竹富島
 

1.ニーラン石と海上の神の道
 

 ニーラン石は竹富島の西海岸に立っている。すぐ向こうには小浜島、西表島がまじかに見えて、ここに立つと孤立した島でないことがわかる。浜の水際に立つ石は高さ120cm,幅60cmほどの自然石で石英片岩系の石であり、この島で産出する岩石ではない。旧暦8月8日には故事にならい、石の前で神司らによる世迎え(ユンカイ)の神事が行われる。
 

昔、大和の根の国からニーラン神という神が舟に乗って竹富島の西海岸に到着した。その舟には種々の種子物が積み込まれていた。ニーラン神が竹富島に上陸すると、竹富島の神の一人が、ニーラン神に会って、この島に持ってこられた種子物は、一応、竹富島において、ハヤマワリハイクバリの神に命じて八重山の9ケ村に分配するように一つご面倒を頼む、とニーラン神に話した。 
 竹富島の神は欲張ってなるべく多く竹富島に種子を分けたいとおもい、ニーラン神の持って来た種子袋からニーラン神の目を盗んで、一種の種子を草むらに隠した。(下略)」


 異伝ではニーラン神はニライカナイの神になり、また火種をもらったのもニーラン神であるという。
 


ニーラン石で竹富島西海岸に立つ自然石。この前でユンカイの神事が行われる。前の海に神道が開けている。前方は小浜島が低く、後方には山陰を見せる西表島である。

 島の北西岸を流れるウラミゾは、渡口フチというサンゴ礁の切れ目によって浜と通じている。この通路は「神ヌ舟ヌ道」とよばれる海上の神の道である。実際、南の島々の多くはサンゴ礁が発達して島の周囲を囲んでいる。この内側は湖面のようにほとんど波がない。ところが、このサンゴ礁で船は島に近づけないという、一種の障壁となって外界との交通には不便きわまることになる。しかし、島に降った雨水が流れ出るところは、サンゴ礁が発達せず、ちょうどよい出入り口が形成されることになる。この地点をフチ、グチ、ミゾなどとよばれ水路となる。


 ニライカナイは海のかなたの神の国であり、そこから人間世界を訪れてさまざまな豊穣、南島では世果報―ユガホーと呼び習わされ、海の神の道を通ってやってくるという神の世界が観念されたのである。

 神司たちは、ニーラン石を前にして懸命に「トンチャーマ」を歌いながら、両手を高く上げて、前方から後方へこぐような仕草を繰り返し島へ神を迎える。


 
トンチャーマの歌

「一 彼方から来る舟は 我々の殿内(とんちゃーま)の兄や弟たちだ

 二 東から来る舟は どんな舟か

 三 弥勒(みるく)()を乗せてこられる 神の世を乗せてこられる舟だ

 四 (たき)富島(どぅん)に入港して 仲嵩に繋舟して

 五 弥勒世を抱きおろし 神の世を抱きおろし

 六 六家の家ごと 軒の 軒ごと

 七 粟俵を積み重ねる ほどの豊穣の世を迎える」
 

 毎年夏至のころになると、太平洋高気圧が勢力を増し、南からの季節風が吹き始める。この風に乗って琉球列島の人々は大和旅へ出たという。そして秋風が吹く旧暦8,9月ころになると、穀物の種や鉄製の農機具を満載して島に帰ってきたのである。

 

2.悪霊を防御するーアールマイ伝承とサンー
 

 「アールマイという男が夜釣りに行き、沖に出て魚を釣っていると自分の目の前に舟が現れた。舟人から付近の港口を教えてくれと声をかけられた。『私は病魔の神である。舟一杯病気の種を載せてきた。この島の港口を教えてくれれば、そのお礼にあなたの畑に撒く農作物だけ特別に稔らせてやる。あなたの畑にススキの葉の先をひと結びに結んで目印にしておき、家の門には七五三の注連縄を張っておきなさい。そうしたらあなたのところだけは病の種は入れない』と、病魔の神はアールマイに答えた。
 アールマイは遠回りの船着場を教え、一足先に村に帰り、途中の道にある畑にはススキを挿し、村の入口には七五三の注連縄を張って病魔の神を入れないようにした。

