続・多良間島

 

1.ウプリ(虫送り)

 

 昨年10月始めて多良間島に出かけた。このときの民俗と心象風景は『多良間島』として記しておいた。この島の年中行事については、ふるさと民俗学習館の垣花昇一さんから詳しい説明を受けていた。

 

 行事では旧暦2月下旬におこなわれるウプリ(虫送り)が気懸かりになった。虫送りは沖縄本島でもかつては稲作農耕に伴う行事として、シマクサラーの名称でひろく行われていた。地誌などによると、鼠やバッタなどの害虫を浜から舟に乗せて流すのが一般的といえる。

 

 ところが多良間島のウプリは、@虫を捕獲するところが決まっている。A浜の近くにある洞窟で虫送りの祈願をする。B流すのではなく海に入って決まった地点で沈めるというのである。

 


(虫送りの舟を担いで海に入っていく若者二人。

 

4月12日に実地見学を許されたので概要を記しておきたい。

 

 多良間島は一島一村の行政単位で多良間村を形成している。集落は南北の中央道を境に西側を仲筋、東側を塩川とし、ウプリもこの2字で行われてきたが、塩川では中止しているという。

 虫取り地点・・両字ともポーグ(抱護林―集落を囲んだ林)から南へ1〜2キロメートルの地点である。仲筋はカミディ(亀出)といい、ポーグをしばらく走ると道路が二股に分かれたところにある。説明看板も何もなく、ただ岩が道路の中に取り残され、雑木や草が生い茂るだけである。草刈も何もしないという。

塩川の虫取り地点は、タニカー(高穴)の畑の一角にあるユウヌフツと呼ばれる場所である。ここも仲筋と大差なく岩が開墾から取り残されたようにあり、草木も自然のままで繁茂している。いかにも虫たちの住処にふさわしい。

 

今回は虫取りの現場には立ち会えなかった。虫取り人の証言は害虫であればどのような虫でもよいとのことであった。

 

 舟・・虫を載せる舟は2艘である。ひとつは前泊港で流し、後の一つは仲筋の浜で沈める舟である。舟の材料は、イビの拝所周辺にあるヤローギ(テリハボク)のY字になった枝が使われた。葉が付いた先端を縛り、茎基にはサンゴ石が結わえられた。

 

虫どもはビッヴリ゜ガッサ(クワズイモ)の葉に包まれ、舟の中央に載せられたのである。これですべての準備は完了である。

 

 さて、イビの拝所での虫送り祈願のあと舟は二手に分かれ、当方は直ちに仲筋の祭場に急いだ。

浜にある洞窟・・仲筋の祭場は、ウプドゥマリ゜トゥブリから降りた地点にある。浜からは一段上った段丘面の洞窟である。ピンダピィーキ(山羊の穴)とよばれ、普段は山羊に草を食ます場所であるのか。神様がいるという。この前でも祈願がありその後、2人の男が舟を持って浜に降りた。

 

 虫を沈める地点・・浜からイノー内にある特定の岩、カミナカと称されている三角形状の転石が400メートルほどの距離にある。そこまでは海中を徒歩で2人の男が舟を担いで行った。この日のイノーはほぼ膝ぐらいであったが、カミナカ岩が近づくにつれて胸を越すほどの深さであった。ここに虫を沈めて行事は無事終了した。

 

 宮古島狩俣でも旧暦2月には、むシっそーイ(虫払い)がおこなわれた。前の浜の沖合いにある「前離り岩」まで泳いで、害虫が乗せられている舟を流したという。多良間島のウプリによく似た虫送りの行事が報告されている。

 

 多良間島のウプリは、洞窟での祈願があることと、流すのではなく特定の海中まで行って沈めることに特徴があるといえよう。興味が尽きない虫送りの行事である。

 

2.ウプリに集う人々

 

 多良間島の村をあげて催される年中行事では、ウプリは年の初めの規模の大きな行事であるという。

 

 前泊港近くのイビの拝所がこの祭祀の中心祭場となる。8時30分ごろから祭場の掃除が開始され、準備が整うころ長老がたや字長がみえられ、ウプリ見学の許可をいただいた。

 

 9時を過ぎると、虫取りに出掛けていた人が戻り舟作りが本格化した。虫はクワズイモの葉に包まれている。2艘の舟を作るが、材料はイビの広場周辺に植わっているY字形をしたテリハボクである。葉が付いたままの先端を結わえて舟形とした。その真中に虫の包みを固定して、さらにテリハボクの茎の部分には、やや大きめのサンゴ石が重石として結わえて完成した。

