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福嶋 聡 (ジュンク堂 池袋店) |
(24) 「読者メイト」ファンの皆さん、お久しぶりです。7月初旬に新評論から「劇場としての書店」を上梓いたしました。ほぼ全篇書き下ろしです。原稿を書き始めたのは仙台時代だから、すくなくとも「構想3年!」です。どこかの書店でお目に触れ、興味を感じて読んでいただければ、幸いです。 その本で、ぼくは読者こそ「書店という劇場」における「主役」である、と述べた。それは、「性格上」そうであり、また「行為者」としてそうだ、と。「行為者」としてということについては、次のように説明した。
もっと直截な「誘発」に最近出会ったので、報告しておきたい。 ぼくが、ジュンク堂書店池袋本店の6階(医学書、コンピュータ書売場)を歩いていたとき、若い女性から声をかけられた。 「あの、ちょっとご相談があるのですが…」 ちょっとヤバイかな、と思った。こういう切り出し方には、そんなに激しくはないが結構根の深いクレームが続くことが多いのだ。 「はい、何でございましょうか?」ある程度覚悟を決めて、にこやかに問い返した。 すると彼女は、医学書売場の新刊コーナーの一冊の本を指差し、つぎのように言った。 「私は医者でも医学生でもない素人ですが、この本を読んで、とても感動したのです。他にもきっと読んだら感動する人たちがいると思います。でも、一般の人が普通はこのフロアに来てこの本に巡り会えるとは思えません。是非、1階の新刊コーナーに置いてください。」 それは、主婦の友社の「研修医純情物語」という本だった。 「わかりました、ありがとうございます。ただ、今ここには3冊しかなく、下に降ろすには少ないので、すぐに追加発注します。」 ぼくは、その本のスリップを切り、番線印をおして注文箱にいれた。 それから数日後、1階集中レジカウンターでその本の問い合わせを受けたアルバイトが、ぼくに縋ってきた。 「データ上は10冊ある筈なのですが、6階の人に聞いてみても、今ないと言っているのです。」 「なら、しょうがないから、客注で聞いといて。」とぼくは言った。 しかし、すぐに、数日前自分が注文書をまわしたことを思い出して、地下2階の仕入れに走った。案の定、ぼくの注文が入荷したところだった。 ぼくは、すぐに商品をもって上がり、お客様にお渡しすることができた。 残りの商品は1階、6階にわけて置いたが、2日後にはどちらからも売り切れていた。すぐに追加発注をした。 あの時、6階でたまたま件の若い女性から「相談」を受けなければ、こうした展開にはならなかっただろう。お客様から「聴く」ということの大事さを改めて思い知った。そして、お客様こそ「書店という劇場」の「主役」であることを、再確認した。 (25) いま、図書館問題が、熱い。ただし、その熱さは、どちらかというと建設的でない議論によるものである。本が売れない、作家が食えない。図書館が無料で本の貸し出しをしていることも、その一因ではないか。日本書籍協会や日本文芸家協会は、そう疑っている。図書館は図書館で、資料費の削減や司書数の不足など、総じていえば予算不足をかこつ。 11 月20日(水)に、東京国際フォーラムで行われた第4回図書館総合展のフォーラムの一つ、「どうする?作家・図書館・公貸権」を聴講した。パネリストは、作家三田誠広氏と図書館職員2名であった。三田氏は、図書館が著作者の権利を制限することによって成り立っていることを指摘、作家の窮状を訴え、諸外国の例にならって「公共貸与権」の重視のもと、具体的な作家への保障を求める。図書館側の人たちは、争点となっている「複本」(予約者数の多いベストセラーを何冊も買い込むこと)も指摘されるほど多いわけではなく、自分たちは限られた、しかも削減されつつある予算の中で必死に頑張っている、と主張する。 どちらの言い分も、もっともである。双方とももっともだから、最後には「お互いいがみあっている場合ではない。作家も図書館も連帯して、国から予算をぶんどろう。」、表現が荒っぽすぎるかもしれないが、つまるところこういう結論になる。(「論座」2002年12月号に三田氏の論文が、2003年1月号に図書館司書の前田章夫氏の反論が掲載されている。そちらを参照していただければ、問題の所在と議論の構造は大体把握できる。) ところが、現実には国も自治体も台所事情は火の車である。経済状況も相変らず悪い。だとすれば、先の結論は余り生産性を期待できるものではない。明らかに読者の視点が欠落している。あるいは、利用者の視点が。 読者や利用者のことを忘却しているわけではない。欠落しているのはその視点なのである。だからこそ議論が、「図書館で本を借りることができなかった利用者がその本を買うか?」という次元の低いところに留まっているのだ。買う人もいるだろうし、諦める人もいるだろう。同じ人でも、場合によって買う時諦める時があるかもしれない。