 それ以後、竹富島ではアールマイの教えとして畑に種まきをしたときには結びススキを挿し、畑には『アールマイ ヌ ノールフキ(アールマイの稔る茎)』と唱えて豊作を祈るという。また、病魔祓いには村の入口に注連縄を張ったという。」
 

 ススキを畑に挿したことは、これまでいくつも見てきたが、病魔の神の教えが発端となる説話を伴うのは竹富島だけだろう。
 

 前本隆一さんは、ススキはアルマイフキといい、3本が組みになって畑に挿すのが正式であるという。すなわち1本は天の神、1本は地の神、あとの1本はアールマイの神に対するものである。
 

 竹富島の最も盛大な祭りは、1977年に国の重要無形文化財に指定された種子取祭であろう。世持御嶽の庭で催される各種の芸能は特に有名である。
 

しかし、この祭りは、祓い清められた畑に種が蒔かれて豊作を祈願するところにある。すなわち、正確にはこの祭りの49日前の土祭り(つちのとゐー己亥)から始まる。
 

 この日は、畑からススキの芽を取ってきて屋敷の四隅に挿し、土地の神に家内安全を祈るという。翌日は節振舞といわれ四つ組みの膳の料理が振舞われる。来年もまた豊作で食膳をにぎわしてくださいという意味が込められる。この日は福を迎え入れることは何であれ大変喜ばれたが、出すことは嫌われたという。
 

3日間は厳重な物忌として畑仕事はせず、物音は立てなかった。祭りは鍛冶屋の「つち」の音をもって終了した。
 

 そして、49日目の「つちのえねー戊子」の日から10日間の種子取祭が行われた。各家の種下ろしは、戸主により執り行われヤスバ粟、麦、高キビ、キビ、白餅粟の種を畑にもっていき、ヘラで畑を耕してそこに種を撒く耕作模擬儀礼である。それが終わると大本御嶽に向けてススキを立てた。
 

 畑での種子下ろしが終わると、その帰りには必ず花のない繁茂したススキを刈り取って家に持ち帰った。ススキは一番座の床の間に飾られたのである。
 

 一番座のススキはおそらく豊作を確実に実現してくれる神の依代として生けられた。

 

3.サーラ田伝承
 

 遠藤庄治さんは、平成7年に竹富島で昔話の調査を行っていたが、明治41年生れの高那さんから,西表島までいって水田を作っていた話を聞いていた。「出作りはこっちからは大きなまっすぐの木を彫りぬいたくり舟で行きますから、そのくり舟はもうほとんど竹富の各家庭がもってましたよ。あれはもう出作りに行くのにもう自転車の代用だからね。行くときはいつもやっぱりこの一週間ぐらいの食糧を持ってですね行くんです。それで、西表で泊ります。出作り小屋は小さな茅葺でですね。それをもう隣り近所で2軒ぐらいで共同で作ってですね、一緒に寝泊りして、また後でもうどんどん米を余計作ろうとすれば自分だけで作ったりして、農具やなんかはそこに置いてしまうわけです。(下略)」
 

 西表島の古見までは距離にして18kmほどである。現在では20分の船旅であるが、くり舟となればいかほどの時間を要するのか。
 

 西表島は現在でも、沖縄においては最も稲作が盛んな土地である。一昔前は西表島への出作りが、竹富島のほかにも黒島や波照間島からもさかんであった。
 

 ところで、竹富島にはかってサーラ田という水田で稲作が行われたという伝承がある。
 

「昔、竹富島に仲嵩という山があった。竹富島はその山から流れる水でりっぱな田圃を作り、米がよく取れる島であった。

 竹富島の一農夫は田圃を作り、働くことしか知らなかった。その農夫の妹は島の神司を勤めていた。妹は常に兄へ『米はあなたの力だけでできるのではありません。天からの恵みの雨があり、山があり、田圃があって始めて豊作が得られるのです。毎年収穫したらお米のお初穂を必ず神様へ差し上げなさい。』と言い聞かせていた。

