宮古島市池間島、狩俣。 多良間島
池間島
1.フーフダとスイジ貝
フーブタは符札の方言名で、符は神仏の守り札である。奈良で発掘調査をやっていると古い呪符木簡がしばしばみうけられる。ここには中国の道教系統の民間信仰が流行していたことを示している。
沖縄では首里や那覇などの都会地でも、屋敷の門や石垣(あるいはブロック塀)の四隅など気をつけてみれば、このフーフダを貼り付けたりしている。25センチほどの木札に墨痕鮮やかに、その家を守護する神々の名前が書かれている。まさに現代に生きる木簡である。
写真1.玄関先にあるフーフダとスイジ貝が吊り下げられてる。新旧の呪具が家を守る風景も珍しい。
写真は池間島でみかけた民家の玄関である。大谷石が積まれた玄関には、両側を向き合うようにフーフダが貼られ、その奥の植木の枝にはスイジ貝が下げられている。新旧の魔物祓い具の競演である。
池間島で見たフーフダは、山里純一さんによると、本島
おそらく、ここの家人は普天間宮に赴いた時に購入したか、あるいは家屋を新築した時に求めたものであろう。知人によれば、フーフダは正月の初詣にお参りした折に買い求めるという。
波照間島での踏査でも、フーフダが屋敷を囲う石垣の四隅に立てているのを多く見ることができた。こちらは、
屋敷を守護する呪的なものとしては、このほかに「石敢當」がある。どうも中国では石に呪力があると考えたようで、沖縄では道が突き当たったT字路の壁あたりに、この石が置かれていることが多い。
本島
スイジ貝の呪力については津堅島4で触れたので繰り返さないが、このような事例は、屋敷を清浄にたもつことが、即ち日常生活を平穏に営むことの絶対条件であったと観念していたことは確かであろう。
これは、集落内でもあてはまることであり、後に話題にすることになるシマクサラシ儀礼などは、このような観念から発露された典型的な儀礼であろう。
2.天に昇る道
野口武徳さんの『沖縄池間島民俗誌』は、野口さんが1961年に半年にわたって池間島で暮らし、そこでおこなったフィールドワークの記録となっている。その4年後には、オランダ人のC,アウエハントによる波照間島での長期滞在のフィールドワークもあり、このころが沖縄民俗学の盛行期であったのだろう。
池間島民俗誌に、人が死ぬと霊魂は「北の部落の天へ昇る道」というところがあり、ここから天へ昇るという。このためか池間島の人にはその付近はおそろしい所とされている。続けて、霊魂と家族の別離の時は、「神と人の別れ」と呼ばれて、非常に早くやってきて、その後は漠然とした祖霊化し、個性は失われていく、とされている。
地図には確かに「天へ昇る道」というのが島の北端あたりを指しているのである。
池間島の民話
「天に昇る道」前川三郎さんの話
「ティンカイノーインツは、そこからもう偉くなった人が上に上がっていって行く所ですよ。これは、悪い人というのは昇って行かない。これはティンカイノーインツガマというて。あの「ガマ」は小さく言っておるでしょうね、普通は通い道というべきさあな。ガマがついているので、もう狭い道というわけだこれは。」と話された。
親泊フミさんも同じように、天に昇る道の話をされているが、そこは遠いから見たこともなければ聞いたこともないといい、野口さんが聞いていたとおり、村人にとっては知って入るけれど恐ろしいところとだと認識されている場所のようだ。
前川さんが語っている偉い人、悪い人とはどういうことか、あるいは親泊さんの言う怖いところというのはどのようなことか。
ここにはナカナイカニの神が座しているという。松居友さんは、この神は、島のすべての人々の運命や、行いに関する事柄を記した帳簿を管理するという。正月になると天界に昇り、天界の神々によって帳簿が吟味され、新しい帳簿によって翌年の人々の運命や生死が決定され、執行されるという。
このように、ナカナイカニの神は島人にとっては、日ごろの行状が直接生死に結びつく誠に恐ろしい神であった。
多良間島では、字仲筋からパカヤマ(グショーヤマ-墓地のこと)に入ろうとするあたりに、トンバラという大きな自然の岩が道筋にある。この岩はフダイシとも呼ばれ、死者がここで黄泉に行く手続きを行い、飛び込むときの踏み石であると観念される場所である。おそらくここには、後生に行く手続きを行う神が、かつては祀られていたのであろうと思われる。
