本屋とコンピュータ(17〜23)2001年
*07年3月に刊行した『希望の書店論』に収録された06年4月までのコラムを年次ごとにまとめました。

        福嶋 聡 (ジュンク堂 池袋店)

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 「1階集中レジカウンタ−」方式にして、最も質問されること、最も懸念されることは、「万引きは大丈夫か?」ということである。「万引きはどのくらい増えましたか?」という質問に対しては、「棚卸しをするまで分からない」と正直に答える他はなく、同じ質問が度重なると、「じゃあ、各階にレジがあれば、万引きはより少なくて済むという保証があるのですか?」と、少しばかり毒づき加減で、反問してしまう。

 万引きが書店の大敵であることは、今更指摘されるまでもない。いたずらに犯罪行為を助長するのも、慎むべきであろう。しかしながら、万引きの危険ばかり騒ぎ立てるのは、大きく二つの方面に陥穽を持つ。

 一方では、万引きの防止の為に万引きによるロス以上の経費、エネルギーをかけてしまったり、そのことによって店の空気を擾乱してしまうこと。販売力のある書店現場を創造するためには、「万引きしにくい空間づくり」よりも「ゆっくり探せる、買いやすい空間づくり」が優位に来るべきだと思う。勿論前者を無視してもいいと言っているのではなく、求めたいのは本来の優先順位を念頭においたバランス感覚である。

 他方、良識ある読者よりも、心無い万引き犯の方に意識の比重が行ってしまうこと。そうなると、来店してくださったお客様への目線が、感謝よりも猜疑の色合いの濃いものとなってしまう。そうした目線の集中が、来店客のほとんどを占める常識を持った(万引きが犯罪であり、悪であると知っている、或いは失敗した時の不利益を考えれば途方もなく割の合わない行為だと理解している)読者にとって、心地よいものである筈はない。心地よくない場所から、自然と読者の足は遠のく。そうしたすぐには目に見えないロスの蓄積と、万引きによるロスと、 どちらが大きいか。冷静に考えてみるべき問題だ。

その時に、書店という商売、否もっと話を大きくして出版―書店業界そのものが、実は読者の良識に依存して成立しているという事実を、繰り返し反芻すべきだと思う。「万引きは大丈夫か?」という、最近業界人から受ける質問が積み重なる毎に、そうした事実(=読者の良識に依存してこそ我らが出版―書店業界は成り立っていること)が正しく前提されているのか、疑問に思うからである。
 

 「1階集中レジ方式」についての「新文化」の取材(第2391号2月8日付に掲載)でやはり「万引き問題」に触れられた時、「日常的に読者に声をかけていく」姿勢を答えたが、読者に声をかけていくというのは、決して「あなた、万引きする気じゃないでしょうね?こっちも見ていますよ。」というニュアンスを含ませたものではない。大多数である良識ある読者に対して、充分なサービスを提供しよう、という姿勢を言いたかったのだ。欲しい本を探しているお客様に「何か、お探しですか?」と声をかける、(他の業界では常識ともいえる)「サービス=奉仕(精神)」から始めよう。良識あるお客様と我々書店員の間に連帯が生じていること、書店という場に邪な動機で入ってきた人達を自ずから排除する空気(=書店員と読者との連帯)が満ちていること、そのことこそが、最良の「万引き対策」であると思うのだ。


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 3月1日、池袋店がついに増床グランドオープンし、2001坪(?)の、世界最大級、少なくとも現段階では日本最大の書店として生まれ変わった。ありていに言えば、昨年末から棚や本の移動・拡張は断続的に行なわれており、2月23日にはその工程がほぼ終了していた。その後は商品やサインの微調整、店全体の試運転(プロ野球のオープン戦のようなものか)だったし、ジュンク堂としては「当然」のことながら、増床作業の為に店を閉める日など一日もなかったから、店の有様が、3月1日を境にドラスティックに変わったわけではない。3月1日を「グランドオープン日」と呼ばせるのは、告知、情宣、そして我々の心持ちなのである。
 とはいえ、告知や情宣の効果、そして心持ちだけでも、ぼくたちをして、「池袋店グランドオープン」を芝居の初日のように迎えしめたことは、確かである。3月1日は一日中降った雨に、文字どおり水を差された感はあったが、それでもお客様の数は多く、2日目、3日目と、日を追うにつれ、売り上げも2次曲線並みの上昇カーヴを描いた。

