8回

 

 伊良部島

 

1.アクマガマ

 

 琉球大学の民俗学実習に伊良部島での報告がある。2002年に調査を行っているのでさほど古いことではない。

 ここにアクマガマにまつわる民俗を報告している。アクマガマとは月足らずで生れてすぐ死んだり、流産したりした新生児をいうのである。このような新生児はだめな人間、モノという意味でアクマガマ(あるいはアクマ)とよばれたという。

「人間として生れるべきものが、悪い目にあって死に、あなたはもうアクマだから世の中には出てこないで、今度生まれ変わって出てくる時には、立派な人間になって出てきなさい。」といって捨てられたという。

 

 伊良部島の国仲集落ではターとよばれるところに捨てられた。そこはとても汚い山ともアクマの巣、アクマの家ともいわれ、誰も近寄るものはなかったことを聴取している。

 

 『伊良部村史』は佐良浜集落のこととして、十日ンテ(十日満)までに死んだ新生児は、ぼろやムシロに包んで人が寝静まった夜に、大主神社(オハルズ御嶽のこと)裏側のアクマステ、ウホガー(アクマを捨てる大きな洞穴)に投げ込んだという。

 

 国仲集落のター周辺は地形が変わってしまい確認できなかったが、佐良浜ではオハルズ御嶽の裏側ということで現地を踏査した。
 


写真1.佐良浜集落のある北海岸の絶壁と海食洞窟。アクマガマが投げ込まれたという。波浪が直接打ちつける海岸である。絶壁は20メートル以上の高さになる。

 

写真がそうである。当日は北風が強く潮が海岸の崖に吹きつけていた。御嶽は崖に立地して背後の民家の細い路地を崖縁まで出ると、下に降りていく階段状の道になっていた。しかし、写真に見る洞穴にたどりつく道はない。アクマガマは崖上から投げ落としていたのだろうか。

 

 アクマガマのことは池間島でも報告されている。内容は伊良部島のものとほぼ同じであるが、野口武徳さんの報告は最も衝撃的である。

 

「大正末年ごろまでのこととして、誕生後2週間ぐらいまでに死んだ子はアクマとよんだ。親類の男の人が斧や包丁などの鋭利な刃物で、ずたずたに切って、「二度とこんな形で生れてくな。」といいながらi-nu-ku(北の湾)の洞穴に捨てたという。」

 

 野口さんが報告した「二度とこんな形で生れてくるな。」とは、伊良部島の民俗調査で、なぜ流産や生れてすぐ死んだ赤ちゃんを、このように粗末に扱うのかという素朴な問いに答える。伊良部島の伝承では、アクマガマを手厚く葬るとその霊が再びもとの産婦に身ごもらせるといわれた。また、この葬式に出会う人にはアクマガマが乗り移り将来この人はアクマガマを生むといわれた。

 

 さて、このような幼児の特殊な葬式(葬式とは到底よべない)は、伊良部島や池間島に限られているのであろうか。

 

 事例は少ないが、池間島の対岸に位置する狩俣集落でも、幼くして死んだ子どもはアクマと呼ばれて海岸に埋められた。沖縄本島名護市汀間では7歳になる前に亡くなれば、子どもの亡がらはかごに入れて木に架けておいたといい、伊平屋島では同じく7歳以下の子どもはガジナ原のアダン山の中に一定の場所を設けて、アダンの根元に縛って風葬したと報告している。

 津堅島では死産や一ヶ月以上育たなかった子どもは、子どもだけを置くチニン墓に葬ったが、そのような場合は捨てるという言葉で表現したと仲松弥秀さんは記録している。

 

 新生児の亡がらは正式な葬儀はされず、ほぼ捨てるという状態にあったことは、沖縄のかなり広範囲に認められた民俗事象といえる。

 

 また、新生児でもいつまでこの世で生きていたかにより、アクマガマとよばれて捨てられるか、正式な葬儀が行われるかの節目が存在したのである。ここには、新生児を直ちに人間とは認めない期間が厳然と存在したとのである。

 

 このような新生児に対する奇異とも思える処置は、もっと深いところで死後世界の観念と通底していると思われるふしがある。事例で示した津堅島や池間島、狩俣などでは一般人の葬式でも死後の供養はほとんどなく、埋葬された場所は顧みられることはなかったという。沖縄本島に近い津堅島では、死後一年目の七夕での供養が終了するとそれ以後の供養はなく祖霊一般として扱われたのである。