 

 そのころには、イビの祠の前にはゴザが敷かれ、聖域を囲む石囲いの中と外には当日の参加者が着座した。総勢40名ぐらいの方々で男性のみである。そして、ニシャイガッサ(二才頭)により、害虫をこの島から追い出して、今年の農作物が害虫の被害を受けず、りっぱに収穫できることを祈願された。

 

 イビでの祈願が終わると、直ちに仲筋側の虫送りの祭場に移動した。ウプドゥマリトゥブリから降りた段丘にピンダピィーキという洞窟があり、ここでも虫送りの祈願をおこなうのである。ここでは7〜8名の参加である。

 


(宇仲筋の虫送りの祭場。ピンダビィーキという洞窟を前にしての祈願である。)

 

 そして、いよいよ虫を沈めるときがやってきた。聞いたところ、浜からイノーの特定の岩まで歩いていくという。300〜400メートルほどの沖合いである。虫送り実行委員の若者2人が舟を担いで歩き出した。当日の天気は気持ちよく晴れはしたが、海に入るには少し寒いようである。イノー内はしばらくは膝ぐらいの深さであったが、目的の岩が近づくにつれ深くなり、沈めた場所は肩まで浸かっていた。満潮時では船を出すという。

 

 大役を終えた2人は、10分ほどで浜から上がり虫を沈めた岩が見える護岸上で直会がはじまった。

 長老、字長、ニシャイガッサの人と実行委員のメンバーである。私の前にも伝統料理である重箱料理(厚揚げ、三枚肉、結びこんぶ、かまぼこ、てんぷら)の品が、モンパの葉を皿にして取り分けられた。そして長老方により、今年も無事虫送りが済んで豊作でありましょう、との挨拶がおこなわれた。そして和やかな直会にも参加することができたのである。うりずんの風が心地よく吹く浜辺での直会であった。

 

 このあとさらに、イビの拝所前では直会は延々と続いたのである。ここには、村の幹部や教育委員会関係者、製糖工場長なども臨席していた。

 

 虫送りは筆者が勤めていた天理市内でも、山間の農村地帯で僅かにおこなわれているに過ぎない。近代農業では農薬の普及などで祭りの意義は失われたのである。しかし、同時にそれはムラ共同体の一体感も同時に消失した。

 

多良間のウプリには島に住む人々すべてが、祭りを通じて紐帯を育んでいく契機となることも学ぶことができた。会場となった広場では、「先輩」と「新人」ということばが飛び交い、実行委員は甲斐甲斐しく行事の進行に勤めていた。虫送り実行委員会の皆様ご苦労様でした。今年も農作物や家畜たちが豊作でありますよう祈念いたします。

 

3.ウプメーカー(ウプミャーカー積石墓

 

 多良間神社にほど近いところに、石を露出させた特異な墓に出くわす。集落のなかにあり、石造記念物としては箱庭のような景観を呈している。まさに多良間の石舞台である。

 

 この墓は多良間島を統一したという土原豊見親で、左側はその内室であると伝承されている。豊見親の子孫によって1700年ごろにその旨の墓碑が建立された。

 


(土原豊見親の墓と伝えられている。基壇の上に家型の石積みを組み合わせている。)

 

 土原豊見親は『球陽』によると、1500年に八重山のおやけ赤蜂の征討軍に加わり、後にはこの功績により初代の多良間島主となったことがみえている。

 

 ウプメーカーを考古学的にみると、墓入口からアーチ門にいたる墓道と、石積み墓が2基、それを区画する石垣から構成されている。石積み墓は(右を墓1、左を墓2とする)石垣空間内を二つに分けて、それぞれに一基ずつ築すかれている。左側の空間には門がなく閉鎖空間となっている。

 

 全体の大きさは、左右15,8m、奥行き10m(外側の寸法)である。右側は8.7m(内側の寸法)四方である。左右を区画する石壁の構築を観察すると、墓1の区画が先行して作られ、墓2はそれ以後の区画であることが判る。

 

 墓道は長さ15m、幅2mありアーチ門近くで左に屈曲し、右側壁から石障が墓道に向かって突き出している。

 