 日本一の売場面積とともに(というよりそれ以上に)業界の衆目を集めている「1階集中レジカウンター」の一日の流れは、武田信玄の「風林火山」を思い起こさせる。
 
 「疾(はや)きこと風の如し、徐(しず)かなること林の如し、掠(かす)め  ること火の如し、動かざること山の如し。」

 朝10時のオープンと同時に入館され、必要な商品を急いで買って帰られる方をはじめ、午前中のお客様は、おおむね「疾きこと風の如し」である。昼下がりから、長いレジカウンターを被膜のように包む、途切れることのないお客様の流れは、「徐かなること林の如し」、閉店5分前の放送を「突撃ラッパ」よろしく一気にレジカウンターに押し寄せるお客様の一群は、まさに「掠めること火の如し」の様相である。願わくは、そうした「攻撃」を受けても、巨大な売場と豊富な在庫を誇るわれらが「城塞」が、スタッフの機敏な対応によって「動かざること山の如し」であらんことを。

 「武田騎馬軍団」の執拗な攻撃に対しては、もちろん、織田信長が武田勝頼軍を破った時に用いた戦法(馬防柵に縦列をなした鉄砲隊が、途切れる事無く発砲する)にあやかった「長篠打ち」(1台の子機を複数の応対者が使う、即ち一人が預かり金額を打ち込んで親機から釣り銭をもらっている間に他の一人が次のお客様のお買い上げ商品を読み取らせる)が有効なのだが、これは、今のところ、かなり年季をつんだスタッフにしか出来ない技である。


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 4月11日、書協の「新入社員研修会」(35社73人参加)に講師として招かれた講演の枕に、丁度前夜に放映されたテレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」について言い訳をした。まさしく、言い訳であって、テレビ出演を自慢する気持ちは、こと今回は微塵もなかった。「ベストセラーはこうしてつくられる〜出版界の新たな挑戦」というタイトルが新聞のテレビ欄にも出ていたので、「これはやばい、業界でも見ている人は多いだろう、ましてや出版社の新入社員なら、新入社員であればこその向学心で、見ている確率はかなり高いであろう。」と恐れての、言い訳だったのである。

 オンエアの前日、ぼくが「出演」している部分の収録は、「いきなり」だった。その前々日に、リニューアルしたジュンク堂池袋本店の録画取りは終わっており、前日に社長のインタビューに大阪まで出向くとは聞いていたものの、更なる材料になるとは、思ってもいなかったのである。幻冬社の営業活動を撮るという連絡を受けてはいたが、せいぜい背景として店を使うだけ、もしもぼくじしんが録画されたとしても、営業活動に訪問された書店人として、背中が映るくらいにしか考えていなかった。それが、会話のやり取りはそのまま流れ、挙げ句はいきなり訊かれた幻冬社についての感想をそのまま使われ、放映を見て、実際汗ばむくらいの恥ずかしさだったのだ。だから、絶対ヤラセではなかったとは断言できる。だが、役者としては、多少のヤラセの部分は欲しかった。(あとになって作家宮本輝氏の息子さんだと知った、幻冬社営業の宮本大介氏とは、実は初対面だった。その彼と旧知の間柄のように喋ったのは、テレビカメラを前にして、本能的にヤラセ的な構えを取ってしまっていたと言えるかもしれないが。)

 「今、もう店の前なんです。」という宮本氏の電話を受けて慌てて迎えに出たぼくには、トイレの鏡の前で衣装をチェックする暇も、「アイウエオの歌」を唱えて滑舌を整える間も与えられなかった。感想を求められる事が分かっていたなら、もう少し気のきいた台詞を考えることもできたろう。「アンタ、もうちょっと恰好に気を配ったら?」とテレビを一緒に見ていた女房から叱られることになるのだが、元来身をやつすことなど苦手ながら、せめて首からぶら下げた携帯電話くらいは外せたろうな、という恨みが残る。出版社の新入社員諸君にした「言い訳」とは、そういった内容である。

 とはいえ、あの取材、放映は有り難かった。お天気がよかったという好条件もあり、直接テレビ放映が原因だったと断言はできないが、来店されるお客様の数は目に見えて増え、売上げも日に2~300万円の上乗せを見た。まさに「マスコミ、恐るべし。」と感じた所以である。