 ところが、兄はたいそう欲が深く、神への信仰心もなく、新米を収穫しても妹の司へは米のお初として一番悪い米粒の糠2合しか差し出さなかった。

 妹はたいへん怒って私を馬鹿にしているとのことで早々神様に糠米を差し上げ、神からの教示を待った。

 するとすべてに感謝のないものには田圃を作らせることはできないと、神は妹に命じて機織り機のアジクチに仲嵩を乗せて、隣の小浜島にすくって投げた。こうしてできたのが小浜島の大嵩であるといわれている。

それからあとは、竹富島には山がなく、田圃がなく、米が取れず、欲の深い兄の作っていた田圃にはサーラという畳の原料の草が生えたので、村人たちはその田圃をサーラ田と呼ぶようになった。竹富島の仲筋井戸の付近を古老たちはサーラ田の跡といっている。」(p8上勢頭)

 

手前のコンクリートに囲まれているのは、ナージカーという井戸である。旱魃の折、犬の尻尾が濡れているのに気付いて井戸が発見さ れたという。この向こうの一段下がった草地がサーラ田の伝承地である。
 

前本隆一さんはナージカー(仲筋井戸)の前面に広がる草地であるという。現地はちょうどンブフルの丘の麓という位置にあたる。道路面からは低地となり湿地的な景観を呈している。明治20年代の古地図は草地の表現をとるだけで、この地域で稲作が行われた確証はない。しかし、久高島でもかって稲作が行われたという伝承があり、隆起サンゴ礁の小さな島でも、稲作の可能性を求めての試行錯誤があった。
 

小浜島では、大岳(標高99,2m)の裾野で谷間を利用した水田を見ることができた。

 

4.島の創生と女陰石
 

竹富港からまっすぐ集落に入ると目立つことのないウタキがある。アガリパイザーシのウタキである。ここが竹富島の造られた聖なる場所であるのか。掃除していた婦人に聞くとこのウタキではもう祭りはないという。

 

竹富島の創生伝承地。アガリパイザーシの御嶽があり、御嶽の中は巨大な自然石が積み重なっている。
 

昔、ティンガナシウウミヨウガミより、人間の住む島を造ってこいと仰せつけられたシンミカナシと、山を築けと仰せ付けられたオモト様の二神が天から降りてこられた。

シンミ様は広い海の中にあった小さい岩に降りられた。その岩はアガリパイザーシの岩といわれ、島の中央部の清明御嶽の東方にある。その岩を中心として付近の石や砂利や土砂を盛り上げて作られたのが竹富島である。(下略)」
 

このあと二人の神様は、石垣島や八重山の各島を次々に作ったのである。このようなことで、竹富島は八重山諸島の中で最初に作られた島と認識され、また、二人の神様は清明御嶽で祀られている。
 

アガリパイザーシは道路から一段上がって、丘の上には花崗岩系の自然石が累々と積みあがっている。地質図によると石垣島と共通する基盤岩が部分的に露出している場所である。ここが竹富島の中心軸ともいうべき最初の地と観念された。
 

天降りの神による島の創生の物語は、八重山地域まで広く流布した国土創生神話なのである。
 

また、ここにはもうひとつ注目される神話が伝承されている。
 

 女陰石と千人の島

「昔々、竹富島に女神が住んでいた。この女神は竹富島の人口を栄えさせたいと思っていた。そのころ、八重山島で一番徳の高い神が、石垣島の高いオモト山の頂上にいた。オモトテラスというその神を、各島々の神は遠いところから見上げて、深く拝んでいたが、竹富の女神は、自分の陰部をテラスの神に向けて平気にしていた。

『これは不思議なことである。女の一番大切な陰部を神に見せるとは、何か思うところがあるのか。』と竹富の女神に問うた。女神は、『竹富島の繁盛をお願いするため、人間の生まれる女陰をオモト大神にごらんいれ、大神のあたたかいお手で、私の陰部をなでてくだされば、人間が大繁盛する島になると思います。そこで大変失礼ながら、オモト山に女陰を向けている次第です。』と答えた。