 石積み墓は左右とも敷地の中央にはなく、いずれも右側に偏して築造されている。この空間には形の特異な自然石が立つが、どのような意味があるのか詳らかではない。

アーチ門 石積み壁の中央に作られた門で、アーチ形に加工された石を被せるように組み合わせている。地面からアーチまでは1.17m、幅55cmあるが、大人ではしゃがんだ姿勢でなければ入れない小さな門である。アーチ石の中央には丸石が乗っている。

 

 石積み墓 2基とも石積み墓として当初から盛り土はなかったと思われる。内部は木棺あるいは石棺を安置したものと推定されるが、地下を穿って埋葬されているかは判断しがたい。墓1は地面上に石積みの基壇をつくり、その上に家型の屋根を組み合わせる石郭を組んでいる。基壇での規模は左右2.6m、奥行き3.4mで高さは90cmである。基壇上に組み合わされた壁は少し内傾するように加工が施されている。屋根は左右7枚ずつで成るが、緩やかな曲線状に加工され優美なラインを作る。

 

 墓2は規模こそ墓1と遜色ないものの、地面から垂直の石積み壁となり、頂部は自然石を置くだけである。壁を構成する石材の加工も墓1に比べてかなり粗雑である。

 

 墓1、2とも西側の小口部に墓碑が立てられている。『村の歴史散歩』では、墓1には「四時康煕四□天七月八日土原豊霊位末孫春敬白」、墓2には「土原豊宮内室」と刻まれているという。

 

 墓1は宮古地域では見られない型式の石積み墓である。墓の築造年代や内部構造の解明など、文化財としての調査が待望される。

 

津堅島

 

1.中城湾をめぐる攻防

 

 JAXA(宇宙航空研究開発機構)の沖縄宇宙通信所が出している、「地球観測衛星から見た沖縄本島」のカラー写真は、本当にきれいな空からの鳥瞰図になっている。

 


(ランドサット5号が撮影した沖縄本島の中・南部。中央が中城湾で、右側にはサンゴ礁がつらなり、久高島、津堅島なども湾の外縁ををつくっている。)

 

本島の陸地は、細身の身体からスイジガイの棘のような半島を、東シナ海と太平洋に突き出している。海岸地域では、濃紺に処理された海の中に点在する島と、それらを取り巻くサンゴ礁がくっきりと縁取っている。なかには陸地とはならないまでも、干潮時には砂浜が出現するサンゴ礁もみることができる。

 

 上空から見た久高島と津堅島は、地形的には中城湾の外縁にできた一連のサンゴ礁の連なりの中の島であることがよくわかる。サンゴ礁の連なりは、南は港川遺跡のある(ゆう)樋川(ひがわ)河口から、北は与勝半島から北に飛び石状にある離島の先端の島―伊計島まで延びている。

 

 与勝半島はまた、北に金武湾の形成にもあずかり、半島からは浜比嘉島、平安座島、宮城島、伊計島が接するように湾口に伸びている。これらの島々は、現在では道路や橋が整備され繋がっている

 

 中城湾の海底地形は、水深30mほどで平坦地形が卓越し、海岸周辺ではサンゴ礁が発達している。このような海底地形の特徴から、湾全体が太平洋の波浪の影響を受けにくい比較的穏かな海面であり、歴史的にもこの海上をめぐる交通が活発であったことをうかがわせる。

 

 中城湾を中心としてグスクの分布に注意すると、本島側には規模の大きい代表的なグスクが位置している。これらは立地的にも丘陵の最高点に築造され、あたかも互いに覇権を争っているような占地が認められる。

 

 代表的なグスクは、与勝半島の勝連城から、南に下って中城城、大里城と知念半島ある知念城、垣花城へと連続している。これらの城主は、それぞれこの地域の首長であって、琉球が1406年に統一され、首里城を中心とする国家体制が確立されるまで、戦国時代を戦っていたのである。

 

 ところで、中城湾の外縁に位置する久高島、津堅島、浜比嘉島、平安座島、宮城島、伊計島には、規模の小さなグスクがそれぞれに築かれている。當眞嗣一は「離島の小グスクについて」を発表しているが、本島側の大規模グスクとの関係については触れていない。

 

 中城湾を中心に据えてこれら大小のグスクをみると、この湾を押さえることが即ち、太平洋への出入り口の拠点を確保したことになるのではないか。勝連城跡の発掘調査の成果は、ヤマトとの交易がほかの大規模グスクに比較しても頻繁であったことを示している。