 書協の「新入社員研修会」に先立つ事10日前、4月1日に我が社の新入社員を前に朝礼で話したのが、内から見える見え方と外から見える見え方は全く違う、だから外からの見え方を常に意識しておかないといけない、ということだった。卑近な例でいえば、ジュンク堂池袋本店の南北の入り口の間にあるショウウインドウに立てられた5枚の広告看板への出稿内容を、その場ですべて答える事の出来たスタッフは皆無だった。店内にいる我々の目には触れないからである。一方、外から店に訪れるお客様や業界の人達にとっては、入店前に、最初に目に触れるのがその看板である。
日本一の売場面積2000坪への増床にしても、年末の連日の徹夜、休みもろくにとれない中での早朝、深夜の作業と、正直、内部で働く我々にとっては、何とか無事通り過ぎたい「大嵐」のようなものだったが、そうした見え方とお客様や業界内外の外部の人達からの見え方が大きく隔たったものであることは、想像に難くない。どちらがより実態に即した「正しい見え方」なのか、そうした実体論的な議論は、無意味であろう。そして、店の成功・不成功が後者に依存しているのは、間違いのないことである。外からの見え方が内からの見え方と如何に隔たっていようと、そうである。否、ひょっとしたら隔たっていればいるほど、そうなのかもしれない。

 だとすれば、マスコミの取材のあり様が、内からの見え方と全然ズレている場合においてすら、否そうであればあるほど、外からの見え方を大きく規定する力を持ったマスコミに大いに乗っかっていく、即ち、確かに一面的な切り取り方をすることの多いマスコミの
取材姿勢に、眉をひそめたり、巻き込まれる事を忌避するのではなく、巻き込まれたフリをして逆にマスコミを巻き込んでいく位のしたたかさが、今必要とされているのではないか、と思う。


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 仙台から東京にやって来て、最初に感じたのが、出版社名宛の領収証を切ることが何とも多いことである。「同業相食む」ではないが、当初はどうにも自らの尾を食うウロボロスを連想し、いい気持ちがしなかった。かつて、神戸で演劇活動をしていた時、やはり観客の多くが「同業者」(=劇団OB、他の劇団の人々、出演者の家族縁者もその範疇に入るか)だった、その様相とパラレルなのが気持ち悪いのは、そうした状況では、ぼくたちは、「食べる」ことが出来なかったからである。ただでさえ金のかかる演劇という活動で、仲間内で客になりあっている状況は、ジリ貧でしかない。「河原乞食」も辞せずとしていたぼくが、ジュンク堂に入社して入場券の販路を求めたのは、そのためでもある。結局、当時自分で最も似合わないと思っていた「会社員」を足掛け二〇年勤めることになった。もちろん、芝居をやっていた期間を、優にこえてしまった。

 だが、これは、「東京という地方」の特色だ、と思って、少し気を取り直すことができた。出版とは、畢竟、思想や学術研究、文学的創作の結晶としてのエクリチュールである。エクリチュールは、大抵の場合、他のエクリチュールからの刺激を受けて発生し、また、新たなエクリチュールを発生させる。道程が予測不可能でありながら、連続的作動がどこか約束されていること、あるいは連続的作動なしには存続しえないこと、これは「オートポイエーシス」である。

 流通している本を、「できるだけ全て」棚にならべること、ジュンク堂のこの理念が、特にマスコミ関係の人に重宝がられていることは、仙台でも経験済みだ。ベストセラーを取り込んで販売し、そのことで利を得ることを潔しとしない、「ジュンク堂魂」とでも言ってしまおうか、その行き方は、例えば、新聞記者の人たちに重宝がられた。彼らは、突発的に起こるさまざまな事件に接して「記事」を書くべく、参照できるエクリチュールを必要としている。それは「突発的」であるがゆえに、「はやりもの」ではありえない。大袈裟に言えば、「可能態」を「現実態」にしておくこと、それも「必要に応じて」ではなく、「必要に先立って」、だから、2000坪が必要だった。

 エクリチュールを販売する場であるだけでなく、エクリチュールを産み出す場でもありたい。書き手が、作り手が、読み手が、自由に集い、語らう場でありたい。並んだ本を巡って、読み手たちがおりなす語らいもまた、エクリチュールの萌芽であるだろう。書き手が読み手であり、読み手が書き手である状況は、別にインターネット空間を俟って初めて成立したわけではない。「工房としての書店」は、決して戯れ言ではない。