写真2.多良間島の「死者がこの石を踏み台にして後生にいく」というトンバラ石。巨岩であるが、草刈などもタブーとされて自然の繁茂にまかせてある。ここから右側の道が墓場への分岐点となる。
沖縄の死後の世界観に、死後祖霊はカミになるということが広く言われていることは、各地から出版されている市町村誌(史)に記載がある。しかし、カミになることが具体的にどのような手続きがあり、どのような場所であるかを示すことは稀である。つまり、漠然とした観念の世界に留まっていることのほうが圧倒的に多いのである。
しかし、池間島のティンカイノーインツや、多良間島のフダイシは祖霊の入口として存在し、島人の運命を掌る神の存在も観念していたのである。
3.神の審判があったか
写真3.ヅンミヂャーである。中央に自然石が頭を出している。周囲にはシャコ貝がこの石を取り囲むように配置されている。現在は使われていない。いずれ土に埋もれて発掘される日がまたくるだろう。
写真3はなんとも奇妙な遺構である。現在はもう何も行われていないという。海岸の堤防上にいた男性に聞いた。ヅンミャーだという。何に使っていた場所なのか分からない。ここで伝承が途切れていた。ここも3日前にあったミヤークヅツできれいに掃除がされたという。とするとこれは立派な考古学上の遺構として認定できそうである。
ここの名称は色々と表記される。ジンミジャーといい、またミンミジャー、ズンミヂャーとも記す。方言表記の難しさゆえのことか。漢字はどれも吟味座をあてている。
さて、遺構としての面白さをここで記しておく。運がよかったのは年一回の祭りどきにきれいになったことで、普段は木や草に覆われて見えないという。
ヅンミャー(私が聞いた呼称である。漢字で座を付けているところからするとジャーが本来か。ヅンミジャー)は、10メートル四方をサンゴ石によって区画する平坦な広場になっている。中央より奥には1,5メートルほどの丸くした石が台のように突き出ている。石の回りにはやや大振りのシャコ貝が17個おかれている。
区画の回りにはシャコ貝、タカセ貝、サザエなどの貝殻が多量に散乱して、さながら貝塚を形成しているのではないかと思わせる情景である。
前泊徳正さんはかつてミヤークヅツの期間中に、集落の行政上、社会上など重大な問題があれば、四ムトゥの代表をこのヅンミジャーに集めて審議したという。シャコ貝は代表が座る位置を示しているのである。
この地はウイバル(上原)とよばれる、現在の集落からみると南の海にせり出した岬にあたる。この丘陵にはオハルズ御嶽と、少し離れてムトゥヤ(元屋)といわれる祭祀の時に使われる建物があるものの、一般の住宅はまったく建っていない。現在は原野が広がる台地である。
ここはシマをつくった祖先たちが、最初に住んだところと伝承されている地でもある。低木ではあるが、うっそうと繁った森が一帯を覆って、島人にとっては神聖な地として考えている。
ミヤークヅツは、この丘陵台地と公民館の広場を中心にして、旧暦8~9月の甲午の日から3日間行われる池間島の最も盛大な祭りである。
しかし、その祭りの期間中のにぎやかさに隠れているが、民俗誌にとって重要なのは、2日目に行われるヤラビマスという儀礼である。これは昨年のミャークヅツから、今年のミャークヅツまでに生まれた子供をムトゥの神に報告するという。具体的には2日目の未明に、ムッドマイヌカー(元泊の井戸)の水を汲んできてヤラビに水浴びさせる。この水をすで水浴びという。この水と神酒をもって該当者の家族が、オハルズ御嶽の先にあるムトゥヤ(自家が属するムトゥ)まで届けるという。
さて、この1歳未満の子供に浴びせるすで水についての民話が池間島に伝承されている。少し長くなるが紹介したい。
「昔ね、人間が天の神様に使われて巣出水をもって、天から下りてきたそうだよ。そうすると、疲れているもんだから、途中で寝ていると今度は蛇が死に水をもっててんからおりてきたそうだ。人間が持ってきたのはふ化する巣出水で、脱皮するわけだよ。蛇が死に水をもって来ながら見てみると、巣出水を持った人間が疲れて寝ているから、自分の持っている死に水と交換して、それを持って地上に降りてきた。