 

2.ウルマンツァー

 

 まさかこのようなものまで沖縄にあったのか、というのが実物を前にしての感想である。比嘉繁三郎さんが私家版として出版していた『津堅島の記録』に写真で紹介していた。

 

 ところが、前嘉保京子さんが保管していた。明治19年生れの大城(おおしろ)(かま)()おじいが作ってくれたものという。

 

 これは雛人形に代表されるような人形代(ひとかたしろ)の一種ではないのか。人間の身体に付いた穢れなどを、形代に移すことにより生命が更新されるという信仰である。

 

 ウルマンツァーは全長20cmほどで、2体あり頭部は三角形と丸形の2種類がある。三角形は男、丸形は女を表現しているという。これで一対である。顔の表現はほぼ同じで身体はススキで衣服の代わりに全身を覆っている。男は弓を持ち、女はなぎなたを持つ。前嘉保さんが保管する女は残念ながら失われていた。

 


(ウルマンツァー ユウナの木でつくられている。柔らかくところどころ欠けている。左が弓を持ち男の人形である。)

 

 ウルマンツァーが使われたのは、旧暦12月1日(『勝連村誌』1966による)のムーチー(鬼餅)の日である。沖縄独特の餅をサンニン(月桃)の葉に包んで子供たちの成長を祈って食べる行事である。鬼餅には食人鬼となった兄を妹が退治したという説話が広く流布している。

 

津堅島ではムーチーを煮た汁を家の門や屋敷の四隅に撒いて、鬼の足を焼いて追い払った。また、餅を食べたあとのサンニンの包みがらを十字に結わえて、門や家の入口に吊るしたという。

 

 前嘉保さんの説明によると、このときウルマンツァーの口にもムーチーを付けてやり、十字に結わえられたサンニンの包みがらと一緒に吊るされたという。以前はこの日に牛を屠って、のど笛を左縄に結わえて、村の入口に張り渡したようである。シマクサラシの行事に通じたことも同時におこなわれていたのである。

 そして翌日にはこの人形を使う遊びをしたという。このため、これを海に流すとか焼くということはしなかったようである。

 

 ムーチの食べ滓を十字に結わえて軒下などに下げるのは、魔物の進入を防いで子供の成長を促すことを祈願したことが窺える。

 

 ところで、多和田真淳さんは金久正さんの「奄美自然と文化」を引いて沖縄のムーチーを紹介しているが、そのなかに「餅包みける、山ガトウの葉にて、鬼といって人形作り、家数庭に立、並八つ手と申て十文字に作り、家数戸口戸口に掛申也。由来不伝」。八つ手は伊是名島ではウニゲーシ(鬼返しのことか)という。

 

 ここに引いた人形が、どこで使われていたのか不明な点が多いものの、金久正の他例から、沖縄本島の東シナ海側の離島での事例であることが推測される。

 

 沖縄本島名護市久志では、昭和59年に聞かれた話にも、ムーチーの日にオニバチローといわれた人形のあったことが語られている。オニバチローは玄関の戸口に立ててムーチーの茹で汁を足元にかけたという。

 

このように、人形代の事例は津堅島だけにあった孤立的ものではないことは明らかである。またこの人形に対して、鬼であると考えられていたことも重要な資料である。津堅島では何時ごろからか、この鬼が弓やなぎなたを持つ人間に変貌したのである。

 

3.アダンの荷車

 

 アダンは沖縄の海岸地帯に育つタコノキ科の植物で、直径15〜20cmほどの丸い実である。一つの果実と見えたのは50個ほどの小さな核果の集まりで、表面は鎧のように硬くごつごつとしている。

 

 これが熟してくるとオレンジ色となり、近寄るとほのかに甘い香りが漂う。そして一つ一つの核果が分離して地面に落ちるようになる。

 

 多良間島の浜で見たアダンは核果を落としている最中であった。核果の一部に柔らかい部分があり口に含んでみた。苦みはなく食べられなくはないが、匂いほどには甘くはない。子供のころおやつに食べたと話してくれた人がいた。

 


(ホートガーの近くにあったアダン林の実。オレンジ色に熟している。しばらくすると核果が落ち始める。食べごろである。

 