 オモト大神は女神の希望通り、女陰を神の手でなでおろした。それから竹富島には千人もの人間が生まれるようになったという。」
 

 太陽の精を受けて受胎し、また太陽の神の手がさわったことたで受胎した神話に共通する伝承話である。八重山諸島では石垣島に聳え立つ於茂登岳(526m)が聖なる山、神々が住まう山として崇められてきた。この神による島人の創造となると竹富島の人々は当然、於茂登岳の神に帰属するものと考えても不思議ではない。

 

5.ヤギを屠るを手伝う
 

ヤギは昭和30年代にはニワトリやウサギなどと一緒に飼育され、その世話は子供たちの仕事であった。ヤギが我が家にいたのはわずかな期間であった。ミルクを飲んでいたように記憶している。ニワトリは卵を産ませて、祭りのときはつぶしてご馳走にしていたのである。このころヤギをつぶして肉を食したことはない。
 

沖縄は豚とともにヤギ肉がよく食べられている。祝い事とかサトウキビの刈り入れがすんだときなどに食されることになる。豚は鳴き声以外は捨てるところがない、などといわれるが、ヤギも同様であり血の一滴まで調理されることになる。
 

ヤギは沖縄本島ではほとんど見ることはなくなったが、多良間島や竹富島、波照間島などでは、集落を外れると草むらの一画に粗末な小屋があり、4〜5頭が飼育され独特のにおいがあたりに漂っている。
 

さて、今夏の八重山調査においてヤギの解体作業に立ち会うことができた。現在では個人がかってに家畜を屠殺できなくなったという。このため、ここでは個人が特定されないような記述にしたい。
 

ヤギは3歳のメス。体重は約60kgという。2,3日前にハチに刺されて食欲がなくなったので屠殺するのだという。
 

集落から離れた飼育小屋で、手伝いの若者との作業である。
 

最初にヤギの頚動脈を切って血が鍋一杯に集められた。これは料理に使用する。実はこのころは、現場に到着しておらず聞き書きである。
 

その後、ガスバーナーで全身の毛を焼いて丸焦げになってしまった。このあとは浜に出ての解体作業と、自宅での煮込み作業である。
 

浜での解体と洗い
 

軽トラックで浜まで運ばれ、海水につけながらの作業になった。解体の手順を記すと、ヤギは腹を上に向けて横たえられ、丸焦げの胴体はたわしできれいに洗われた。解体作業人はお尻のほうに位置取ったが、この位置関係は内臓を取り出すまで変わらなかった。
 

最初に包丁でお尻の部分を円形に切り込みを入れ、ここを基点として腹の正中線に沿うように腹からのどにかけて包丁が入った。
 

そして、首の部分で頭が切断され海に投げ入れられた。解体作業人は、頭部は竜宮の神様に捧げたのだという。ヤギの頭が波間に浮かんでいたが、そのうち竜宮の使いに引っ張り込まれるだろう。

 

波間にただよう山羊の頭。解体の最初に頭が切り取られて、竜宮の神への捧げものとして海中に投棄された。南島では人間界へのすべ ての世果報は竜宮からもたらされるという。この神に感謝するのである。
 

このあとは、のどから両手で食道を掴むようにして、そのまま内臓の中心部分まで引っ張り出したのである。両手でアバラ骨と内臓とを切り離していたのだ。なんという鮮やかな手並みであろうか。これで肉の部分と内臓が完全に分離した。内蔵は白い脂肪により厚く包み込んでいる。この間約15分である。海に出ての作業ということもありまったく匂いがしない。血も事前に回収しているので、海水を汚すこともなくきれいな作業であった。このあとは、内臓をきれいに洗うことがまっていた。手伝いの主たる仕事である。
 

四つの蹄と肺、脾臓、胆嚢は食べないということで捨てられた。胃の内容物は当然草であるが、10kg以上の重量があり圧倒的に巨大であった。腸も長く縦に包丁を入れ、内容物を捨ててきれいにするのは手間のかかる作業であった。海での作業は約1時間30分ほどである。
 