ところが、その巣出水を持ってきた人間は、寝ていて死に水になっていることが分からない。もう仕方ないから、この死に水を持って地上に降りてきたから、人間は死んでしまう。この巣出で水を持ってきたのは蛇だから、蛇はもう脱皮するでしょう。そして、人間は死に水を浴びなくちゃいかんでしょう。だから人間がこの巣出水を持ったままだったら、人間も脱皮して若返っていたかもしれない。」
このミヤークヅツで2日目に行われる、1歳未満の子供にすで水を浴びせることは、特別な水によってそれまでの不完全な状態から、人間への脱皮が行われたと理解できる。このあとムトゥの神に報告することで、正式な島人として認められるという二つの側面をみることができる。
かつては正式に人間として加入する聖なる儀式は、このヅンミチャーがその舞台でなかったのか、シャコ貝の中心にある石はバカバウ神の依代ではないかと考えられる。
その神とは、バカバウの神で祈願される方位は南であるという。バカバウ神は延命寿命の神、または若返りの神とされる。バカバウとは蛇のことで、まさに民話で語られた内容をミヤークヅツによって儀礼化されていると理解できよう。
宮古島狩俣
1.村を囲む石壁と門
鎌倉芳太郎の『沖縄文化の遺宝』には、当時(昭和2年ごろか)の狩俣集落が写されている。写真の中には石門も記録されていて、この集落は県道が整備されて車社会が訪れるまで、石垣で囲まれたムラ社会を形成していたのである。
集落は現在、県道230号線をはさんで両側に家が立ち並んでいる。かつては県道の北側に限り、碁盤目状に区画された東西400メートル、南北150メートルの内で屋敷を構えて、石門が3ヶ所に開いていた。
写真1.狩俣集落はかつて石垣に囲まれて、門が3ヶ所に開門していた。これは唯一残る東門。道路幅も車が通るように拡幅されているという。
集落の立地する環境は、ピシ道(神道)が通じるいわゆる神山を背にして南側に広がる。丘に上ると正面より少し左には大神島があり、太陽はこの島の右手から昇る。
下地和宏さんは、県道に沿ってコの字形になる石垣の囲みが想定されている。ところが、狩俣自治会長の池間等志さんは、県道からひとつ内側に入った道に沿って石垣がめぐっていたと話された。また東にある東の門の位置も違うという。
佐渡山正吉さんは、かつて旧暦2月の酉・亥・丑の三日間にムスソウズ(虫掃除)という行事が行われた。この最終日には豚の骨を縄に結び付けて、集落の主要な出入り口に張り渡されて魔物や、害虫、病気が入らないように厄払いをしたのである。
この豚骨を張る場所として、ンミャーのクインツ、東の門、西の門、ウキバイザーの4地点であったという。縄張り地点をトレースすると、下地さんが想定した復元ラインより内側の東西道路が浮かび上がる。まさに池間さんが指摘したラインである。
このあたりの家の屋号を検討しても、県道より内側の道に石垣が築かれていたと想定することが良いように思われる。
しかし、西門は昭和25年までは県道付近にあったともいわれ、佐渡山さんは、東西の石垣は、最後は県道のラインまで拡張されたのではないかと想定された。
石垣囲み歴史的意味
石垣で囲まれた集落とはどういうものか。いつごろに石垣が構築されたのかといった基本的なことは、考古学上の調査を含めて分からないことが多いのが現状である。
ただ、宮古島には狩俣以外にも石垣で囲まれていた集落の存在がいくつか知られ、それらはいずれも、中世の時期までに(1500年代)遡る古い集落だろうといわれている。
琉球は先島も含めて13世紀から16世紀の間はいわゆる戦国期であった。その中でいち早く統一されたのが沖縄本島を拠点とする中山国であった。
先島ではこのころ有力な地域首長による戦いがあったようである。その中にあって、最後のものが、1500年の八重山で繰り広げられたオヤケアカハチの乱である。この戦いには宮古島を統一したといわれる、仲宗根豊見親玄雅がいた。この乱を契機に先島は、首里王府の組織に組み込まれたのである。
戦国時代の大和盆地にも集落を環濠によって囲んだものがあった。その中には寺院もあり、神社も存在するという生活空間を作り出した時期がある。
このように、歴史的な背景を考慮に入れるとき、大和と沖縄の先島というまったく脈絡のない地域で、同じような時代に集落を囲んで城砦とする一時期があったとみてよいだろう。その後、大和も宮古・八重山も外部の勢力(大和は織豊政権、宮古・八重山は首里王権)により支配される側に立つことになる。