 

 伊良波盛男さんは、池間島の今は埋め立てられてしまったアクマッシヒダ(アクマを捨てる浜)のことを印象的に語ってくれた。そこはユニムイ(池間湿原)に入る湾口にあった浜で、白砂が一帯に広がっていたという。興味深いのは、この砂浜でかつてはお産が行われていたという。もちろん砂の上で直にお産はできないわけで、何らかの産屋が建てられていたことが示唆された。また、このお産の浜とアクマッシヒダが隣接していた事実である。

 

人間として誕生するか、アクマとして捨てられるかという生と死の境界地でお産があったということになろう。

 

 2.魚垣-カツ

 

 魚垣は遠浅の海に設置された石垣で、潮の干満を利用して魚とりが行われた施設である。伊良部島ではカツと呼ぶが、宮古本島ではカキス、石垣ではナガキ、小浜島ではスマンダと呼ばれた。このように地方により呼び方が異なるのは、どこでもその地域特有の漁法として、日ごろから行われていたことに由来するのであろう。

 


写真2.佐和田浜につづくカタバルイナウに設置された魚垣の一部。遠浅で干潮時には干瀬の縁まで徒歩でいけるという。ここに撒き散らかされている岩は、明和8年の大津波によるもの。

 

写真では分かりにくいが、浜から左右にY字形に石垣が延びて、その先端がつぼまって袋状を呈している。引き潮になると逃げ遅れた魚は、ここに追い詰められることになるという。原始的な漁である。沖縄にはこの魚垣を利用した漁法は、現在はもちろん途絶えてその施設さえほとんど見ることができない。

 

 伊良部島の魚垣は、下地島の西側に位置する佐和田浜の西、カタバルイナウにある。ここは渚100選にも選ばれた場所で、干潮時には1キロメートル以上徒歩で歩けるぐらいの浅いイノーである。写真の魚垣は海に向かって300メートル以上あり規模が大きい。

 

 このように魚垣はあくまでもそこに暮らしている人々のものであった。

ところが、沖縄本島南部にある()()島には、琉球王府時代に貝を養殖していたという伝承がある。

「今の漁港があるところは東門といって、中の出入り口は仲門、西門という西の出入り口もある。漁師は西門、東門どこからでもこの辺りに船を止める。その裏にはニービ、オオガマーといって、これは漁師たちの船溜りだった。

 

 奥武から年貢として首里王府に納めるのは、アジャケー(シャコ貝)だった。だから、向こうから(王府から)「いついつアジャケーを納めるように。」といってきたときは、いつでも持っていけるようにそこに養殖していた。アジャケー石があるのは水深が6、7メートルある西門で、貝が1メートルぐらいに大きく成長するのに100年以上かかるんじゃないですかね。」という。

 

 貝を養殖していたということは、久米島にもありここでは夜光貝が指定されていた。ンナヂカネーといい、ンナ(蜷-にな)を飼育することという。儀間集落の海に養殖する施設があったようで、夜光貝の甲に穴を開けて山葛で結び合って海中に吊るしていたようだ。まるで現在のホタテやカキの養殖を髣髴とさせる話である。

 

 3.通り池とヨナイタマ

 

下地島の西端にある通り池は、沖縄の旅行ガイドブックには必ず紹介されるポイントで、サンゴ石灰岩の荒々しい自然景観が保たれている。しかし、地元にはヨナイタマ(ジュゴン)によってもたらされた津波で村が消滅したという悲しい伝承が聴取されていた。

 

「昔ねえ、下地島の通り池というところに、北の家と南の家の二軒の家があって漁師をしていた。

 ある晩のこと、そこの家の人が魚釣りに行って、ヨナイタマという大きな魚を捕ってきた。ヨナイタマを普通の魚と思っていたから、身の片方を炊いて食べたが、大きいから、一度に食べられないから、もう片方は塩漬けにしておいた。

 その晩に子どもは夢を見て泣いた。

「母ちゃん、母ちゃん起きろ。ウイスガーのお婆さんの家に行く。」といったから、

「どうして夜中に泣くのか。今からは遅くて行けないから眠りなさい。」とあやしたけれど、もう泣くのは止まらない。子どもが遅くからこんなに泣いているとは不思議だ。行ってみよう。とお母さんと二人ウイスガーのおばあさんの家に行った。