ヤギ肉の煮込み作業
 

沖縄ではヤギに限らず、牛肉、豚肉は基本的には汁物にして食べられる。焼肉にすることはないという。また、肉と内臓が一緒に煮込まれ、仕上げの段階で血(これも煮て固められている)も入れられる。味付けの基本は塩味である。

ここでは3ヶ所のかまどが用意され大鍋3個が据えられた。浜から持ち帰った肉は、大まかには、肉の部分と骨付き肉と内蔵である。これらは別の鍋で煮込むのである。肉類は2時間ほどのゆでとなり、その後、肉、骨付き肉とも細かく切り刻んでさらに1時間ほど煮込まれた。
 

特記したいのは、フーチバー(よもぎ)、タップナ(長命草)、ピャシー(島コショー)、ンガナ(にが菜)、ウンキョウ(ウイキョウ)の5種類の草が、ゆでの段階からそれぞれの鍋に入れられたことである。
 

午後4時ごろにすべての作業は終了した。塩とだしの素で味が調えられて試食が始まった。ゆでた段階の三枚肉と肝臓は、少しのスライス肉が作られた。これは塩でいただいた。
 

料理としても絶品であったが、ヤギの解体技術は父親から伝承されたものであることを聞かされた。また、草はフーチバー以外は、家の周りですべて調達された。しかし今では日常的に使われることはなくなったという。草といっても薬草であり、これらに対する知識も消滅するのか。
 

民俗的には、解体された頭部はまず竜宮の神に捧げられたことが注意されよう。しかしこの時唱えごとはなかった。
 

この一日の経験は、あらためて私の生存はまぎれもなくヤギの死をもって成立していることを思い起こさせた。血の一滴までおいしくいただく理由がここにある。

 

6.猪の下顎骨を祭る
 

沖縄には現在、本島の北部地域と西表島、奄美大島などにリュウキュウイノシシが生息している。本州のイノシシに比べてやや小ぶりの体形が特徴であるという。黒澤弥悦さんの「イノシシとブタ」には、石垣島のこととして、一人の男性が一頭のイノシシを担いでいる写真を掲載している。
 

ところで、国分直一さんの「南島古代文化の系譜」には、西表島大原の家の台所の写真が掲げられ「厨房に飾られたイノシシの下顎。正月に竜宮の神に送り返される。」とのキャプションで解説がされている。しかし、竜宮の神に帰すとはどういうことか具体的なことは述べていない。
 

イノシシの下顎骨が棒に挿された状態で、弥生時代の遺跡から出土することはよく知られている。しかし何に使ったのかその解釈は難しく骨は何も語ってはくれないのである。

 

佐賀県唐津市菜畑遺跡のイノシシの下顎骨の出土した状況。弥生次期前期(およそ2500年前)の遺跡で、下顎骨3個をこの棒に通した状態である。弥生時代の西日本の各地の遺跡から出土して、このころの習俗の一端をうかがわせてる。(春成秀彌「豚の下顎骨懸架―弥生時代における辟邪の習俗―」p.76『国立歴史民俗博物館研究報告第50集』1993)
 

そこで、今回八重山地方の調査の一環として、国分さんの古い写真を唯一の拠り所として西表島大原を訪ねた。地区の事務所で情報を聞くと、確かに昔はイノシシ猟をやっていた猟師がいたとのこと。以下はこの時の聞き取りをまとめたものである。ただし、猟師の方はすでに亡くなっていて奥さんからの聴取である。
 

この話は昭和20〜60年ごろの状況である。大原には猟の免許を持つのは2人であった。西表島には、猟師はこの大原と北の(ほし)(たて)、祖内にもいたそうである。猟場は縄張りのようなものはなく、全島くまなく歩いていた。普段はたんぼと畑を主にやってきたが、イノシシの猟期である、11月から3月のあいだはほとんど山に入っていたとのこと。
 