 さて、アダンの実はお盆の供え物として、沖縄ではかつて広く使われていた。現在は輸入された青っぽいパイナップルに変わった。

南風原町(はえばるちょう)山川の盆行事について「15日のウークイ(祖霊送りの日)の時はお供えを下ろして、門の入口に供え、来年またいらしてくださいと言いながら、門の前からパイナップルを転がす。昔はアダンの実を転がしたという。」

 

 ここにはなぜパイナップルを転がすのか。昔はアダンの実を転がしたのであるが、残念ながら説明されていない。『勝連村誌』では、2個のアダンの実を仏壇に供えることを記すが、やはりどのように処理するか触れていない。

 

 しかし、津堅島の新屋 功さんの説明は明快であった。つまり、ウークイは祖霊が後生に帰る日であり、ご先祖様はお土産をアダンの実の荷車に積んで帰るのだという。だからアダンの実は2個あり、お盆の行事が終わるときに門の前から転がすのだという。

 

 転がしたアダンの実は、いずれは始末されることになるが、しばらくはそのまま放置されるという。このアダンにはなにか忌みきらうものがあり、遊び道具にはしなかった。

 

 津堅島の近くに平安座(へんざ)島がある。現在は海中道路により本島と繋がっている。ここにもアダンの実と盆行事に興味ある事例が存在した。

 

 『沖縄民俗』8号には平安座島の子供の遊びとして、「集落はずれの端を境に、東西に別れ石投合戦をする。」という報告がある。これについて、この島に在住の金武川清吉さんに詳しい話をうかがった。ところが内容が違うのである。つまり、この遊びはお盆のウークイが終わったあくる日の早朝におこなったという。しかも、石ではなく供えられたアダンの実をほぐしたものを投げあったという。場所は集落を東西に分ける川であり、ここにも案内していただいた。川は残念ながら道路の下になっていた。

 

 いずれにせよこのアダンの実の石合戦は、盆行事の延長としてとらえられることを示唆している。

 

 南風原町(はえばるちょう)喜屋武(きゃむ)には、4月のアブシバレー(畔払いー虫送り)の日に「喜屋武と本部の子供たちが両集落の境界あたりに集まり、石を投げ合って遊ぶ習わしであった。」という。

 

 アダンの実から、盆行事の石合戦にまで展開したが、今後石合戦をキーワードにすればどのように展開するか楽しみである。

 

.貝の呪術

 

 津堅島の集落を散策していると、屋敷の門の左右にシャコガイが口を開けて外を向いているのに出くわすことが多い。これは貝の口縁がギザギザにあぜているところからくる、魔よけとしての呪具である。シャコガイの大きなものになると、1mを超えるものも生息しているようで、これに脚を取られると抜くことができないとまことしやかにいわれる。きっと魔物も寄せ付けない呪力があるのであろ。

 

 多和田真淳は、沖縄本島国頭村(くにがみそん)の事例として、魔物や幽霊が出る屋敷での対処にアザカという植物とシャコガイを用いることを報告している。

「そこでは(国頭村安田(あだ))魔除けにアザカを植える習慣が昔のままに残っていた。アザカを植える方法は、魔物や幽霊の出る屋敷の、門口の道路面に穴を掘って、シャコガイの合わせ口を天に向けて埋めるのである。埋める前にシャコガイの腹の中に、ダシチャクギという木片(大抵アデクの木片を使う)をあらかじめ入れておくのが普通である。」という。

 

 つまり、ここでは屋敷の出入り口に貝の口を上にして埋められたのである。まさに鬼の足を食らう万全の方法なのであろう。

 

 ダシチャクギとは、ダシチャという堅い木で作られた釘のことで、魔除けにはしばしば十字に結ばれて使用された。

 

 『与那国島誌』は、病魔退散の祈祷で門に注連縄を張り、その中央に約20cmのダシカクデ(ダシカの木釘)2本を十字に縛ったものを吊るし、「悪魔よ、再びこの屋敷内に入ってきた時は、ダシカグサン(杖)で打ちのめし、それでも聞かない時には、このダシカクデで大地に打ち込み、身動きできないようにするぞ。」という意味の呪文を唱えるという。

 


(屋敷の角近くの堀の下で固定されていた。門に付けられているものも多く見られる。)

 

 国頭村安田の用法は、実はシャコガイとダシチャクギの二重の呪力に期待した強力なものであった。また、津堅島で見られるシャコガイを門の上に置く方法より、地面に埋める方法がより古い使い方を示しているようにおもわれる。