2.ムトゥ屋群
ムトゥは元、根源の意味であり、狩俣を立てた祖と考えられこのように呼ばれている。そしてムトゥ屋は最初に住まわれた屋敷であり、現在ここに住まう人はいないが重要な祭祀の場となっている。狩俣の人々はすべてムトゥに属しているという。
写真2.集落の要の位置にあるムトゥ屋群。現在は住宅としては使用されていない。この集落の始祖として祭祀の対象になっている。写真中央には屋敷囲いの石垣の一部が開口する状況。
自治会長の池間さんによると、その家に赤ちゃんが誕生した。あるいはどこかに旅行に行く。また学校に合格した。家を新築したなど祝い事や交通安全の祈願、無事帰ってきたときなどに、その家が所属するムトゥ屋にいき、祖神に報告するという。
このようなムトゥ屋が集落後方の神山の麓に集まっている。とくに集落の最高所で扇の要のようなところに位置しているのは、ウプフグ(大城)ムトゥ、ナーマ(仲間)ムトゥ、マイニャー(前の家)ムトゥ、カニヤムトゥ、ニスニヤー(西の家)ムトゥである。
鎌倉芳太郎は昭和の始めにここを訪れて、ムトゥ屋の詳細な図面をノートした。あらためてこのムトゥ屋群をみると、各建物は石垣で区画されてはいるものの、ムトゥ屋は石垣の一部を開けて通路としていることに気付いた。つまり、いちいち道に出る必要がないような屋敷の構成になっている。
ここの屋敷群と、これより南に展開している方形区画に囲まれた屋敷群の構成は全く違うのである。これは何を意味するのか。
最近の
金武正紀さんは、竹富島の遺跡のムラは12世紀末から13世紀は、屋敷を囲む石垣はまだ区画されない。次の15世紀前半から中ごろでは、石垣の屋敷割りが出現するものの、道路がまだないという。17,18世紀になりようやく現在の集落の形態をとると考えている。
これらの遺跡となったムラの発掘や測量の成果を参考にすると、狩俣にムトゥ屋群として現在残る一画は、道を介さないで屋敷が連結するという特徴により、中世の時期まで遡る可能性を示すのである。
狩俣のシマ建て伝承が残るムトゥ屋群が、別の視点で歴史の光が当てられる日も遠くないであろう。ここには現在に生きる考古学の資料がある。
3.狩俣の始祖神話
狩俣の神事の中心になるのはウプグフムトゥ(大城元)である。それは神女組織の最高位にあたる、アブンマ(大母)がここにいるからである。ウプグフムトゥに祀られている女神にまつわる神話が狩俣に伝承されている。
「テラヌプズという女神は、大浦の東方に天下りし、水を求めて西方に進み狩俣の北海岸にあるイスゥガー(井戸)を発見した。この水をもとにムラ立てすることにし、イスゥガーから上がった所のフンムイ(山の上)をムラの地と定めた。そこは海風が強くあたるところであったので、住居を今のウプグフムトゥの地に移した。
ある夜のこと、どこからともなく男神があらわれ、テラヌプズと一夜をともにした。男神はしばらくしてテラヌプズのもとへ通い続けていたが、そのうちにテラヌプズは身ごもった。男神は自分の素性を明かさなかったので、男神が帰るとき髷にブー(麻糸)を通した針を刺しておいた。
翌朝、糸をたどっていくと、イスゥガーの岩穴に通っていた。それから数ヵ月後に女の子が生まれた。生まれて四日目にテラヌプズは子供を抱いてイスゥガーに行き、岩穴に向かって女児の出産を告げ、子供に四日水を浴びせてくれるように頼んだ。すると岩穴から大蛇の尾がするすると出てきてイスゥガーの水を3回子供にかけた。」
イスゥガーは現在でも集落の西のほうにあるが、今は産湯につかうのは東門の外にあるズーガーである。しかし、神話で語られている四日目に水を浴びせることは、水浴(ミズアマシ)として、生後4日目と8日目の2回あったという。そして、10日目に産忌があけると、アガイテダをウガマスといって、早朝に一番座の縁側、または庭に赤子を出して太陽を拝ませたという。その日の夕方には子供の名前が付けられた。
写真3.東門の外にあるズーガー(地の井戸)。現在でも産湯を汲む井戸として使用されるという。水に濡れた鳥を見て発見された伝承があり、水神がまつられている。
ここには池間島でみられた、ミヤークヅツでの早朝のすで水を子供に浴びせる習俗と共通するものがありそうだ。