猟の方法はほとんどが罠をかけることで犬は使わなかった。猟は単独の行動で罠をかけるのに1週間から10日ほどかかり、そのあとやはり同日数放置してから仕掛けを見回りに行くという。これは人間の匂いを仕掛けやその周りから消す日数も入っているらしい。
 

このことから、月にすれば2〜3回、猟期全体では最大でも15回程度の仕掛けの見回りとなる。ただ、1回の山入りでは相当数の仕掛けをかけるが、年間では10数頭であったという。

また、イノシシは一回の猟で1頭、または2頭程度であって、1頭の時は生きたまま肩に担いで帰ってきた。そのあと、浜に出て解体したという。解体のときは特に下顎骨は大事にしたという。この家の場合は、下顎骨は袋に入れて保管していた。

 

これで国分さんが報告した写真は別の家ということになるが、奥さんはどこの家かは判らないという。

 

また、下顎骨は旧暦1月3日に解体作業をした浜にもって行き、竜宮の神に捧げたという。ただこの時もご主人がひとりで浜に行っていたため、浜での具体的な様子はわからない。
 

野本寛一さんは、石垣市川平で聴取したイノシシ狩の儀礼を記している。「イノシシ捕獲のためのオサエヤマ(罠)を仕掛けるために山に入り、仕事始めに木を伐る時、シャコガイを一枚持ってゆき、真っ裸になって、シャコガイで木を叩きながら、およそ次のような唱えごとをして豊漁を祈った。「自分は刀も刃物もない。食うものも着物もない。私がこれからこの山にオサエヤマを作るから、ぜひイノシシを99頭獲らせてください。100頭目には私がおさえられて死んでもかまいませんから、ぜひ獲らせてください。」ここでは山の神に対して、真っ裸になって祈願するというかたちである。しかも豊猟が約束された暁には自分が生贄になるという。狩猟の時の山の神、持って行くシャコガイ、狩猟の開始を祈る時の竜宮の神、いずれもイノシシ猟に係わる時は女性の神に守護されるという関係性があったようである。
 

イノシシ肉について
 

ほとんどが集落内で消費されたようである。興味深いのは、豚やヤギと同じように毛を焼いて皮の部分も一緒に、つまり三枚肉として調理されたことだ。
 

筆者の叔父は、鉄砲を使うイノシシの猟師であった。古い記憶によるが、皮の部分はよくなめされて、猟に出る時は腰のあたりに巻いていた。また、靴の外側にさらに靴のように加工して履いていた。これは寒さ除けと雪に対する滑り止めなどの効用があったのかも知れない。しかし、皮の部分を食べていたことはない。
 

また、イノシシ肉は暮れの贈答用として、あるいは正月のごちそうとして使用されたという。萩原左人さんは「宮古・八重山諸島の肉正月」で、肉正月とは沖縄諸島での主に豚を屠って正月を祝うという。西表島祖内の事例では、大晦日の晩にイノシシ肉が、他の祝い物と一緒に膳に盛られて祖先への供物とされ、同じものを家族が共食した。トゥシトゥリ(年取り)の膳は一年中で最高のご馳走とされた。
 

イノシシは害獣で畑や田の作物を根こそぎ食ってしまう。竹富島には現在イノシシはいないそうであるが、イノシシに対する呪文が残されている。
 

「まるてぃぬ神ぬ 乗りおうる 黒者 赤者や 底ぬ七底 頂ぬ七頂にどぅ居る 此所来らし たぼんな」

(解説)田に猪がやってきて被害を受けないようにと唱える。7本のススキを一束にして先のほうを五合結びに結び、2本は頭、2本は前足、2本は後ろ足、1本は尾として犬の形を作る。これを猪のよく通る道に置き、右の呪文を一息で唱え、息を3回吹いておけば田に猪は来なくなる。(P.264上勢頭)
 

 島に生きる人々の観念として、憎いイノシシであっても、竜宮からもたらされた豊穣の一つと考え、正月行事の大切な料理に使われた。そしてあけた年の最初の行事として、イノシシの骨を竜宮の神に返したのである。今年も大いなる豊饒がありますようにとの念願が込められた


 

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©Takeshi Izumi
 2007/7
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