 

 スイジガイ、クモガイ:どちらも貝の本体から棘状の突起が長く伸びた巻貝である。スイジガイは突起が両側に6本あるのに対して、クモガイは片方に7本の突起をもつ。方言名をともにイチマブヤーといい、あまり厳密な区別はしていないようである。

 

この貝は紐で結んで屋敷の隅などによく下げられている。多和田真淳は昭和の初期まで、ものもらいに罹ると豚便所の軒下に自分で吊るして、無言のままあとも見ずに帰ってきたという。

 

 シャコガイもスイジガイもイノーの中で採集される貝である。干潮時には膝下ぐらいの深さでたくさん獲れたものが、シャコガイにいたっては、いまは養殖され潮の香りの立つ食材として提供されている。

 

 5,初起(はちうく)津堅島の旧正月

 

 それにしても津堅島は興味深い島だ。沖縄民俗では与勝半島地域は、古い民俗を残しているといわれてきたようだ。表題の旧正月におこなわれる、初起しの儀礼も津堅殿内(どぅんち)の庭で、男女に別れての問答がおこなわれていたという。

 

 この民俗をどのように考えたらよいのか今は暗中模索である。貴重な記録を残した安陪光正さんのルポを引用させていただいてこの民俗を紹介する。(比嘉繁三郎さんも報告しているが、全文津堅方言である。適宜引用した。)

 

 午後5時ごろに、津堅殿内の庭にノロと神役の女たちと、村の役員である男たち20人ほどが互いに向き合って席につく。村人は南を向き、女たちは東を向く。

 

 一同が席につくと男たちは、三味線に合わせて今年の豊作を祈る歌を2,3回繰り返し歌ったそのあと、各自が持参した重箱のご馳走の中から3品ずつ出し、それをノロが2つの御膳に盛った。これを新盛(しんむい)という。

 

 新盛は2人のノロの前に供えられたが、ノロは松、竹、チバ木(しば木―ヤブニッケイ)大根、菜の花、ソテツの青葉、いも蔓の7種類の草木を一つに結わえて、ご馳走の上に立てた。このあとご馳走の前でノロ(女)と、男たちの問答が始まるのである。

 

 男「お願いがあって、私たち村人がここに参上いたしました。」

  「そのお盆のご馳走に立ててある草木は何ですか。」

 女「お答えいたします。こんなに山のようにご馳走をお供えいたしましたのは、恩納岳   の山の木が繁りあっているように、昨年よりも今年はさらに食べ物が豊かになって、幸せな世になりますようにとのお願いでございます。」

 男「お供えの松は何のためですか。」

 女「お答えいたします。この若松のように、昨年よりも今年は津堅島の人たちが、老いも若きもみんな若がえって、元気になりますようにとのお願いでございます。」

 男「お供えの竹は何のためですか。」

 女「お答えいたします。竹は互いちがいに順序良く枝を出していますが、津堅島の人たちが、このように仲良く幸せに暮らしてゆけますようにとのお願いでございます。」

 男「お供えのチバの木は何のためですか。」

 女「お答えいたします。チバはチバル(頑張る)に通じます。津堅島の人たちが、仕事にしっかり精を出して、速く、てきぱき仕事ができますようにとのお願いでございます。」

 男「お供えの大根は何のためですか。」

 女「お答えいたします。津堅島の人たちがさしている真鍮のかんざしを、津堅大根の白い花のような銀のかんざしにしてくださいますようにとのお願いでございます。」

 男「お供えのナラリ(菜種)の花は何のためですか。」

 女「お答えいたします。昨年銀のかんざしをさした人は、今年はこの黄金の花のような金のかんざしにして下さいますようにとのお願いでございます。」

 男「お供えのソテツの青葉は何のためですか。」

 女「お答えいたします。ソテツの青葉はまっすぐにのびて、そろって小さく葉わかれをしています。津堅島の人々の心も、この葉のように率直に、お互いが協力して、助け合ってゆけますようにとのお願いでございます。」

 男「お供えのイモヅルは何のためですか。」

 女「お答えいたします。このイモヅルのようにしなやかに、のびのびと、津堅島の人たちが思いやりのある、やさしい心を持つことができますようにとのお願いでございます。」

 