 雀の涙ほどのギャランティで書き手の方々が引き受けて下さって成立しているジュンク堂池袋本店の「トークセッション」も、もちろん、そのイデーのもとにある。書き手と読み手の交わり、それは「固定票」の地固めでもあり、新しい読み手を産み出す作業でもある。「実存が本質に先立つ」本という商品の受容を産み出す場としての書店の、最も積極的かつ本質的な活動と自負する。これも、多くの書き手と読み手が存在する東京ならではの活動である。

 「出版は、東京という地方の代表的な地場産業」、近頃気に入って用いるこのフレーズは、出版不況が取り沙汰される今、2000坪への増床を果たしたぼくらの自己弁護ではなくレゾンデートルなのだ。前回書いた書協の「新入社員研修会」での講演を「工房としての書店を目指して」と題したのは、ぼくが旧来主張している、販売こそ制作の最終段階、つまり本を売る事は本を作ることの完成だという視座を共有してもらうことが、何より肝要と思ったからである。それは、劇団時代の「観客に見てもらってこその芝居」という思いと、全くパラレルなのである。


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 22.7月17日、久しぶりに関西で話をする機会を与えられた。天満橋のドーンセンターで、敬愛する井上はね子氏の「アミ編集者学校」主催の講演だった。

 前日に京都に入り、悪友角谷(京都大学生協)の家に泊めてもらうのをいいことに、懐かしい仲間と痛飲し、角谷の家でギリギリの時間まで寝て大阪入りした。天満橋に着いて、もう時刻は夜の範疇に入っていたが、実は二日酔い状態で、自他を誤魔化すために天満橋松坂屋の地下でフランスパンの「切り身」を買い、そいつを齧りながらの入城だった。

 新聞告知もあり、関西出版業界の長老川口正氏も(朱鷺書房から独立して、現在出版営業代行業)多くの方々にメールで案内して下さり、想像以上の聴衆に恵まれた。はね子さんに電話で頼まれた時から、折角だから「日本最大の書店」を作り上げた「苦労」と意外な「楽さ」、特に1階集中レジを巡るそれを語ろうとは思っていたのだが、レジュメ(もともとぼくは、そういったものを作って、即ちあらかじめ計画的に物事を話すというタイプではない、むしろ、聴衆の反応を見ながら、即興的に話題を変えていくタイプなのだが、そもそも、話し始めた時の計画を持たないからこそ、「レジュメ」は便利なのだ、とある時に気づいたのである。)を作りながら、即ち「1階集中レジ」の様子を「風林火山」に喩えた3回前の本欄をなぞりながら、「時代背景」という項目を入れた時に、ぼくが、今、何をしたいのかが、閃光のように眼前に現われた。「時代背景」という項目には、「誰が本を殺すのか」や、「出版大崩壊」と言った著書名を割り込ませたのだ。

 この二著に対する異論がある訳でもなく、反発したい訳でもない。後発した「出版動乱」などの出版物を含め、状況を冷静に捉えた優れた報告であることは、間違いない。
 嫌なのは、こうした出版物を前にして、「もう駄目だ」という風に頭を抱える
(すべてを状況の所為にしようとする)人々なのであり、そうした出版物を(実は十分に評価しながら)否定的に扱いたいのも、その所為なのだ。ジュンク堂書店池袋本店のリニューアルを「成功」と言ってしまえるのも、その為だ(本コラムの読者は、ぼくたちの苦闘をすでに理解して下さっていると想定して、あえて言う)。今、厳しい状況であることは、誰でも知っている。でも、「駄目だ、駄目だ。」と言っていたって埒は開かんでしょう。出版物を扱うというのは、とても魅力的な仕事なのだから、なんとか、いい方向に持っていこうよ、そのためには、「もう駄目だ」と言っちゃお終いでしょうが。
 講演の後、実は実家と同じ神戸市の垂水に住んでいる「論敵」湯浅俊彦と同じ電車で帰って、垂水の彼のマンションの下で更に飲みながら、言い続けたのは、そのことだけだった。


(22)