また、この神話で登場する蛇神とその正体を追うモチーフには、『古事記』神話の三輪山神話のモチーフと共通する。
三輪山神話は、イクタマヨリヒメのもとに男が夜ごと訪れて、ヒメは妊娠する。怪しんだ父母が男の素性を知ろうと、赤土を床の前に散らし、紡いだ麻糸を針に通して男の衣の裾に刺せと娘に教える。夜明けに見ると糸は戸の鈎穴をとおり出て三輪山の社に至っていたという。
この両神話の間にどのような邂逅があったのか、あるいはなかったのか知る由もない。ただ狩俣の蛇神も井戸を棲家としているところから、かつて水の神として祀られていたことが知れる。三輪の蛇は水の神としてあがめられた。この狩俣の祖神は日本の水神ともっと奥深いところで繋がっているようだ。
続々多良間島
1.アキバライ
アキバライ(スマフシャレともいう)は思いもかけず早朝から始まった。8月8日立秋はシマへの出入り口に縄を架けて、魔物や病気など得体の知れないものの侵入を防ぐ儀礼である。奈良では勧請縄といっていた。目的は同じだろうと思う。沖縄でもかつては広くおこなわれ、宮平盛晃さんによると現在でも288集落で行われているという。
多良間島の貴重なところは、この儀礼に使用される豚が特定の場所で今も屠殺されるところから始まることである。以前はどこでも同じであったようであるが、屠殺が行われることはなくなった。肉は商店やスーパー産である。
さて、話を始めに戻す。前日、多良間島に入り、翌日の行事の段取りは垣花さんから聞いていた。塩川と仲筋に別れてそれぞれで縄を張っていくという。当然それまでの準備も各々の場所で、仲筋はアマガーという井戸のかたわら、塩川はシュガーガーのかたわらという。4月のウプリ(虫送り)は、仲筋を見学させてもらったので今回は塩川にした。
写真1,縄を架けた根元で村の代表として祈願をする。写真の奥が村の外になる。
8日の7時ごろ民宿を出て、近くの自動販売機でお茶のペットボトルを買った。自転車での帰りがけに、突然に「ブヒィー、ブヒィー」という、あたりの空気をつんざく声が聞こえてきた。一瞬どうしたのか、なんの声か判断に苦しんだが、「シマッタ!」と声をあげてシュガーガーのほうに走った。豚が殺されたのである。「そんなことが早朝に行われるなんて聞いてないよ。」といっても遅かった。豚は井戸の傍にはもういない。聞くと解体場に運ばれたという。
区長さんの到着を待ち、行事の見学の許可をもらってから解体場へ急いだ。そこはに仲筋と塩川の両字から、豚が2頭持ち込まれてそれぞれ解体されていた。それに携わっている人たちは、4月のウプリで見知った方々もいて色々と教えを受けた。
準備その1
豚について・・村の人々にとってヤクバライとなる豚はいわゆる犠牲獣といえる。2頭は島で唯一の屠殺場を借りてそれぞれ手際よく解体されていった。今回は1歳の雄が村内の養豚家から購入された。雌雄は問題にされていないという。体重は60キロ以上ある。また、アキバライに使われる特別の部位というものもなく、三枚肉をゆでてそこから肉片として切り分けるという。本島で一般的に行われる、血を縄にしみ込ませるようなこともしない。血は料理につかわれ、頭部は皮をチラガーとして利用される。ここでも豚は、声以外はすべて食されるようである。
2時間ほどですべての作業を終え、軽トラックの荷台は肉と内臓を別々に入れた袋で一杯になった。まったく手際よい分業作業であった。4月に竹富島で羊の解体を手伝う僥倖に恵まれたが、沖縄の人たちのあふれる生活観を垣間見たひとときでもある。
そのあと、肉はそれぞれの祭場に持ち帰られ、午前中は肉のゆでと味付けなどが進行した。
もちろん、試食と称して茹で上がりの肉をいただいたことも記しておく。
準備その2
縄綯い・・縄の材料はカヤである。字長により10日ほど前から刈り取られ、陰干しされていたという。綯うにはちょうどよい柔らかさとしなやかさであった。長老たち6人がこの作業に当たっていた。12メートルほどの長さのものを12本用意するという。また、綯うときは穂先までいかないで少し残しながら繋いでいくという。これには穂先の鋭いところで魔物の目を突くのだという。はたして魔物に目があるのか。
また、この縄は一般的には左縄といわれる。長老たちも左縄のことはよく知っているが、右縄であった。作業が一段落すると木陰で談笑をしたり、後輩たちの準備を指揮していた。