 以上の問答が終わると、神女がジャガイモの一杯入った大ザルを頭の上に乗せて、男たちの前に進んだ。そして、ジャガイモを地面にこぼし、拾ってはまたざるに入れることを繰り返した。それは、持ちきれないほど稔った豊作を島人に与えることを約束するものだという。(比嘉繁三郎さんの報告では、このあと同じ問答を入れ替わって繰り返すという。)

 

 小一時間で終わりに近づくと、三味線を弾き、太鼓を叩いて皆がかわるがわる広場でカチャーシー踊るのであるという。 座間味島阿佐のハチウクシーは、夜が明け切らないうちか、誰にも会わないうちに一家の主人が鍬を持って畑に出かけ、2,3回鍬を打ってから帰宅したという。

 

 日本各地でおこなわれた正月の初起こしでも模擬的に田畑を耕して、豊作を祈願するいわば家レベルの儀礼であった。 津堅島では、神アシャギの庭で集団儀礼としておこなわれ、それを問答という形式により神に豊作を約束させるところに特徴があるようで興味深い。

 

 正月儀礼を問答形式に求めた淵源は何であったのか。

 

 6.家焼き

 

 『朝鮮王朝実録』の世祖8年(1463)には、朝鮮国から琉球国に派遣した使者の報告を記している。この報告は琉球の当時の民俗が窺われる資料である。

 

祀神の礼を問う。答えて曰「国に神堂有り。人之を畏れ、近づきて之を視るを得ず。若し嫌人有らば、則ち巫に憑り、人、神に祝る。巫、神語を伝えて曰、当に其の家を焚くべし。」

 

赤嶺政信さんが講義資料としたものである。ただ、この資料ではどのようなことが契機となって家が焼かれたのかわからないが、神罰として家を焼く行為があったことは確認できるだろう。

 

 もちろん、現在の沖縄民俗では実際に家を焼いたことの報告は見出せない。ところがかつて実際に家を焼いたのではないか、ということを窺わせる事例には接することができる。『民俗』3号は津堅島特集として報告している。

 

ヤーザレー(家浚え):葬式がすんだ夜おこなう儀礼で、葬式の帰りにマブイ(魔物)が一緒に家まで付いてきているのを追い払うのである。これにはブイムチャーというウーウーと唸りをあげる道具を使うのであるが、ウルマンツァーの話しをしてくれた前嘉保京子さんの子供のころは、ゾッとするとても気持ちの悪い音であったと話してくれた。

 

これを振り回して拍子木を叩き、ホーホーと大声を張り上げながら、葬式の通った道を集落のはずれまで走ったという。

 

 ヤーザレーが済み喪家に帰ると、茅葺の家では軒の端からひとつかみの茅を抜き取り、これに火をつけて燃やしたという。

 

 本部町瀬底島にもよく似た儀礼があった。葬式の夜のマブイウーイの後に集落のはずれで、葬列が通った道を遡って、そこのアジマー(十字路、または三叉路)において、棺を作ったときの木屑と、葬家の屋根の四隅から取った茅を一緒に燃やしたという。

 

 酒井卯作さんは、私たちには死者に対する強い死穢観念があり、徹底して死者と断絶しようとする行為があるという。その合理的な解決方法として、家を焼くことまでは言及しないものの、家を放棄することや、死者の置かれた寝床の床板やその下の土を入れ替える事例を提示している。

 

 また、火の神が天から降りてきて家を焼く話しが、沖縄本島から宮古・石垣にかけて広く伝承されている。

 

 宮古市伊良部島では、「天の神様の使いが家を焼きにくるが、嫁がかまどのあたりをきれいにしており、水瓶に水もはってあるので、焼くことができない。使いの神様は何度来ても焼けないので、その家の人を起こし、「家の四つの隅から茅を取って庭で燃やし、大声で火事だと言いなさい。」と言う。家の人が言われたとおりにすると、使いの神様はその煙で天に昇り、家を焼いてきたと報告する。それで新しい家を建てると、家の隅からちりを集めて庭先で燃やす。」

 

 この話しの家の四つの隅とは、茅葺き屋根の四隅の茅のことであろう。死者が出た喪家での家浚え儀礼に通底するようである。

 

 また、宜野座村惣慶(ぎのざそんそけい)では、ヒーゲーシという集落内での火事の後処理に興味深い儀礼がおこなわれた。

 