 今年の夏も終わりにさしかかろうという頃だった。

 ジュンク堂書店池袋本店の、話題の1階集中カウンターのなかで、アルバイトの女の子が、途方にくれている。手には1階エレベータ前にあるお客様用の検索機がプリントアウトした書誌データの紙片を、大量に持っている。見れば、そのほとんどに「係員にお問い合わせ下さい。」の文字がある。これは、「現在当店には在庫がございません。」というのと同義で、在庫がある場合は、その箇所には、該当する書棚が表示してあるのだ。

 印字された書名を見ていくと、それも当然であった。そのほとんどが、性風俗のルポや官能小説であったからだ(さらに詳しく言うと、「ホスト」についての本も目立った)。上品ぶっている訳では無いが、従来ジュンク堂書店には、その類の商品はほとんど置いていない。プリントアウトされたデータの数の多さも相俟って、「これは、一種の嫌がらせか?」という疑念が走った。「新手のストーカー行為か?」とさえ、思った。途方に暮れていたアルバイトが、若い女子大生だったからである。

 「どちらのお客様?」と平静を装ってぼくは訊いた。

 「あちらの方です。」と指し示された方向を見ると、そのお客様は、さらに検索機に向い、書誌データを探っている。かなりラフなスタイルで、体格はよく、頭髪は黄色く染められていた。

「やはり、『ヤバイ』客かもしれない。」とぼくは思ってしまった。人をみかけで判断してはいけない、と常日頃自他に言い聞かせ、その教訓の正しさの事例を、長い書店人生活で数多く蓄積してきたにもかかわらず、である。言い訳がましいが、検索されているデータの書名が、「ドギツ」過ぎたのだ。

 「お客様。」

 ここは自分が立ち向かわねばなるまい、女子大生のアルバイトに対処させるべき状況ではないし、まず彼女に対処できる相手ではないと意を決し、だからといって居丈高になったり、迷惑そうな表情や声色になることのないよう注意して、すなわち努めて平静に声をかけた。

 「こちらの商品は、ほとんどが現在当店にございません。それに古い商品も多いので、ご注文を承るにしても、来週早々、出版社に在庫を確認してから、としたいのですが。品切れ、絶版等で入手できない商品につていは、その時にご報告します。」実際その通りだったのだ。検索機の書誌データは、品切れ情報とリンクしていないため、「係員にお問い合わせ」いただいても、入手できないものも多い。そしてその日は、土曜日であった。

 「じゃ、そうして下さい。」<次ページ>

 お客様の返答は、密かに構えていたこちらが拍子抜けするほど、穏やかであった。

 数多くの紙片の中には、当店に在庫があるものも幾らかあったので、それらを集めている間に、お客様も広い店内を巡って、カゴにいっぱい商品を選んで来られた。多くは、ぼくを身構えさせた「ドギツ」い書名群と範疇を同じうした商品だったが、「脳」に関する本など、全くそれとは無関係な本もあった。ぼくが集めてきた本と合わせて、「じゃ、これだけ下さい。」とおっしゃった。

 しめて数万円になった。キャッシュでお支払い下さった。決して、「一種の嫌がらせ」ではなかった。ぼくがお相手して気分を害されたようでもなかったので、「新手のストーカー」でもない。話をしていても、実に穏やかで、「ヤバイ」客では決してない。「これは、一体…?」と思っていた時、「領収書を下さい。」とおっしゃり、宛名として日本を代表する二大出版社を告げられた。先程、ぼくを戸惑わせたあきらかに範疇の違う商品群ごとに。

 無かった本の注文の為に、名刺をいただいた。それを見るまでもなく、ぼくには事情が分かっていた。そのお客様は、フリーのライターだったのだ。買い求められた、そして注文された全然違う二つの範疇の商品群は、原稿執筆のための資料だったのだ。

 その後も、ご来店のたびに、新たな範疇の商品群を購入、注文されて行く。今や、大事な「お得意様」である。

 「人は見かけで判断してはいけない」という教訓の正さの事例を、もう一つ付け加え、東京で書店をやるというのは、やはり「地場産業」の一部となることなのだということを再認識したエピソード。<次ページ>


(23)

 11月6日(火)、ジュンク堂書店池袋本店では、哲学者の西研さんをお招きして、トークセッションを開催した。西さんには、今年上梓された「哲学的思考」(筑摩書房)に沿って、現代において哲学することの可能性と意味を、語っていただいた。御著書において展開されたフッサール現象学の意義を中心としたそのお話は、そのわかりやすい語り口と相俟って、実に興味深いものであった。20人余の聴衆は、多くが「哲学的思考」を読み、あるいは以前から西さんの仕事に親しんでおられたようで、会場である4階喫茶室は、小さいながらもひとつの共同体を、なしていた。