 子どもがウイスガーにいるとき、海から竜宮の神様が二軒の家にきたって。

「ヨナイタマ、ヨナイタマ早く帰っておいで。早くおいで、ヨナイタマ。こんな遅くまで、なんであんたは来ないのか。」といったって。

 そしたら、ヨナイタマは、

「私は、片方はもう炊いて食べられている。片方はこれも塩漬けにされているから帰ることはできない。」といった。それで神様は、

「じゃあ、わたしが大きい波を行かすから、それといっしょにおいで。」といって、大きい波を行かしたから、ヨナイタマは大きい波といっしょに海に帰った。

 次の朝にウイスガーにいた子どもとお母さんが帰ると、あの北の家と南の家は津波で落ちてしまって、大きな二つの池になってもうなかった。」

 

 通り池の一帯はサンゴ石灰岩がむき出しになった台地であり、この地に集落があったとは考えられない。この二つの池は石灰岩の陥没により形成されて、潮の干満に合せて池の水位も変化することから、外界の海とも海底で繋がっているようである。

 


写真3-1.通り池。これは直径が70メートル以上あり、この向こうはすぐ海になる。コバルトブルーの水は海水である。外界と繋がっているため魚が豊富であるという。

 

このような陥没地は西海岸のいたるところでみられた。その陥没の最大のものが、伊良部島と下地島を隔てる水路である。地元の人はマルキースと呼んでいたが、南東の渡口浜から北西方向の佐和田浜までの約3キロメートルは、波もなく入り江が複雑に入って、どこか淡水の大河にいるような錯覚を覚える独特の景観を作り出している。



写真3-2伊良部島と下地島を分ける入り江である。ここも石灰岩が通路のように陥没して東西で海に繋がった。

 

ここで渡り蟹を捕っている人がいた。明日まで仕掛けを沈めて蟹を捕るという。鰻などもいるといい魚の種類は多いという。そこは沖縄らしからぬ穏やかな風景が広がっていた。

 

 4.牧村の滅亡―天の神と毒神酒

 

 「昔、比屋地(ぴやーず)からちょっと東の海岸の方に牧村という村を作ったそうです。

 子どもが、「子供(やらび)よう、泣くなよ。」と子守をして歌をうたっていたそうです。

  泣くなよ、子ども。

  あんたの母ちゃんは、海にいって

  アオヤッツァを取ってきて

  神酒に入れて、太陽(てぃだ)を殺そうとしている。

 

 お母さんは太陽を殺そうと、毒のある青いヒトデを捕りに出かけたと歌ったそうだ。6月になれば粟で神酒を作って、これを太陽の神様に供えていましたから、この粟の神酒に毒のあるヒトデを入れて神様を殺してしまおうというのです。

 

 そのとき、神様がこれを聞いたから、

 

「子ども、お前は何といっているのか。もう一回歌ってみなさい。」といった。で、また子どもが

  泣くなよ、子ども

  あんたの母ちゃんは、海に降りて

  アオヤッツァを取ってきて

  ティダを殺すといって、出かけていったから泣くなよ。

 

 といって、子守唄を歌った。

 

 そしたら神様がその子どもに、

 

「お前はよい子どもだから、自分の新しい物をみんな持って、遠くの方に逃げなさい。今夜のうちにここの村を退治してしまうから。」といった。

 

 子どもは村に帰ってみんなに言って逃げたって。

 しかし、子どものいうことだからと村の人の中には本気にしなかった。その夜のうちに津波になって、村に残った人は死んで村は全滅した。

 

 生き残った人は向こうの伊良部の元島というところに村を作ったそうだ。」

 

 この伝承話をどのように理解したらよいのだろう。何のために太陽神を殺そうとしたのだろうか。

 

 しかし、牧山の麓には石垣をめぐらせた村跡があるという。ここで語られる津波は、明和8年(1771)の宮古島近海で発生した地震にともなう大津波のことであるといわれている。津波は下地島全体をなめ尽くし、伊良部島でも東海岸一帯を襲っている。この津波という自然現象も人間の理不尽な行いがもとになって、神の怒りを惹起したと理解したのだろうか。類話のない不思議な話である。


 

 

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©Takeshi Izumi
 2008/05
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