで上がり、白雲、湿った雲まで上がり、喜んで神になってください(カンナリオーリ、タボーリ)。」


 33回忌には生家の庭にミナガヌヒンタマという仮の祭壇が組まれ、その一角にはガジュマルの木を据え付けた。33回忌を迎えたウヤピィトウは、この木をつたって昇天し、これまでの住まいであった墓を離れ神となると観念された。このあと神になったウヤピィトウの位牌は燃やされ、以後は祀られることはないという。


 スサレロには死者への慈しみと、死霊への恐れなど相反する観念が複雑に交差する。しかし、ここには画一化された仏教の教義にはない、祖先へのつながりとを確信する他界観が通底している。

 

(写真6 伝統的な墓とコンクリートで作られた亀甲墓が並列している。墓の入口はすべて北を向く。)

 

 8.アラントゥワー(南集落の新本ウタキ


 波照間島のワー(ウタキ)は、珊瑚の石垣とフクギ並木にかこまれて静謐な空間を醸し出している。ことに南集落にあるアラントゥワーは、C.アウエハントが調査していた
1965年当時の写真と変わらず、建物は苔むすように楚々とした聖域のなかにある。


 ワーの基本的な構造は、聖域全体を囲む石垣がありこの中は神域と観念されている。この神域は、さらに神司しか進入を許さないソマーミ(文字通りの聖域である)と、ワーヌヒー(籠もり屋)が建つ区域に分けられている。ソマーミにはペッツァヒー(這って入る家)といわれる、背をかがめてはいるほどの小さな門が開き、この正面には神の依代であるブーが立つ。ブーは珊瑚石の自然石で常にこの前には香炉がおかれている。


 ワーヌヒーは神司たちが待機し、ときには寝泊りをする建物である。棟側の板戸には3本の小さな長方形の窓があけられている。この窓とブーは対峙する位置関係にあり、ワーヌヒーからもブーを拝することができる。


 以上がウチィヌワー(内のワー)とよばれる、集落の中にあるウタキの構造である。ところが波照間島には、このウチィヌワーとは別にピティヌワー(野あるいは畑のワー)とよばれる、集落から海岸へと下ったところに広大な森を有するウタキが3ヶ所存在する。ウチィヌワーのワーヌヒーからブーを見通すその先には、常にピテヌワーが意識されるという関係性が存在するのである。


 アラントゥワーに話題をもどす。しかし、ここにも歴史的な変遷が隠れているようで複雑である。現在では南に屋敷を構えるムゲェ家(東迎)が、トニムトゥ(根家)として祭祀をつかさどるが、もとは西側のペートゥ家(新本)であったという。実際、アラントゥワーを一周すると、ペートゥ家とアラントゥワーは、ひとつの敷地を共有するように石垣で囲まれ、ペートゥ家も全体の敷地の西隅に位置しているのである。このようなワーと宗家の関係性は、冨嘉集落にあるアースクワーと保多盛家にもうかがえる。


 またアラントゥワーの南側の一画には、ペートゥ家の祖先墓といわれる石組みがあり、「メーパナジ
オール ウヤン」(アラントゥワーの前にいらっしゃる祖霊)とよばれている。このようにみれば、ペートゥ家とアラントゥワーは、一辺がおよそ40mで囲まれた、もとは一つの屋敷の中にある家宅と、祖先墓を祀る一画、さらには祖霊神が依りますワーの祭祀空間で構成されているとみられる。C.アウエハントはこれをアラントゥ複合区画とよぶが、ペートゥ家が宗家として機能していたころは、日常の生活空間と祭祀空間が直結した屋敷として、ムラの共同体の宗教的センターとして機能していたのである。


 アラントゥワーは南と東から石段を降りて神庭にいたる。このほかにも幾つかの入口はあるが、神庭に降りる構造は特異である。庭には木造赤瓦葺きのワーヌヒーと小さな神井戸がある。そしてワーヌヒーの先には、福木とサンゴ石で積まれた石垣囲いのソマーミがあり、中央に小さな門があいている。この門も木造で屋根には赤瓦が葺かれている。

 
 ここに祀られている神の名は伝わらない。祖先墓をウタキ内に包摂しているのは、ウタキの神が祖霊であることを示唆するのであろうか。

 
 仲松弥秀はウタキの起源について、村の始祖が埋葬されたところが共同体の宗教施設として発生すると述べた。波照間島ではアラントゥワーに限らず、名石集落の中心に位置するブイシワーにも積み石墓が隣接して拝所となっている。

 
 冨嘉集落のアースクワーは、祖先墓の存在は伝わらないが、アラントゥワーでみられたような、石垣で区切られた小区画が幾つかあり墓の存在が予想される。

 
 波照間島の信仰体系は、現在は様々な変容をとげている。ことに最近の島全体の地形を改変した区画整理は景観を一変させた。またこれにより、従来から使われていた道路は消滅し、また分断された。葬式につかっていた道や神様の道にも計り知れない影響を受けていると聞かされた。波照間島に限ったことではないが、日常生活においてかって重要な作物であった稲・麦・粟などはすでに栽培されていない。これらの作物の豊穣を祈願し、感謝した祭祀体系はすでに書物の中にあるばかりである。

 

(写真7 アラントゥワーの聖域を小さな門から見る。香炉の先に神の依代となる石が立つ。聖域はサンゴ石と福木が取り囲み静謐な空間を作った)


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©Takeshi Izumi
 2007/03
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