 ぼくは、遅れてくる参加者もあるので、西さんの語りが始まってからも、ずっと受付にたたずんで、聴いていた。書店員というのは、もともと立ち仕事だから、立ち続けていることは、全く苦にならない。現象学の可能性や西さんの仕事には興味があったから、聴く態勢に若干の違いがあったにせよ、ぼくもその共同体の中にあったといっていい。

 しばらくして、ある中年にさしかかったかと思われる男性が、なんとなく気になりげに会場の中を覗いている=西さんの話を聞いている姿が目に留まった。会場に席は空いていたので、参加をお勧めしようかと思ったら、いなくなる。少し後に、また現れて聞き入っている、という具合で、受付係員として、どうしたらよいか、戸惑っていた。

 そのうち、一通りの西さんの話が終わり、質疑応答の時間になった。共同体の中からも、執拗な質問が出た。3つめか、4つめの質問への回答が終わった時、件の男性が、会場の外から半ば身を乗り出すような姿勢で、手を挙げた。

 ぼくは、迷った。その男性は、参加費を払って話を聞いていた訳では無い。書店の店頭に隣接した喫茶室でのイベントである以上、公式の参加者以外の来店者に声が漏れ伝わることは、回避できない。いわば、立ち聞きを咎めることは、そもそも出来ない。かと言って、参加費を払って下さっている方と、そうでない方とを区別する必要がある。前者が後者を差し置いて後援者に質問を投げかけるなど、許していいものだろうか?だが、かすかに芽生え始めた漠然とした期待を持って、ぼくは「諾。」と判断した。

 「神学が論理的になって哲学となり、それが更に論理的となって自然科学となり、現在では情報科学に至っている、のだと思うが、現在の情報科学のあり方について、西さんはどう考えておられるのか?」

そもそも、質問の前提となっている学問観が、違う。学問の推移は、男性が述べたような直線的なものではない。男性が「論理的」という言葉をどんな意味で使っているのかは不明だが、少なくとも数理論的な意味合いだとしたら、西さんがさっきまで話していい現象学的な探求の姿勢とは、おそらく相容れない前提に立っている。まったく違う言語を使って会話をも試みるようなものだ。初学者にもわかりよく哲学を語ることにおいては定評のある西さんも、応答には四苦八苦されていた。

 ぼくは、横で見ていて、悪いことをしたかな、とちらりと思った。そもそも参加者以外の質問を受け付けたことが、西さんの苦闘の原因であった。ある種の共同体をなしていた会場内からの質問なら、こうも考え方の背景(現象学的にいうならば、地平、世界観)が異なったものは出てこないだろう。議論も、ある種共通した土俵の上で、繰り広げることができる。 しかし、苦労して説明する西さんにいささか意地悪かなとも思える気持ちを抱きながら、ぼくは、いやかえってよかったのだ、と思い直した。およそ哲学を語るものは、決して仮設された共同体の域内で守られていてはならない。それは、その哲学を窒息死へと至らしめるとさえ言っていい。そのことは、これまでの啓蒙的な仕事を思い起こしても、西さん自身の問題意識の中心にあるとも思えるからだ。男性の、まさに「自然的態度」に「現象学的還元」を施そうと苦闘する西さんには、いきなりの状況への大いなるとまどいと共に、決然とした意志をも感じることができたのである。数分のやり取りでそのような企図が成功したとは言えないが、西さんは、もちろん、会場外からの質問を許したぼくに、非難の視線を洛びせるようなことはしなかった。

 こうした状況は、哲学の世界に限った話ではない。すべての学問、すべての言説にとって、共通意識(コモンセンス)を持った構成員からのみ成立する共同体内で自足することは、みずからの存在意義を否定することになる。ならばそれらの煤体である書簿、そしてそれを販売する書店という場こそ、共同体の内外を架橋すべき存在でなくてはならない。トークセッション会場の入り口付近で聞き耳を立てていた件の男性こそ、最も象徴的な「読者」と言えるのである。

   
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© Akira    Fukushima
 2007/04
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