そんな流動的な因果性について、単に議論の上で黒白をはっきりさせようとしても、意味はない。 利用者の視点とは、「図書館にどうあって欲しいか?」である。自分にとって利用しがいのある図書館とは、あるいは応援しようと思う図書館とはどのような図書館なのか、必要なのはそのことを利用者の視点に立って具体的に見てみることではないだろうか。その時、悪いけれども(悪くはないか?)、さしあたり、図書館予算の問題だとか、作家の生活のことは、視野に入ってはいない。 利用者の視点に立った時、「図書館は無料貸本屋か?」という問い方は、「図書館利用者はただで本を借りることができることだけを望んでいるのか?」という意味になる。その問いに対して図書館利用者の一人が「自分はそうだ。」と答えることは、アリである。だが、図書館側の人間が、あるいは作家、出版社、書店という書籍を市場に提供する側の人間が「そうだ。」と答えることは、全称判断になってしまうから、偽である。 2002年7月に上梓した「劇場としての書店」のあとがきにあたる部分で、ぼくは次のように書いた。 「気になっている本を片っ端から買っていては、やはり経済的にもしんどい。それ以上に、すぐに置き場所に困ってくる。本が自宅の書棚から溢れるたびに、あるいは転勤による引越しのたびに、知り合いの古本屋に送るのも面倒である。何よりも、「買う」という時には、書店人といえども吟味する。言い換えれば、逡巡する。「気になった」からといって、それだけの理由で「買う」ことはできない。 そんな時、図書館はとても便利なのだ。少し読んで期待外れなら、それ以上読まずに返せばいい。参考になる部分があれば、それをメモしておいて返却する。部屋は狭くならないし、必要ならまた借りればよい。」 そう、ぼくは「図書館を利用する書店人」なのだ。そして、図書館を利用する理由は、タダで借りることができるから、だけではない。買った本の置き場所に困ることがないからだ。 最新号の「本とコンピュータ」には、こう書いた。「検索に必要な書誌データは、書店に勤めているからほぼ完璧である。蔵書にない本をリクエストする時も、ISBN番号を含めてすべて記入できる。本の置き場に困っていたぼくとしては、巨大な書庫を手に入れたようなものだ。」 書店に勤めながら、(一部そのことを利用して)図書館で本を借りる「けしからん書店人」であるぼくは、図書館を、自分のための「巨大な書庫」にしたいと思っているのだ。それは、実は図書館の本を無料で利用したいと思うことと同値ではない。読みたくて自分で買った本を収納しておいてもらうという手もあるからだ。ついさっき言ったように、ぼくが図書館を利用する大きな理由の一つは、「買った本の置き場所に困ることがないから」なのだ。 こうしたぼくの個人的な事情を共有する「図書館を利用する人」は、少なからずいるのではないだろうか。だとすれば、利用者が自分で買った本を、読後に図書館が引き取るという策は、有効ではないだろうか。本の引き取りは有償であってもいい(もちろん定価である必要はない)し、何らかの特典を与える方法でもいい。不必要と思われるものは、図書館の方で拒否してもいい。 この一見突飛な策は、運用できれば、実は色々な立場の人に同時にメリットを与えることができる可能性を持っていると思うのだ。その可能性は、意外なところまで広がって行くかもしれない。この策は、いわば図書館に「ブック・オフ」の役目を一部担ってもらうこと、とも言えるからである。* * * * * (附)アガンベン『中身のない人間』書評
「アウシュヴィッツの残りのもの」(月曜社)などが翻訳され、近年日本でも注目されてきた現代イタリアを代表する哲学者の処女作。弱冠二十八歳で上梓された本書はすでに、古代から現代までを縦断し、哲学、美学、政治学など広く学問分野を横断する、スケールの大きい、絢爛豪華なテクスチュアを織りなしている。
柱となるテーマは、芸術だ。アガンベンによれば、芸術作品は、古代と近代でそのステータスが大いに変化した。カントの「判断力批判」を画期とする「美学」の誕生、あるいは近代の始まりとともに、ギリシア人にとって作品の本質であったポイエーシス(生―産)から、芸術家の遂行へと、アクセントが移行したのである。古代のポイエーシスが、真理を生産すること、およびその結果として、人間の実在や行動へと世界を開示することであったのに対し、近代の芸術作品は、ひたすら創造の天分に関わる。それらは、倉庫に蓄積された商品よろしく博物館やギャラリーに保存され、鑑賞者に「良き趣味」を発揮するための機会を提供することをもっぱらにするようになる。
天才と趣味、芸術家と鑑賞者のあいだの亀裂こそが近代の特徴であり、趣味の誕生を、ヘーゲルは「純粋な教養」の絶対的な分裂と一致させている。 アガンベンは、ポイエーシス(生―産)とプラクシス(実践)のせめぎあいを古代ギリシアにまで遡って論じながら、ニーチェとともに「世界は、芸術作品として自己自身を分娩するのだ。」と叫ぶ。その時我々は、芸術の古くて新しい相貌を垣間見るかもしれない。 |