昼 食・・以上の準備作業は塩川の風景である。11時半ごろに仲筋に行って作業を見学しようと向かったが、すでにすべてのことが終了し昼食の最中である。ブルーシートに座って一緒に食べろという。実行委員の一人が豚汁とおむすび2個、お茶を運んでくれた。朝の8時ごろからの見学であったので、遠慮なくいただくことにした。さきほど解体された豚汁はやはりおいしかった。
縄架けに同行する・・午後2時30分ごろ、塩川の祭場であるシュガーガーを出発した。縄架けは区長に限られるという。この時は3名と運転手1名である。
多良間島の集落は南北の中央道を境にして、東は仲筋、西は塩川に分かれている。このため、塩川は西半分の出入り口が担当となる。ただしこの南北の中央道についての入口は先着したほうが架けることになっている。
南から出発した。多良間中学校横の道でポーグ(村を囲む樹林)がきれるところである。すでに仲筋により架けられていた。このため大木公民館のところから始まった。縄の中央に三枚肉のかけらを付けて縄の両端に小石を結わえ、道の出入り口を横断するようにかなり高い位置の枝に絡ませた。木の根元には線香と酒、三枚肉が供えられた。区長は「村の中にヤーナムン(魔物や病魔)などが入らないようにお願いします。1年間無病で無事に暮らせますように。また今年が豊年でありますように。」と唱えて全員で合掌した。そして神酒は運転手を除いて少しずつ皆にまわされた。これが9回繰り返された。
塩川の場合南から西にかけて、ほぼポーグにそって架けられていった。北側はポーグ並木がなく、集落の北限と思われる地点の道に架けられた。午後4時ごろにようやく最後の地点となる。ここは旧泊港への道である。しかし、ここでもすでに仲筋の人たちにより縄が架けられていた。
道の中央で塩をまき祈りが行われた。ここには縄架けという先陣をこされたという、対抗意識のようなものはまったく感じられない。そのあとは、この地点で両字合同の休憩を兼ねた小宴があった。このとき、港のほうから自動車が一台通ろうとしてやってきたが、引き返していった。区長の一人は、あれは(自動車が引き返したこと)今日のアキバライのことをよく知っている行動だという。つまり、外から村内に入ることは、自分はヤーナムンをつれている可能性があり、それで、ここを通過することを遠慮したのだという。
アキバライはあらためて、多良間島の人々の生活にまだ生きているのだということを示してくれたのである。
縄架け・・全体で22ヶ所である。仲筋の場合も南側はポーグに沿ってその出入り口にかけられたが、北側は丘陵地帯があり、複雑であるがほぼ山への入り口あたりが架けられた。最後の地点である旧泊港での縄架け地点は、よくみるとそこがちょっとした峠のようになっていて、そこから海へは降り坂になっている。この道はちょうど仲筋と塩川をわけている南北軸に当たる重要な道なのである。ここでは、道の真中に塩が念入りに撒かれていた。特別な地点としての観念があるように思われるが、皆さんに聞いても峠という意識はないという。考えすぎか。しかし、重要な道であるという意識はあり、合同の小宴はこうして小一時間持つのである。
写真2.道を横断するように掛けられた縄。真中に豚の肉が結わえられている。トラックなどが通過するため高い位置にある。この後は自然にまかせて放置される。
また、ここでは血を縄に付けることはしなかったが、どこかで抜け落ちてしまったのであろうか。これに関連して長老の一人は、豚の地を殺した土に流したことを強調していた。面白い説明である。豚を犠牲にするときには唱えごともしないらしい。
夕刻の5時ごろから、村の人たちが三々五々シュガーガーに集まり始めた。ここではひと時の懇親会である。もちろん早朝に屠られた豚がメインで、村人全員で豚を食し健康を祈るのである。豚を犠牲獣として共食するもう一つの、この儀礼の民俗的側面である。
午後からの飲酒も手伝いかなり疲れてきたのでここらで宿に帰ることにした。長老や実行委員の人たちに感謝してようやく一日が終了した。「ブヒィー」という声を聞いてから12時間がたっていた。
目次へ | ©Takeshi
Izumi 2007/11 営利目的で無断転載、コピーを禁じます。 人文書院 |