 火事のあった3日後の夕方、村中の家が門に水を張った桶を置いた。集落の西端にある石獅子(惣慶では石敢当と呼んでいる)の近くに茅葺きの小屋が建てられ、火災のあった屋敷から、ホーハイ、ホーハイと叫んで鳴り物を鳴らしながら石獅子まで行き、そこで小屋に火を放って燃やし同様に叫んだという。

 

 このように、家が焼かれる契機として、@家そのものが死穢を被った。A火の神が祀られている台所周辺を汚くしていた。B家が火災を受けた。などの類型化ができよう。しかし、原理的には家そのものが穢れたことに対して、その解決方法としての家焼があった可能性が類推される。

 

 これ以外に、特に本島南部地域には、ムーチー(鬼餅)に関連した行事のなかで、仮小屋が焼かれる事例が広く分布していることもわかった。このような民俗をも加えると、そこに通底する原理とは何なのか課題は多い。

 


佐敷町のムーチー小屋。子供たちにより茅などで立てられた。ここで持ち寄った材料で料理を作って食べたり、いろいろな遊びをやったようである。旧暦12 月9日の夕方には燃やされた。)

 

 7.平安名(へんな)のパーパーターシンカ

 

 津堅島へは与勝半島の先端、平敷屋(へしきや)港から船に乗ることになるが、この半島の中央に字

平安名(へんな)がある。ここの葬式はかって死者の廻りに座って死を悼む歌―葬式のウムイを歌うおばあさんたちがいた。この人たちをパーパーターシンカあるいはハーメーター(村誌―役目を持つ婆さんたち)と呼ばれた。職業的なプロではないが、ノロを中心として組織された女性集団で、村の祭祀や葬式のみならず、家の新築祝い、墓の新築祝いなと村のすべての行事に参加して歌ったという。

 

 写真のCDジャケットは、比嘉悦子さんたちが中心となって、パーパーターシンカが伝承してきた100曲近い歌から神歌、行事歌、わらべ歌など36曲が録音された。

 

このような歌謡はかっては、広く各地で歌われてきたというが、ほとんど消滅してしまった。ここ平安名でも後に続く後継者がなく、このままでは消滅してしまうという危機感からの録音となったようである。

 

 葬式のウムイはCDでは歌われていないが、歌詞が採録されている。

 

一、むむとぅ年寄(とぅしゆい)がヨー うちんかてぃいめんヨー

  う(とぅ)()ちみそりヨー 阿弥陀仏ヨー ヨーオンナー

 

二、今(なま)たべる御酒(うさき)ヨー ただやあやびらんヨー

  (たま)黄金(くがに)(うや)ぬヨー あぬ()みとぅちヨー ヨーオンナー

 

三、(たま)黄金(こがね)(おや)やヨー いち()ちん()ぶさヨー

  煙草(たばく)ふく(えだ)やヨー ()してぃ(たぼ)りヨー ヨーオンナー

(意訳)

百歳のお年寄りがそちらへ向かっています。お取りもちください。阿弥陀仏。

今供えたお酒はただのお酒ではありません。大事な親があの世に持っていくお酒です。

大事な親はいつまでも見ていたいものです。煙草を吹く間だけでももう少し見せてください。(CD解説書から)

 


(記録されたパーパーターシンカの歌。沖縄民謡とはまた全く違う素朴な歌声が聞ける。)

 

 葬式のウムイの歌詞は、『勝連村誌』や『平安名字誌』では若者の場合など異なったバージョンがあり、CDで歌われた蔵當ヨシさんを訪ねた。

 

この婦人はノロを継承されていて、屋敷の一画には神アシャギが建っている。アシャギの石段に腰をかけて、葬式のウムイをお話しくださるうちに涙ぐまれた。親をなくされたときには、まだこのウムイを歌っていたと言われ、久しぶりにこの歌詞を思い出したという。ただ節をつけて歌うことはできないという。

 

 そして、パーパーターシンカは今も継続しているとのことであり、近く家の新築祝いに呼ばれて歌いに行くとのことであった。

 それにしても、葬送儀礼は火葬の導入とともに変貌してしまい、また我々の社会生活がムラ社会を大きく飛び越した結果、とても大切なものを同時に消滅させたことを改めて知ることになった。パーパーターシンカの歌に送られた親たちは幸せであった。


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©Takeshi Izumi
 2007/6
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